令和7年4月7日
お題 「フラワー」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
1989年 東京
大学進学で上京した海内 洋は高校の三年間だけを過ごした田舎街を回想していた。
「回想」
1982年
父の転勤に伴って彼方此方転校して出会いと別れを繰り返し、そういうことにドライになったのかも知れないが、高一の春のあの出会いだけは鮮明に覚えている。自分の思春期という青い春がようようと明けて、紫色の雲が薄くたなびいて、そこに明けの明星がくっきりと光っているような、そんな出逢い。何故そんなに輝いて見えたかと言えば、あの凛とした横顔と意思の強そうな人を見抜くような目力だろう。「あのヤロウみたいな目が好きだ」それが率直な第一印象、けれど、春の海岸を二人歩いてみれば、「桜貝はどこから来るんやろ?」
「お前、ポエマーか?それコバルトの読み過ぎやぞ」と言いたくなるようなことを話出したり。「深夜の句会」というラジオ番組のコーナーに、何通も葉書を出してみたり。「かぐや姫の「神田川」って曲は今じゃなくて過去を歌っていて、昔の恋を歌っていて、今が幸せだから、昔の彼のことをこんな風に言えるんやろねぇ…」とまた話はじめる。洋は、その度「はぁ?はぁ?はぁ?」の連続で、そんな何時も教科書に載っていない試験にも関係ない勉強以外のことを、クソ丁寧に真面目に取り組み、集中し調べ時にはその舞台となった土地に、ふらっと旅に出てしまう絶賛思春期真っ最中の之子の言動が危なっかしいやら面白いやらで、高校三年間の全てに鶫 之子が居て、あの島の潮風の匂いが全て鶫 之子の匂いだった。之子の方は之子の方で、ちっともやる気がなさそうでクラスにも馴染めていない、気に食わなければ教師にも喰ってかかる多分自称一匹狼だと思っているなこいつはな、海内 洋が気にはなっていたが、おタカの気持ちに先に気づいてしまったので、自分の気持ちには気づかないふりをしていたが、お互いまだ15の夜の少年少女たち、色に出にけりで見ていれば分かりやすく気づいてしまう三の角の間の系なのであった。
初夏の放課後図書室の窓から夕暮れの校庭を走る海内を之子は見ていた。遠くから、おたかの声が聞こえた。「あんたらなんで付き合わんの?お互い好きなくせに、目障りなんやけど」なんとも、おたからしい言い草。之子は、おたかさんのこういうところが何故かとても好きであった。彼女の存在は稀有である。とても努力家で塾にも行かず家庭教師もつけずに成績は何時も学年トップクラスで、誰よりも早く登校して部活。おたかも海内と同じ陸上部の朝練に出て放課後も出来うる限り走る真っ直ぐに走り続ける、「おたかってメロスみたい」「はあ?また、之子な脳内たんぽぽの綿毛状態はじまったぁ?」と返された。すると之子は「わたし、おたかやったら待てるわ!」と言った。おたかは「意味分からん、なんか、また頭のなかで話はじまっとるん?」「とにかく、あんたら付き合わんかったら、殺す!」とだけ言いに来て図書室を出て行った。それを、聞いていた桐子が「なあ、これっが、青春?」と聞いたので之子は、すかさず「君は、何を今見つめているの♪…」と歌った照れ隠しであったが、桐子はノッてくれた。「燃やそうよ、二度とない日々を♪」
それが、1982年5月
一学期末テストの後、之子は洋を映画に誘いテスト明け、はじめて二人で観に行ったのが「ブレイドランナー」「ターミネーター」を渋くしたような映画であるが、「ターミネーター」は1982年夏、世には出ていないので二人は、まだ知らない。
この素晴らしい記念すべき1日と映画を之子は緊張し過ぎて全く覚えていない。ただ、映画館を出た後に喫茶店で飲んだレモンスカッシュが美味しかったことだけはハッキリと覚えている。
初恋はレモンスカッシュの味だ。
その、帰り道はっきりと海内洋から「好きやから、付き合ってくれ」と言われたらしいが之子は、それも覚えていない。証人は変装して後をつけていた、おこまだけだった。おこまはこういう時だけ単独行動をする。
