令和7年4月5日
お題 「好きだよ」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
ここでひとつ、之子たち四人組を紹介すれば、
女の友情とは、いつの時代もきな臭いものだと言わざるを得ないのだ、リーダーの席を守りたい、おたかは四人の中で一番成績も体格も良かったし、クラスも仕切るタイプであったが、自分の正しさや正義をことのほか気にするのである。おたかは、さながら学園警察の司令官風紀委員長であり、男子には不人気であった。背が高いうえに、剛毛質なおたかの髪は鬣か孟宗竹の葉のように刺々と突き出て、それを見て男子たちは、孟宗竹の竹と貴子の貴を取り替えて「タケコ、タケコ」「大タケ」と呼んだりして揶揄った、気位高きおタカはそれに傷ついていると悟られるのさえ嫌な様子で、おこまが何時も「酷いよなぁ、うちらが「おタカ」って呼ぶからあかんのかなぁ、、貴子って呼ぼか?」と、ことさら気遣っているように寄り添っているよと言うのも癇に障るらしく、イライラした口調で「平気や!あんな不良相手にせんとき」と始まり延々不良断罪を始めるのであるが、そんな、おたかの想い人は、何を隠そう、学年一喧嘩ぱやい孤高の不良番長海内洋であった。女って、真面目な堅い女ほどヤンキーが実は好きの典型で、実は四人の中で一番メンヘラなのが「おたか」であった。おたかの家は母子家庭でそんな点は之子と同じであるが、おたかの両親は離婚、おたかの他に妹と弟を連れて出戻ったおたかの母は役場の保健師としてこの一家を支えていた。幼い頃から両親が不仲で、思春期に差し掛かるころ他所に女を作り出て行った父を、おたかは恨んでいた。そんな点では之子とは随分違い、おたかさんは人の間違いや失敗に寛容さがなくヒステリックなところが垣間見える少女であった。そんなおたかに寄り添っいるようで実は、おたかを利用するあざと可愛いのが、おこまであった。街の名士の娘で小柄で色白な、おこまは自分がどう振る舞えば良いかを常に考え行動する賢い娘であった。どこか内心、成績優秀な、おたかにライバル心を燃やし、おたかもまた、街の名士の娘にだけは負けたくない、自分がおこまに勝るのは勉強と生真面目さだけだと解ってでもいるように、学業と規律正しさだけには懸命であった。おたかは家庭の事情もあり、大学も県下の国立、就職はUターンで母校の音楽の教師。おこまは、大きく差を付け東京有名私大、就職は都銀と二人の価値観の上では、おこまは大きく差をつけたように見えていた。
之子と、桐子は、その中でもよく気が合い二人は何時も一緒だった。気を許す人にしか打ち解けない柴犬みたいな桐子は一見大人しく渾名も無く「キリコ」のまま。之子は人見知りだが慣れると勝ち気が出るが呑気で飄々としている天然気質で、どこか文学的で女性らしい「ゆきこ」は名前負けで「ノコ」と呼ばれていた。
之子も桐子も読書好きの夢想家、独特の世界観を二人は持っていて、二人とも文芸部。放課後は図書室で遅くまで誰も理解しなさそうな二人の世界で盛り上がっていた。
お題は、大抵その詩をどう読むか?みたいな話だ、例えば、「木綿のハンカチーフ」は、あれはあの終わりで良いのか?あれで終わりか否かであったりする。之子が、「そらぁ、口紅もつけないままかぁ♪やなんて、ふられるわなぁ」と言えば、「彼は、都会の生活に疲れて戻って来るんちゃう」と桐子。桐子は、わりと何時も少女趣味で女の子らしくて素朴で優しい。そんな桐子が友人として同じ女子としてかなり「好き」な之子は、何時も男の子みたいなサバサバ気質を恥じ「そーやねぇ、帰って来て彼女の素朴さに癒されて、気ぃーついてハッピーエンドみたいなやつぅ?」と二人で、しょーもない鉛筆対談みたいな遊びをしていたのである。わりと二人とも強情っぱりで芯が強いところがあり、時々揉めたのも楽しい想い出だ。
