七雪*

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4/9/2023, 2:24:28 AM

 あなたの言葉を、私はまだ憶えているの。

 静かに腰を下ろした電車の座席。朝焼けの色がやけに朱く視界に映る。その光景はまるで夕焼けの様にも見える。ただ、日の居場所が違うだけ。淡い日の光に薬指をかざすと、指輪の縁が小さな星の様に、白く輝いた。

 やがて扉が閉まり、私を乗せて電車は動き出す。中々返信の来ない携帯を触るのは気が引けて、窓の外を窺った。私を乗せた電車は進んでいるというのに、空は動かない。じっと、ただ立ち止まってそこにいる。まるで、夜を待っているかのように。私は、指輪にそっと手を触れた。あの人と私を繋ぐ、確かな形が指を通して伝わってくる。あと、一年。地平線の向こうのあの人を想って、片方の手のひらで包み込む。縁に彫られた二人のイニシャルに、指を這わせて。

 アナウンスが車両内に響き渡る。いつもの駅に着いたようだ。まだ目が覚めない太陽の代わりに、白い月が空に昇っていた。夜の時の様な輝きも持たない、ただの白い岩の塊。けれど、違う様で、同じ月な事に変わりはない。不意に、あの人の笑顔が脳裏にちらついた。あの人と私の形も、学生の時とは変わったのだろう。だけど、変わらないものだって、私達の間には存在する。その事に気づかせてくれたのは、他でもないあの人の言葉だった。髪もボサボサで、ちっとも格好なんてついていなかったけれど。でも、来てくれた。逢って、私がずっと欲しかった言葉を私にくれた。互いの想いが、漸く通じ合った。その時の私は、世界で一番幸福だったに違いない。空っぽだった私の心は、確かにその言葉で満たされたのだから。

 随分と長く待たされたけれど、これからその空白をゆっくりと埋めていこう。顔にかかった後れ毛を、耳に掛ける。地平線の向こうの小さな星の持ち主に、笑みを一つ残して歩き出した。

