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令和7年4月6日

 お題 「新しい地図」


「まだ見ぬ、波濤」   作 碧海 曽良 

平成元年5月

之子は街にひとつの図書館に向かっていた。桐子と待ち合わせをしていたのだ。GW明け帰省と言いたいところだが、之子は転職を考えて百貨店を辞めていた。そして、この6月から新入社した職場研修が東京本社で行われる。所謂合宿みたいなもの、平成元年1989年当時は、普通にあった合宿形式の研修は、ハワイや他海外で行われる会社も少なくなかった。之子は、春彼岸の平成はじめての帰省で、なにか心に置き忘れたような、なごり雪の落とし前をつけるべく東京行を決意したのであった。おりしも、東京本社のメイカー営業課長であった、外海 隆(とのが たかし)に気に入られ引き抜きという形で、東京のDCブランドメイカー勤務となったのであった。その本社研修までの間の帰省であった。

そんな、帰省中に平成初同窓会が決行されることが決まり、地元で就職した新婚、新婚旅行から帰ったばかりの桐子が同窓会の幹事に選ばれ、手伝いをする名目で待ち合わせた。

午前10時前、もうすっかり初夏の様子の街並みにそよぐ風。水を張り田植えが終わり、梅雨が来る前の一時の風を受け自転車を走らせて来たのである。渡る風に含まれる青葉から香り立つ湿気は梅雨の時期ほどに重くなく、潤った風は爽やかな草木の匂いを運ぶ、そんな風を頬に受けながら久々に自転車を走らせた。

「回想」

1982年 昭和57年4月 

双葉学園海南高等部・体育館

この四月から男女共学になった元双葉学園海南女学院高等部一年生が会する体育館講堂には、圧倒的に女子が多く、数少ない男子生徒たちは目立っていた。そんな中でも良くも悪くも目立ったのが海内洋だが、転勤族の父親に伴い越して来た彼のことを知る者は少なかった。だから余計に目立つ。仕切りたがりやの、リーダーおたかは、海内洋が入学式翌日から遅刻して何くわぬ顔で挨拶も詫びもなく教師の前を通り抜け席に着いたのが気に入らなかったらしく、教師でもクラス委員でもないのに、海内に文句を言い、海内も海内で言い返し軽い争いになってから、海内は素知らぬというより、おたかを避けているのに、おたかは例の顔を🤬←こんな風にして、海内洋を追いかけ回ていた。と、いうより之子は、おたかの海内への想いに薄々気がついていた。おたかは人を気にし過ぎる自称繊細と自分を理解しているようで、気疲れを始終するとボヤくのだか、その割に人の気持ちに疎く空気を読めないところがある。だから、頓珍漢にドラマや物語を読みドラマと現実の区別がつかない「おしんに米食べたせてやってくれ」とテレビ局に新米送る田舎の親父みたいなところがあり、実際ありもしない作り話に本気で切れて怒ったりする。正義感が強いと言えば聞こえは良いが、直角にしか曲がれない融通の利かなさはあった。それは、おたかの温かみに欠ける家族関係に原因が有ったのかも知れない。 

空気なんて読むものじゃないという点では之子も同じなのだが、之子は、片親育ちでも、おたかと違い、交通遺児であり、父を愛していたし、家族親族近所仲が良く人の中で育った。

之子の家は、母が主体となって働く家である。祖母や近所の親戚や大人や年の離れた従姉妹などの中で一人っ子であったが故に、その人の集まりの中で自分のやるべきこと取るべき行動を考え、人が望むものを知らずと見極めようとする力がついているようであった。天然で人のことなど気にしていないようで、人を見、人の気持ちを読める勘の鋭い之子に、おたかは一目置いているのであるが、この日、おたかは人が恋に落ちる瞬間というものを、生まれたての我が初恋の相手に見てしまうのである。

之子は、桜の花弁がひらひらと窓から風に乗って運ばれてくる講堂で、生徒たちを前に作文を披露していた。タイトル「新しい、はじまりと夢」入学式新しい共学というスタイルへの期待からはじまる作文は、途中トーンが変わり、吉野弘の「夕焼け」を引用する「…少女の想いを感じて考えて解ろうとし労れる人になる、それが私のこの三年間の夢だ」と読み上げた。飾りげのない凛とした横顔に舞う桜の向こうから光が差して、之子の大きい目の奥にある鳶色の瞳に反射していた。それを、下を向いてばかりだった海内洋は顔をあげて、好奇心あふれる顔つきで見つめていた。それは、まるで少年が夏休みに黒ぐろと輝く大宮クワガタを見つけたような瞳であった。おたかは後にその日のことを之子に話すのだが、この日胸にポチリと空いたような痛みを感じていたのである。それは、人の心の機微に疎い直角にしか進めない、おたかにも解ったのであった。

つづく

「新しい地図」

なんだか、どこかで聞いたことあるような、、

新しい地図貰ったって、順序違えていい気になって、ふんぞり返っているようじゃ辿り着けない。物事には順序がある。冬物語が連れて来る梅が咲いてこぶしが咲いて白木蓮が散るころ桜が咲いてその桜が満開になる頃、梅は長い花の時を終える。だから、昔の人は我が娘に花の時を長くの意味を込めて「梅」と名付けた。女性の名前花のつく名前は昭和二十年過ぎまで「梅」がつくが常識だ。すぐに散る「桜」は名前には相応しくないとされていた。

巡る花時計の順序、順序は歴史であり歴史は秩序。これも弁えぬ者は、全く理由も分からず、上っ面の言葉だけ邪推して文章を書くけど全く的を射ていない。だから、どこからどう読んだって観たって女性向けのラブストーリーに気持ち悪い感想を恥ずかしげもなく投稿する。あんなの、いい年した男が、一人で観て感想ちまちま打ち込んでたら気持ち悪いわ。まあ、人の勝手だけどさ、モテたためしないんだろうなって可哀想になる。そもそもあれ闇ちゃんなのは男どもの方だわ、息子ちゃん可愛いくて、手放せないママちゃん闇の原因だって、もしかしてじゃなくて見たままだしね(笑)そこは、いい年して現実と作り話一緒くたにしたら新しい地図貰っても辿り着けないに決まってます。

前に進む為に過去があり歴史があり順序があり秩序の上に自由な型破りがある。
型破りは型があるから出来ることなんよ。
これ普遍🌾🦜🌙



4/6/2025, 12:27:47 PM