だいたい、そんな時は仲裁に入ろうとする、おたかだが、結局二人の世界観がさっぱり解らず、それでも解ったふりをして、裁こうと必死になるから二人に、「これ、作り話やん、しかも素人のうちらが考えた」と笑われ、さらにムキになり顔を赤く🤬して、おたかさんは怒るのである。
之子は、今暮れゆく春浅い空にぼんやりと、そんな日のことを思い描いていた。
平成元年弥生三月は暮れてゆく。
「好きだよ」
好きだよと 梅に鶯 待つ桜
花鳥
好きだよと 順序違えて 散る桜
ボケ桜
花の立場?そりゃあ、撮らないこと騒がないこと散らかさないってことじゃないですかねwww
桜なんて静かに見送るからこそなものです。
人間なんて可笑しいねと思ってらっしゃるのでは?あちらは神木。あなたに嫌われたらなんだと言うの?好かれたらなんだって言うの?あんたって神?人間じゃないの? 私が解ってあげる、乗り越えてあげるどんなけ上からか解って言ってるのか?そりゃあ悪いが他あたってくれって言われると思うわwww
個人的にそ~いうのが一番最低だと思っているわ。 はい、それ、人間のエゴ個人的主観、好きは好き嫌いは嫌いで良いのでした🌟 好きも嫌いも自分の勝手な、ただの自分主役の主観的自意識でしかないのよと🌸 だから、あんたに好かれようが嫌われようが関係ないのよ、だから、喉元三寸止めておくならその止めておくも止めるべきでは?センセーなに自分高く見積もって被害者ぶってるんだろ?誰かを悪者にするなら自分が悪者にならなきゃ慈愛の仕事が泣きますよ。
おやすいみ〜🐠
令和7年4月4日
お題 「桜」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
1989年 平成元年五月
之子は東京にいた。
百貨店社員からアパレル会社に転職配属は東京渋谷の百貨店。なにが、どうしてあの東京嫌いがここに居るかと言えば、イルカであった。
回想
平成元年の春彼岸祖母の入院の知らせを聞いて帰省80超えの老体に心配を募らせ帰省してみれば、「ただの風邪だ、なにしに帰った!まだ殺すな!」怒鳴り散らされ笑いとばされ、散々な目にあった之子であったが、元号が平成になってからこちら、明治、大正、昭和、平成と生き抜く祖母への心配が後から後から重なり、静かな瀬戸内の海に未だ見えぬ波濤のように押し寄せる悲しみの夢を之子は最近よく見るのである。そんな想いもあっての帰省の中、之子は高校時代の友人たちと久々に集まっていた。
之子、貴子、桐子、駒子の四人は中高一貫の彼女達が高一に上がる年共学校になった高校で持ち上がり組、同級生四人組。之子と駒子は一人っ子で特に駒子は街の事業組合長と町長を務める家の一人娘だったから島に残るかと思いきや東京の大学へ、そして就職も東京に決めたという早業、就職戦線異状なしの俺たちバブル入行組なのである。駒子は某都銀に入行が決まっていたのだ。島から外に出たのは之子と駒子の二人。
リーダー的存在であった貴子は地元の国立大学を出てUターンで母校の教師になる予定。之子と同じに地元の短大を出た桐子は地元での保母を経てこの五月には結婚するとのことだ。それぞれが、近況を伝え合い、質実剛健に生きている友人たちを横目に、春の遠浅にプクリと息を吐くあさりのように、何処となく漂っています風情の之子なのであった。
「ノコは、大阪の暮らしは慣れた?」之子はノコではなく「ゆきこ」と読むのだが、何処か飄々と掴みどころがなく、呑気な子でノコであった。リーダー格のマウンターおたかが言うところ立場逆転のバブル入行の、おコマが聞いた。昔から、おタカとおコマは学力が似ていておまけに、気位ちょい高目な気質も似ていた