 これからも変わる事のない、たった一つの想いを胸に抱いて。

4/7/2023, 10:54:14 AM

シロツメクサの冠は、私の顔より円形に近い。

冠の窓の先で白いワンピースが蝶々のように舞った。

オレンジ色の向日葵と、黄昏色の麦わら帽子。

冠が映すともだちの色は、いつもより鮮やかだ。



振り向いた友達の顔は、逆光で見えない。

熟す前のサネカズラの実のように

白いワンピースは夕焼けに染まる。

さよならの色が、青じゃなくて良かった。

モンシロチョウが夕陽に向かって飛んでいく姿を

ともだちと二人で見送った。


明日はきっと晴れるから、向日葵も強く咲いていける。

ふたりで作ったシロツメクサの冠を、沈む陽にかざした。




4/6/2023, 12:51:29 PM

 目の前を、一羽の白鷺が飛び去った。
広げた真っ白な翼が陽の光を一時的に遮断し、地上に黒い影を落とす。耳からイヤホンを外し、飛び去った鷺の軌跡を追う頃には、鷺は川の中に潜む獲物を器用に足で捕まえたところだった。
 その雄々しい姿を視界に捉えようと、川を取り囲む柵へと足を踏み進める。鷺の狩りをする姿を写真に収めようと、いそいそと手元のスマホの操作を始めた時。ふと、足元に伸びる一つの人影に気が付いた。スマホを弄る手を止めて、影の元を目で辿ると、川の上流に黄昏れる友人の姿を見つけた。
 無機質な文字盤の短針は南東を指し、空は陽の色に染まりつつある。下校時刻はとっくに過ぎている筈だ。周りを見渡しても、彼女の連れの姿は見えない。それが何となく引っかかって、スマホをポケットに仕舞い込んでから彼女の元へと近づいた。
「久し振り。こんなところでどうしたの」
声が耳に届いたのか、彼女はゆるりとこちらを見た。
「岩里くん?久し振りね」
 彼女とこうして会話するのは、実に二週間振りと言う所だろうか。しばらく話す機会がなかったからか、少しぎこちない会話になってしまう。否、ぎこちなさの原因はそれだけでは無いのだろう。久しく目にした彼女の顔には陰りが見えた。
「何だか、元気ないね」
「……あら、わかっちゃう?」
くす、と小さく笑う彼女の目元には、うっすらと隈が浮かんでいた。
「なんてことは無いのよ。ただ、ちょっと悩み過ぎただけ」
穏やかな川の流れを、彼女は静かに見つめながら言葉を紡ぐ。
「悩んでも答えが見つからない時は、よく此処に来るの。川の流れを見ていると、心が落ち着くから」
「そうだったんだね。……」
 言葉は、続かなかった。彼女と自分の間にできた空白は、時間にしてみれば、ほんの僅かな間だったに違いない。けれども自分にとってこの一瞬は、まるで永遠の一部をを切り取ったかの様に錯覚させた。彼女の髪が、風に揺れた時。彼女の瞳から目を離すことが出来なかった。同年代よりは少しばかり色白に映る横顔を、自分は確かに意識した。彼女の友人という、当たり前の様な自分の立ち位置が、少しもどかしく感じる。彼女の視線が自分に向かい、色素の薄い、琥珀色の瞳がはっきりと自分の姿を映したのを見た。
「でも、今日、貴方に会えて良かった」
 桜色に色づいた頬を上げて、彼女は朗らかに笑う。
夕陽の色を灯した瞳は、鼈甲飴のように絢爛としていた。
 今だけは、自惚れさせて欲しい。彼女の瞳に、真の意味で自分が映る日がやって来ないのだとしても。
 きっと、逢魔時が僕を惑わせたのだ。だから、少しばかり魔が差したとしても、どうか大目にみてはくれないか。そんな言い訳に似た言葉が矢継ぎ早に思い浮かぶ。
 夕陽が地上を煌々と照らす。その下で、二人の視線は確かに重なり、互いに笑みを交わし合った。

 永遠とも取れる短い間。彼女の瞳の中に映る彼の姿に、新たな色が差すのが見えた。

4/5/2023, 1:18:23 PM

 七月の夜。錆び付いたドアノブを捻って屋上に出た。
空は星の群集に覆われ、暗い地上を淡く照らしている。しかし、その光は随分と小さいものだ。現在となっては人工灯の明々とした光には敵わない。人は星を手に入れたのだ。