光と風の中で、腕をくんだ青い夏が輝いて見えた。
つづく
「フラワー」
フラワーと、いうととても軽く聞こえるのが不思議。「フラワー」と呼ばれるより「花」「華」と呼ばれたいねぇ、女なら一生に一度ただ一人の「花」になりたいね。どうせなら「Flower」よりもフランス語の「Fleur」が語呂的には妖精のようで好きだ。
「花」には負けると思うが。
そうそう「フラワー」と言われると、どうしても「ダンシング・フラワー」のあのちょっとアホっぽいコミカルで滑稽な動きを思い出す。確かに、玩具ぽくってアメリカンな陽気さはある。「陽キャラ」ってやつwww
花見あげ 思い起こすは 君の声
碧海 曽良
「花」にはなれない「フラワー」さん(笑)
好き嫌いなんて誰にもあるでしょ。手向けるものなら贈る人の好みを考えるのが、優しくあることで、それこそ供花やろ〜ぉ、そういうの屁理屈って言うのよなぁwww
尊さとは別の話だし、順序知らん奴は歴史語る資格ないし、供花は贈る故人の好みを考えるのが思いやり、だから好みを語り合い知るのは大事なこと押し付けではなく。
花の命の尊さとは全く別の話だわwww
メンタリストセンセーはそんなことも推し量れないのか🌾🦜🌙
ライングループ
既読にだけして、ほっときゃ良いらしいですよ
うちの旦那が言ってます。
令和7年4月6日
お題 「新しい地図」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
平成元年5月
之子は街にひとつの図書館に向かっていた。桐子と待ち合わせをしていたのだ。GW明け帰省と言いたいところだが、之子は転職を考えて百貨店を辞めていた。そして、この6月から新入社した職場研修が東京本社で行われる。所謂合宿みたいなもの、平成元年1989年当時は、普通にあった合宿形式の研修は、ハワイや他海外で行われる会社も少なくなかった。之子は、春彼岸の平成はじめての帰省で、なにか心に置き忘れたような、なごり雪の落とし前をつけるべく東京行を決意したのであった。おりしも、東京本社のメイカー営業課長であった、外海 隆(とのが たかし)に気に入られ引き抜きという形で、東京のDCブランドメイカー勤務となったのであった。その本社研修までの間の帰省であった。
そんな、帰省中に平成初同窓会が決行されることが決まり、地元で就職した新婚、新婚旅行から帰ったばかりの桐子が同窓会の幹事に選ばれ、手伝いをする名目で待ち合わせた。
午前10時前、もうすっかり初夏の様子の街並みにそよぐ風。水を張り田植えが終わり、梅雨が来る前の一時の風を受け自転車を走らせて来たのである。渡る風に含まれる青葉から香り立つ湿気は梅雨の時期ほどに重くなく、潤った風は爽やかな草木の匂いを運ぶ、そんな風を頬に受けながら久々に自転車を走らせた。
「回想」
1982年 昭和57年4月
双葉学園海南高等部・体育館
この四月から男女共学になった元双葉学園海南女学院高等部一年生が会する体育館講堂には、圧倒的に女子が多く、数少ない男子生徒たちは目立っていた。そんな中でも良くも悪くも目立ったのが海内洋だが、転勤族の父親に伴い越して来た彼のことを知る者は少なかった。だから余計に目立つ。仕切りたがりやの、リーダーおたかは、海内洋が入学式翌日から遅刻して何くわぬ顔で挨拶も詫びもなく教師の前を通り抜け席に着いたのが気に入らなかったらしく、教師でもクラス委員でもないのに、海内に文句を言い、海内も海内で言い返し軽い争いになってから、海内は素知らぬというより、おたかを避けているのに、おたかは例の顔を🤬←こんな風にして、海内洋を追いかけ回ていた。と、いうより之子は、おたかの海内への想いに薄々気がついていた。おたかは人を気にし過ぎる自称繊細と自分を理解しているようで、気疲れを始終するとボヤくのだか、その割に人の気持ちに疎く空気を読めないところがある。だから、頓珍漢にドラマや物語を読みドラマと現実の区別がつかない「おしんに米食べたせてやってくれ」とテレビ局に新米送る田舎の親父みたいなところがあり、実際ありもしない作り話に本気で切れて怒ったりする。正義感が強いと言えば聞こえは良いが、直角にしか曲がれない融通の利かなさはあった。それは、おたかの温かみに欠ける家族関係に原因が有ったのかも知れない。