。小さい方のおコマは、大きい方のおタカにライバル心を燃やし、ついに都銀入行という事実で組み伏せたような感であろうか、この再会の席を仕切っている。
どこ吹く風のノコはノコで「楽しぃやってるでぇ」と全く抜けない言葉で東京もんの言葉の、おコマに答えた。
「相変わらずやねぇ」よそ行きの東京もんの言葉から引っ張られて、おコマが答えると皆が笑った。
之子は、ふとあのなごり雪の朝を思い出していた…。海内 洋とは、高校卒業後、幾度か行き来し合い、手紙や電話のやり取りもあったが、一年もしないうち、之子が短大二年になる頃、
自然に連絡が途絶えがちになった。元々他所から越して来た洋には、この島への想いも之子たちほど深いものでもない様子で、之子には、それがとてもドラライに感じられ互いの若さもあり次第に離れていったのである。
どうしてるやろなぁ…。
之子は、そんな想いを胸に四人でガヤガヤやるテーブルから視線をあげて、窓の外を見つめた。春彼岸、その日は麗らかな春を感じさせる日で、四人が集まった、喫茶店の窓から見える桜坂の桜が蕾を緩ませているようだった。
なごり雪は 降る時を知り
ふざけ過ぎた 季節のあとで
今春が来て 君は綺麗になった
去年より ずっと綺麗になった…はず笑笑
洋くんも、今年就職だよな、、
之子は、なごり雪が、まだ溶けずに心の奥に
残っていることに気づいた。
それは、平成元年春彼岸のことであった。
つづく
「桜」
君の頬 とまる桜に 口づけす
碧海 曽良
さくら 独唱
作詞 森山 直太朗
僕らはきっと待っている
君とまた会える日々を
さくら並木の道の上で
手を振り 叫ぶよ
どんな苦しい時も 君は笑っているから
挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ
霞ゆく景色の中に あの日の唄が聞こえる
さくら さくら 今咲き誇る
刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って
さらば友よ 旅立ちの刻
変わらない その想いを 今
今なら言えるだろうか 偽りない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉
移りゆく街はまるで 僕らを急かすように
さくら さくら ただ舞い落ちる
いつかは生まれ変わる瞬間(とき)を信じ
泣くな友よ 今惜別の時
飾らない あの笑顔で 今
さくら さくら いざ舞い上がれ
永遠にさざめく光を浴びて
さらば友よ またこの場所で会おう
さくら舞い散る道の上で
桜と言えば私はこの曲、そしてこの曲はタイトル通りに独唱したくなる曲であり、桜といえば散りゆく運命の「散る桜 残る桜も 散る桜」なのである。そして、私はこの花に特攻隊の青年たちを、どうしても重ねてしまうのである。
だから、桜を浮かれた気持ちで見あげることが私は出来ない。
「桜は別れの花である」
フランス映画だと、桜の花言葉は「私を忘れないで」だから、戦争に行く男性に対して恋人が「私を忘れないで」の意味を込めて桜を贈ったそうだ。
散る桜を見あげる度に、この世を有り難う御座いました。どうか、生まれ変わってらして、この世を、この桜を謳歌してらしてください。と思ってしまうのである。
桜を見あげ、ただ綺麗だと浮かれ気分で酒を飲み綺麗だ綺麗だと囃し立てる気分には、なれない。あの花は静かに愛でる花である。
刹那な時の間を感じずにはいられないからである。
その時の間に、あの日の彼らがいるようで、散りゆく運命の桜に涙してしまうのである。
「桜について」 碧海 曽良