 自作の望遠鏡を抱え、屋上のフェンスに向かおうとしてはたと気付く。どうやら、今日は先客が居るらしい。夏の夜に溶け込みそうなほどに黒々とした髪を風に遊ばせて、望遠鏡もなしに夜空を眺める一人の姿。その人物の背格好を認識する頃には、その人も此方に気付いたようだった。
「君も星を見に来たの?」
 先に声をかけられた。先客は中性的な見た目をしてはいるが、着ている学生服とその低めの声で、男だとわかった。
「ああ、そうさ。僕は天文部だからね。此処に僕以外の人が居るなんて、珍しいな。隣、いい?」
構わないよ、と彼は答えた。その言葉に甘えて、僕は隣に望遠鏡を設置する。望遠鏡の前にかがみ込み、接眼レンズを覗き込んでピントを合わせる。慣れたものだ。ピントの微調整をする僕の手付きを、彼は興味深そうに覗き込んでいる。
「他に部員はいないの?君一人だけみたいだけど」
そんな彼の素朴な疑問に、接眼レンズから目を外す事なく返答する。
「いないよ。今、天文部の部員は僕一人だけ。部員募集の紙も貼ってないし、廃部寸前さ」
事もなげに言ってみせた僕に、彼は一瞬目を見張り、ふうん、と生返事をしてから、再び視線を空に戻した。
「それよりさ。天文部でもないのに、君はこんな夜更けに何で此処にいるのさ。屋上の鍵は閉まってたみたいだけど」
「んー。センセイに屋上の鍵は借りてるよ。俺、昼休みはよく此処に来るから」
 レンズから目を離し、彼に問いかけると、ポケットから小さめの鍵を取り出して僕の目の前で軽く振って見せる。
 彼は此処に来た理由は言わなかった。彼の目線は相変わらず空を向いていた。しかし、それは空に浮かぶ星を眺めているというよりは、遥か彼方を見つめているように感じる。僕はレンズをいじるのをやめて、彼と同じように立ち上がって空を見た。明るい星しか見えなかった空も、目が暗闇に慣れて、先ほどまでは見えなかった砂粒のような煌めきが、一斉に目に飛び込んで来た。雲一つない快晴の夜空は、星々が形を作りプラネタリウムのように空一帯を包み込む。今日は、絶好の星見日和だ。星々の美しさに瞬きも忘れていた頃、不意に彼が言葉を発した。
「俺、こんなに星が綺麗だったなんて、知らなかった」
 口から転がり落ちる溜め息にも似たその声は、昔の自分自身を想起させた。初めて星の美しさを知ったあの日。お古の白い望遠鏡を側に、街の灯が消えるまで星空を眺めていた。
「そうだろ?」
少し気取った返事をして、僕ら二人を覆う星の群れをみる。

街はまだ、眠らない。

4/4/2023, 11:37:27 AM

 道は一つしかないのだろうか。
暗く、拓けた土地に幾人もの足跡で踏み固められた一本の道が在る。その先には蛍のように淡く、しかし確かな灯が幾つも集まり道を照らしているのだ。ああ、きっとあそこには幸せがあるのだ。常人にとっての幸せの形が。

 しかし、私の中に一片の陰りが差した。今まで、目を逸らし続けてきた事実が、姿をもって私の前に現れたのだ。かつて、先の見えない暗闇の中、一人の先導者が道を切り拓いた。私は、その道を辿っているだけに過ぎない。私のやってきた事は、ただの真似事だ。私は後ろを振り返る。同じだ。何も変わってなどいない。良く言えば安定した、正直に言えば個性の無い普遍的な道がそこは在った。多くの足跡で埋もれた道。私はこの道を何の疑いも持たずに、只、一心に歩んできた。
 私は、他の道を見ようとはしなかったのだ。

 幼い頃、私が真っ白な世界に描いた、虹を切り取ったかのような色の着いた道は何処へ行ったのだろうか。私の頬を、冷たい風がするりと撫でていった。風は、私の追い風とはなってはくれなかった。途端、視界の端に見慣れぬ蝶々が過ぎった。その姿を目で追うと、蝶は道を逸れた暗闇の中を臆する事なく進んで行く。
 私の足は、蝶を追って駆け出した。そこに、恐怖はなかった。昔、二つ隣に住む友人と、こうして蝶を追いかけたことを思い出す。彼は今どうしているだろうか。私の脳裏には、あの夏の記憶が色鮮やかに甦った。しかし、その情景とは裏腹に、私の耳には静かな波の音が木霊した。

 ふと、人の気配を感じて、背後を振り返る。見慣れた顔が、道の真ん中に立っていた。彼は、此方に気付くと、和かに笑って私に手を振った。がんばれよ、と懐かしい声が風に乗って私に届く。無性に泣きたい気持ちになって、喉が締め付けられた様な錯覚に捕らわれた。溢れそうになる涙を抑えようと、一つ瞬きをすると、彼はもうそこに居なかった。もう、私の後ろに、私を引き留めるものは、いない。私はもう一度、前を向いた。立ち止まりそうになった足をがむしゃらに動かして、蝶の消えた道を走り続けた。背後はもう、振り返らなかった。

 水の弾ける音がして、暖かい陽の光が、私に手を差し出すのが見えた。

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