空気なんて読むものじゃないという点では之子も同じなのだが、之子は、片親育ちでも、おたかと違い、交通遺児であり、父を愛していたし、家族親族近所仲が良く人の中で育った。
之子の家は、母が主体となって働く家である。祖母や近所の親戚や大人や年の離れた従姉妹などの中で一人っ子であったが故に、その人の集まりの中で自分のやるべきこと取るべき行動を考え、人が望むものを知らずと見極めようとする力がついているようであった。天然で人のことなど気にしていないようで、人を見、人の気持ちを読める勘の鋭い之子に、おたかは一目置いているのであるが、この日、おたかは人が恋に落ちる瞬間というものを、生まれたての我が初恋の相手に見てしまうのである。
之子は、桜の花弁がひらひらと窓から風に乗って運ばれてくる講堂で、生徒たちを前に作文を披露していた。タイトル「新しい、はじまりと夢」入学式新しい共学というスタイルへの期待からはじまる作文は、途中トーンが変わり、吉野弘の「夕焼け」を引用する「…少女の想いを感じて考えて解ろうとし労れる人になる、それが私のこの三年間の夢だ」と読み上げた。飾りげのない凛とした横顔に舞う桜の向こうから光が差して、之子の大きい目の奥にある鳶色の瞳に反射していた。それを、下を向いてばかりだった海内洋は顔をあげて、好奇心あふれる顔つきで見つめていた。それは、まるで少年が夏休みに黒ぐろと輝く大宮クワガタを見つけたような瞳であった。おたかは後にその日のことを之子に話すのだが、この日胸にポチリと空いたような痛みを感じていたのである。それは、人の心の機微に疎い直角にしか進めない、おたかにも解ったのであった。
つづく
「新しい地図」
なんだか、どこかで聞いたことあるような、、
新しい地図貰ったって、順序違えていい気になって、ふんぞり返っているようじゃ辿り着けない。物事には順序がある。冬物語が連れて来る梅が咲いてこぶしが咲いて白木蓮が散るころ桜が咲いてその桜が満開になる頃、梅は長い花の時を終える。だから、昔の人は我が娘に花の時を長くの意味を込めて「梅」と名付けた。女性の名前花のつく名前は昭和二十年過ぎまで「梅」がつくが常識だ。すぐに散る「桜」は名前には相応しくないとされていた。
巡る花時計の順序、順序は歴史であり歴史は秩序。これも弁えぬ者は、全く理由も分からず、上っ面の言葉だけ邪推して文章を書くけど全く的を射ていない。だから、どこからどう読んだって観たって女性向けのラブストーリーに気持ち悪い感想を恥ずかしげもなく投稿する。あんなの、いい年した男が、一人で観て感想ちまちま打ち込んでたら気持ち悪いわ。まあ、人の勝手だけどさ、モテたためしないんだろうなって可哀想になる。そもそもあれ闇ちゃんなのは男どもの方だわ、息子ちゃん可愛いくて、手放せないママちゃん闇の原因だって、もしかしてじゃなくて見たままだしね(笑)そこは、いい年して現実と作り話一緒くたにしたら新しい地図貰っても辿り着けないに決まってます。
前に進む為に過去があり歴史があり順序があり秩序の上に自由な型破りがある。
型破りは型があるから出来ることなんよ。
これ普遍🌾🦜🌙
令和7年4月5日
お題 「好きだよ」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
ここでひとつ、之子たち四人組を紹介すれば、