花を見ても結局、わたしわたしなんだね君たち気づいてますか?笑笑
僕が楽しい、私がみすぼらしい、俺が気持ちが悪い悪くないetSETOra〜etSETOra。最後は私が花ですの極みに笑えた。
今の子には解らないと思う、確かに小6だわ(笑)で、あなたはどれ? 結局、どいつかを叩きたいだけで、ご自分の愛で方が一番正しいと言ってらっしゃいますよねぇセンセー。そんなの皆一緒です。まず花見の起源は奈良時代の貴族が愛でた梅。桜は桜で美しいけど、腹斬って潔く散ってくれの武士の花、それが順序、日本人なら知っておきたいね。
タイトルからして気持ち悪いものを観て気持ち悪いと書き込み、観たまんまやんwww で、どうしろと、私様が俺様が気持ち悪いから放送すんなと?何様か?え?え?戦時中の検閲か?自由な多様な価値観は何処行った。あんたの好き嫌いで変わったら怖いわwww 世直しマンか?そっちの方が病んでると思うでwww
令和7年4月3日
お題「君と」
「まだ見ぬ、波濤」 作 碧海 曽良
なんだかんだで、あの心細く降る雨と低い空を見あげた入社式から、あっという間に二年が経とうとしていた。大阪の老舗百貨店、バブル期全盛を極めたアパレルフロアーに、流行り出した女性ニュースキャスターみたいな格好をして立っているのが之子。自称するのは勝手のイヤ、わりとよくそう呼ばれている、なんちゃって安藤優子。本人なりきりさんだ。格好だけでもなく、馴染むのは早く売り上げも良かった。ひとりっ子育ちに有りがちな、借りてきた猫から、育った通りの暴れ猫に変身で走りまわっていた。
1989年1月7日(土)天候は雨
それは、昭和が終わった日。
もう、かなり以前からカウントダウンは始まっていたから、前の晩からテレビはつけたままだ。
午前6時33分 一斉に特別番組に切り替わった。之子も仕事の段取りがあったので、このニュースを観ていた。社会人ニ年目も終わろうとしていた。仕事にも一人暮らしにも慣れて、もうすぐ後輩がまた出来る。そんな浮ついた気持を戒めるような朝のニュース、「昭和が終わった」永遠に続くものなど何もない、ことをかの方は、我が子供たちに教えてくださいました。長過ぎた昭和、はじめと終わりの価値観のギャップたるや。その全てを包容された方が逝きました。之子は、お祖母ちゃん子でしたので明治34年生まれの昭和天皇と明治39年生まれの祖母を畏れ多くも勝手に重ねその向こうに、幼い頃に別れた祖父と父の面影を見る少女でありました。その頃にはもう、研修や展示会で、あの薄汚れた感じの東京へも一人で行くようになり、昨年は、皇居に訪れ昭和天皇御回復の記帳を祖母母の想いも込めて、記していたのでした。この、之子以外にも居たであろう、昭和という時代に良くも悪くも育まれ生きた人々、市井の日本人の記帳という細やかな心を裁く事件が後に起こりますが、この時はただ、田舎育ち明治生まれに育まれた子供は、本家のお祖父様が亡くなったような気持ちでテレビを観ていました。
1989年1月7日 午後2時36分
新しい元号「平成」が発表され、翌朝1989年1月8日より平成がスタートしました。
こうして、昭和は、64年という3世代4世代、4つくらいのゼネレーションが混在する時代でありましたが、幕を下ろしました。はじまったものはいつか終わる。昭和もまた、明治大正の人々に新しい時代と言われ生まれ、その明治もまた、新しい時代であったのです。今、はじまったばかりの「平成」という時代もいつの日にか終わり、新しい者たちに古い者と呼ばれる日が来るのだろうか?しかし、それも玉響。
日は暮れ、また昇り続ける限り、いつかは、新しいものは古いものと呼ばれる日が来るのだ…。