女の友情とは、いつの時代もきな臭いものだと言わざるを得ないのだ、リーダーの席を守りたい、おたかは四人の中で一番成績も体格も良かったし、クラスも仕切るタイプであったが、自分の正しさや正義をことのほか気にするのである。おたかは、さながら学園警察の司令官風紀委員長であり、男子には不人気であった。背が高いうえに、剛毛質なおたかの髪は鬣か孟宗竹の葉のように刺々と突き出て、それを見て男子たちは、孟宗竹の竹と貴子の貴を取り替えて「タケコ、タケコ」「大タケ」と呼んだりして揶揄った、気位高きおタカはそれに傷ついていると悟られるのさえ嫌な様子で、おこまが何時も「酷いよなぁ、うちらが「おタカ」って呼ぶからあかんのかなぁ、、貴子って呼ぼか?」と、ことさら気遣っているように寄り添っているよと言うのも癇に障るらしく、イライラした口調で「平気や!あんな不良相手にせんとき」と始まり延々不良断罪を始めるのであるが、そんな、おたかの想い人は、何を隠そう、学年一喧嘩ぱやい孤高の不良番長海内洋であった。女って、真面目な堅い女ほどヤンキーが実は好きの典型で、実は四人の中で一番メンヘラなのが「おたか」であった。おたかの家は母子家庭でそんな点は之子と同じであるが、おたかの両親は離婚、おたかの他に妹と弟を連れて出戻ったおたかの母は役場の保健師としてこの一家を支えていた。幼い頃から両親が不仲で、思春期に差し掛かるころ他所に女を作り出て行った父を、おたかは恨んでいた。そんな点では之子とは随分違い、おたかさんは人の間違いや失敗に寛容さがなくヒステリックなところが垣間見える少女であった。そんなおたかに寄り添っいるようで実は、おたかを利用するあざと可愛いのが、おこまであった。街の名士の娘で小柄で色白な、おこまは自分がどう振る舞えば良いかを常に考え行動する賢い娘であった。どこか内心、成績優秀な、おたかにライバル心を燃やし、おたかもまた、街の名士の娘にだけは負けたくない、自分がおこまに勝るのは勉強と生真面目さだけだと解ってでもいるように、学業と規律正しさだけには懸命であった。おたかは家庭の事情もあり、大学も県下の国立、就職はUターンで母校の音楽の教師。おこまは、大きく差を付け東京有名私大、就職は都銀と二人の価値観の上では、おこまは大きく差をつけたように見えていた。
之子と、桐子は、その中でもよく気が合い二人は何時も一緒だった。気を許す人にしか打ち解けない柴犬みたいな桐子は一見大人しく渾名も無く「キリコ」のまま。之子は人見知りだが慣れると勝ち気が出るが呑気で飄々としている天然気質で、どこか文学的で女性らしい「ゆきこ」は名前負けで「ノコ」と呼ばれていた。
之子も桐子も読書好きの夢想家、独特の世界観を二人は持っていて、二人とも文芸部。放課後は図書室で遅くまで誰も理解しなさそうな二人の世界で盛り上がっていた。
お題は、大抵その詩をどう読むか?みたいな話だ、例えば、「木綿のハンカチーフ」は、あれはあの終わりで良いのか?あれで終わりか否かであったりする。之子が、「そらぁ、口紅もつけないままかぁ♪やなんて、ふられるわなぁ」と言えば、「彼は、都会の生活に疲れて戻って来るんちゃう」と桐子。桐子は、わりと何時も少女趣味で女の子らしくて素朴で優しい。そんな桐子が友人として同じ女子としてかなり「好き」な之子は、何時も男の子みたいなサバサバ気質を恥じ「そーやねぇ、帰って来て彼女の素朴さに癒されて、気ぃーついてハッピーエンドみたいなやつぅ?」と二人で、しょーもない鉛筆対談みたいな遊びをしていたのである。わりと二人とも強情っぱりで芯が強いところがあり、時々揉めたのも楽しい想い出だ。
だいたい、そんな時は仲裁に入ろうとする、おたかだが、結局二人の世界観がさっぱり解らず、それでも解ったふりをして、裁こうと必死になるから二人に、「これ、作り話やん、しかも素人のうちらが考えた」と笑われ、さらにムキになり顔を赤く🤬して、おたかさんは怒るのである。
之子は、今暮れゆく春浅い空にぼんやりと、そんな日のことを思い描いていた。
平成元年弥生三月は暮れてゆく。
「好きだよ」
好きだよと 梅に鶯 待つ桜
花鳥
好きだよと 順序違えて 散る桜
ボケ桜
花の立場?そりゃあ、撮らないこと騒がないこと散らかさないってことじゃないですかねwww
桜なんて静かに見送るからこそなものです。
人間なんて可笑しいねと思ってらっしゃるのでは?あちらは神木。あなたに嫌われたらなんだと言うの?好かれたらなんだって言うの?あんたって神?人間じゃないの? 私が解ってあげる、乗り越えてあげるどんなけ上からか解って言ってるのか?そりゃあ悪いが他あたってくれって言われると思うわwww
個人的にそ~いうのが一番最低だと思っているわ。 はい、それ、人間のエゴ個人的主観、好きは好き嫌いは嫌いで良いのでした🌟 好きも嫌いも自分の勝手な、ただの自分主役の主観的自意識でしかないのよと🌸 だから、あんたに好かれようが嫌われようが関係ないのよ、だから、喉元三寸止めておくならその止めておくも止めるべきでは?センセーなに自分高く見積もって被害者ぶってるんだろ?誰かを悪者にするなら自分が悪者にならなきゃ慈愛の仕事が泣きますよ。
おやすいみ〜🐠
令和7年4月4日
お題 「桜」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
1989年 平成元年五月
之子は東京にいた。
百貨店社員からアパレル会社に転職配属は東京渋谷の百貨店。なにが、どうしてあの東京嫌いがここに居るかと言えば、イルカであった。
回想
平成元年の春彼岸祖母の入院の知らせを聞いて帰省80超えの老体に心配を募らせ帰省してみれば、「ただの風邪だ、なにしに帰った!まだ殺すな!」怒鳴り散らされ笑いとばされ、散々な目にあった之子であったが、元号が平成になってからこちら、明治、大正、昭和、平成と生き抜く祖母への心配が後から後から重なり、静かな瀬戸内の海に未だ見えぬ波濤のように押し寄せる悲しみの夢を之子は最近よく見るのである。そんな想いもあっての帰省の中、之子は高校時代の友人たちと久々に集まっていた。
之子、貴子、桐子、駒子の四人は中高一貫の彼女達が高一に上がる年共学校になった高校で持ち上がり組、同級生四人組。之子と駒子は一人っ子で特に駒子は街の事業組合長と町長を務める家の一人娘だったから島に残るかと思いきや東京の大学へ、そして就職も東京に決めたという早業、就職戦線異状なしの俺たちバブル入行組なのである。駒子は某都銀に入行が決まっていたのだ。島から外に出たのは之子と駒子の二人。
リーダー的存在であった貴子は地元の国立大学を出てUターンで母校の教師になる予定。之子と同じに地元の短大を出た桐子は地元での保母を経てこの五月には結婚するとのことだ。それぞれが、近況を伝え合い、質実剛健に生きている友人たちを横目に、春の遠浅にプクリと息を吐くあさりのように、何処となく漂っています風情の之子なのであった。
「ノコは、大阪の暮らしは慣れた?」之子はノコではなく「ゆきこ」と読むのだが、何処か飄々と掴みどころがなく、呑気な子でノコであった。リーダー格のマウンターおたかが言うところ立場逆転のバブル入行の、おコマが聞いた。昔から、おタカとおコマは学力が似ていておまけに、気位ちょい高目な気質も似ていた
。小さい方のおコマは、大きい方のおタカにライバル心を燃やし、ついに都銀入行という事実で組み伏せたような感であろうか、この再会の席を仕切っている。
どこ吹く風のノコはノコで「楽しぃやってるでぇ」と全く抜けない言葉で東京もんの言葉の、おコマに答えた。
「相変わらずやねぇ」よそ行きの東京もんの言葉から引っ張られて、おコマが答えると皆が笑った。
之子は、ふとあのなごり雪の朝を思い出していた…。海内 洋とは、高校卒業後、幾度か行き来し合い、手紙や電話のやり取りもあったが、一年もしないうち、之子が短大二年になる頃、
自然に連絡が途絶えがちになった。元々他所から越して来た洋には、この島への想いも之子たちほど深いものでもない様子で、之子には、それがとてもドラライに感じられ互いの若さもあり次第に離れていったのである。
どうしてるやろなぁ…。
之子は、そんな想いを胸に四人でガヤガヤやるテーブルから視線をあげて、窓の外を見つめた。春彼岸、その日は麗らかな春を感じさせる日で、四人が集まった、喫茶店の窓から見える桜坂の桜が蕾を緩ませているようだった。
なごり雪は 降る時を知り
ふざけ過ぎた 季節のあとで
今春が来て 君は綺麗になった
去年より ずっと綺麗になった…はず笑笑
洋くんも、今年就職だよな、、
之子は、なごり雪が、まだ溶けずに心の奥に
残っていることに気づいた。
それは、平成元年春彼岸のことであった。
つづく
「桜」
君の頬 とまる桜に 口づけす
碧海 曽良
さくら 独唱
作詞 森山 直太朗
僕らはきっと待っている
君とまた会える日々を
さくら並木の道の上で
手を振り 叫ぶよ
どんな苦しい時も 君は笑っているから
挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ
霞ゆく景色の中に あの日の唄が聞こえる
さくら さくら 今咲き誇る
刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って
さらば友よ 旅立ちの刻
変わらない その想いを 今
今なら言えるだろうか 偽りない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉
移りゆく街はまるで 僕らを急かすように
さくら さくら ただ舞い落ちる
いつかは生まれ変わる瞬間(とき)を信じ
泣くな友よ 今惜別の時
飾らない あの笑顔で 今
さくら さくら いざ舞い上がれ
永遠にさざめく光を浴びて
さらば友よ またこの場所で会おう
さくら舞い散る道の上で
桜と言えば私はこの曲、そしてこの曲はタイトル通りに独唱したくなる曲であり、桜といえば散りゆく運命の「散る桜 残る桜も 散る桜」なのである。そして、私はこの花に特攻隊の青年たちを、どうしても重ねてしまうのである。
だから、桜を浮かれた気持ちで見あげることが私は出来ない。
「桜は別れの花である」
フランス映画だと、桜の花言葉は「私を忘れないで」だから、戦争に行く男性に対して恋人が「私を忘れないで」の意味を込めて桜を贈ったそうだ。
散る桜を見あげる度に、この世を有り難う御座いました。どうか、生まれ変わってらして、この世を、この桜を謳歌してらしてください。と思ってしまうのである。
桜を見あげ、ただ綺麗だと浮かれ気分で酒を飲み綺麗だ綺麗だと囃し立てる気分には、なれない。あの花は静かに愛でる花である。
刹那な時の間を感じずにはいられないからである。
その時の間に、あの日の彼らがいるようで、散りゆく運命の桜に涙してしまうのである。
「桜について」 碧海 曽良
花を見ても結局、わたしわたしなんだね君たち気づいてますか?笑笑
僕が楽しい、私がみすぼらしい、俺が気持ちが悪い悪くないetSETOra〜etSETOra。最後は私が花ですの極みに笑えた。
今の子には解らないと思う、確かに小6だわ(笑)で、あなたはどれ? 結局、どいつかを叩きたいだけで、ご自分の愛で方が一番正しいと言ってらっしゃいますよねぇセンセー。そんなの皆一緒です。まず花見の起源は奈良時代の貴族が愛でた梅。桜は桜で美しいけど、腹斬って潔く散ってくれの武士の花、それが順序、日本人なら知っておきたいね。
タイトルからして気持ち悪いものを観て気持ち悪いと書き込み、観たまんまやんwww で、どうしろと、私様が俺様が気持ち悪いから放送すんなと?何様か?え?え?戦時中の検閲か?自由な多様な価値観は何処行った。あんたの好き嫌いで変わったら怖いわwww 世直しマンか?そっちの方が病んでると思うでwww
令和7年4月3日
お題「君と」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
なんだかんだで、あの心細く降る雨と低い空を見あげた入社式から、あっという間に二年が経とうとしていた。大阪の老舗百貨店、バブル期全盛を極めたアパレルフロアーに、流行り出した女性ニュースキャスターみたいな格好をして立っているのが之子。自称するのは勝手のイヤ、わりとよくそう呼ばれている、なんちゃって安藤優子。本人なりきりさんだ。格好だけでもなく、馴染むのは早く売り上げも良かった。ひとりっ子育ちに有りがちな、借りてきた猫から、育った通りの暴れ猫に変身で走りまわっていた。
1989年1月7日(土)天候は雨
それは、昭和が終わった日。
もう、かなり以前からカウントダウンは始まっていたから、前の晩からテレビはつけたままだ。
午前6時33分 一斉に特別番組に切り替わった。之子も仕事の段取りがあったので、このニュースを観ていた。社会人ニ年目も終わろうとしていた。仕事にも一人暮らしにも慣れて、もうすぐ後輩がまた出来る。そんな浮ついた気持を戒めるような朝のニュース、「昭和が終わった」永遠に続くものなど何もない、ことをかの方は、我が子供たちに教えてくださいました。長過ぎた昭和、はじめと終わりの価値観のギャップたるや。その全てを包容された方が逝きました。之子は、お祖母ちゃん子でしたので明治34年生まれの昭和天皇と明治39年生まれの祖母を畏れ多くも勝手に重ねその向こうに、幼い頃に別れた祖父と父の面影を見る少女でありました。その頃にはもう、研修や展示会で、あの薄汚れた感じの東京へも一人で行くようになり、昨年は、皇居に訪れ昭和天皇御回復の記帳を祖母母の想いも込めて、記していたのでした。この、之子以外にも居たであろう、昭和という時代に良くも悪くも育まれ生きた人々、市井の日本人の記帳という細やかな心を裁く事件が後に起こりますが、この時はただ、田舎育ち明治生まれに育まれた子供は、本家のお祖父様が亡くなったような気持ちでテレビを観ていました。
1989年1月7日 午後2時36分
新しい元号「平成」が発表され、翌朝1989年1月8日より平成がスタートしました。
こうして、昭和は、64年という3世代4世代、4つくらいのゼネレーションが混在する時代でありましたが、幕を下ろしました。はじまったものはいつか終わる。昭和もまた、明治大正の人々に新しい時代と言われ生まれ、その明治もまた、新しい時代であったのです。今、はじまったばかりの「平成」という時代もいつの日にか終わり、新しい者たちに古い者と呼ばれる日が来るのだろうか?しかし、それも玉響。
日は暮れ、また昇り続ける限り、いつかは、新しいものは古いものと呼ばれる日が来るのだ…。
「諸行無常って、こういうこというのかなぁ、、、」
相変わらず、明治生まれと茶を啜りながら育った之子は、そんなことを考えてみる。
そうしてふと「ばあちゃん、天皇陛下の五つ下やけど、そういう年なんやねぇ、相変わらず口やかましく元気そうやけど」そう思いながら実家に電話をするのであった。
1989年1月7日 その日は、多くの企業が休みになり。之子の勤めるデパートも休業であった。朝礼には参加し黙祷をし売り場を片付け帰ったのはもう夕刻であった。
新聞を広げると、一面全面「昭和天皇防御」の文字で埋め尽くされていた。
鶫 之子22歳の年は明けた。
つづく
「君と」
君がため 嘘でも花は 咲きにけり
情は人のためならず
後書き
他人のせいにするのは簡単だから、とりあえず「わたしもぉ」「わたしもぉ」と言っておけば
いつでも、「そんなつもりじゃなかったの、あの人が、そう言ったから…」の自己弁護。そんなつもりはどんなつもりか?他人の意見の尻馬に乗って、都合わるくなったら逃げるの一番「わたしもぉ」にはそんな嫌らしさを感じてならない。私は良い人良い子って見せたいのが見え見え。そんなの意見じゃないからな、意見するときは「私は、…です」覚えとけ。
下はいくらでも、ハラスメントだなんだと突き上げが出来るが、トップに立つと突き上げは出来ない。トップは常に孤独である、そして誰かがやらなきゃその企業は潰れる。そして、下を守って当然で、守れなければ、その企業の終わりを意味するのである。鼠は楽で良い、近頃は逆ハラスメントなんて言葉もあるが、それもやっぱり雇われだから言えることである。中小の一人で全部背負ってる社長が逆ハラスメントで社員訴えるなんて本末転倒なこと出来やしない。だから、いつも孤独で孤高の中小企業の社長たちだ、その者たちが日本経済を支えた。そんな時代も終わりを告げ社長が社員を逆ハラスメントで訴えるなんて、話も起こるのかねぇ、それが多様な価値観なんだろ、不公平はいけないからな。
世も末だ(笑)