「諸行無常って、こういうこというのかなぁ、、、」
相変わらず、明治生まれと茶を啜りながら育った之子は、そんなことを考えてみる。
そうしてふと「ばあちゃん、天皇陛下の五つ下やけど、そういう年なんやねぇ、相変わらず口やかましく元気そうやけど」そう思いながら実家に電話をするのであった。
1989年1月7日 その日は、多くの企業が休みになり。之子の勤めるデパートも休業であった。朝礼には参加し黙祷をし売り場を片付け帰ったのはもう夕刻であった。
新聞を広げると、一面全面「昭和天皇防御」の文字で埋め尽くされていた。
鶫 之子22歳の年は明けた。
つづく
「君と」
君がため 嘘でも花は 咲きにけり
情は人のためならず
後書き
他人のせいにするのは簡単だから、とりあえず「わたしもぉ」「わたしもぉ」と言っておけば
いつでも、「そんなつもりじゃなかったの、あの人が、そう言ったから…」の自己弁護。そんなつもりはどんなつもりか?他人の意見の尻馬に乗って、都合わるくなったら逃げるの一番「わたしもぉ」にはそんな嫌らしさを感じてならない。私は良い人良い子って見せたいのが見え見え。そんなの意見じゃないからな、意見するときは「私は、…です」覚えとけ。
下はいくらでも、ハラスメントだなんだと突き上げが出来るが、トップに立つと突き上げは出来ない。トップは常に孤独である、そして誰かがやらなきゃその企業は潰れる。そして、下を守って当然で、守れなければ、その企業の終わりを意味するのである。鼠は楽で良い、近頃は逆ハラスメントなんて言葉もあるが、それもやっぱり雇われだから言えることである。中小の一人で全部背負ってる社長が逆ハラスメントで社員訴えるなんて本末転倒なこと出来やしない。だから、いつも孤独で孤高の中小企業の社長たちだ、その者たちが日本経済を支えた。そんな時代も終わりを告げ社長が社員を逆ハラスメントで訴えるなんて、話も起こるのかねぇ、それが多様な価値観なんだろ、不公平はいけないからな。
世も末だ(笑)
令和7年4月2日
お題 「空に向かって」
「まだ見ぬ、波濤」
作 碧海 曽良
回想
1985年 3月3日
なごり雪が舞う堤防沿い、セーラー服のスカートを、春まだ浅い海を渡る風になびかせながら自転車を漕ぐ。スカートが、はためくのも気にせずに一心にペダルを踏む。潮騒は、やがて鶫之子(つぐみこゆき)の胸の高鳴りのように、ザワワザワワと波音を高める、小さな背中が視界に入り大きくなった。一旦やんだ、なごり雪が、また降り始めたことに気づいた之子は、嬉しそうに空を見上げてから、大きな声で、その背中に声をかけた。
「おはよー」
自転車を止めて振り返った、学生服の青年は、海内洋(かいだいひろし)追い着いた之子は自転車を止め自転車から降りて、もう一度「おはよ!雪やん」と叫び気味に言って笑った。「おお」どちらに対しての返事なのか、なごり雪なのか、おはよー!に対してなのか分からない返事を、ひとつ洋はして笑った。
「珍しいよね、三月に雪って、なごり雪やね!イルカやん!イルカ!」と、まくし立てる之子と黙って自転車を押しながら歩く洋。
春を待つ、なごり雪は、瀬戸内海の静かな海に消えて行く。
二人は並んで学校まで歩いた。
話題は、いつもと変わらない、昨日の深夜放送の話。之子が9割話して、洋は1割くらい。でも、その1割がとてもとても之子には大事。
之子は、大切そうに洋を見つめた。
潮風が二人の髪を撫で、潮騒が少し静かになった。ハラハラと、なごり雪は舞っていた。
卒業式の朝だった…。
回想
1988年 4月4日 早朝
外は雨が激しく降っていた。
「入社式に、これか…」
之子の部屋の電話が激しく鳴り静寂を打ち消し、微睡みから引きずり出される。
「もしもし」
「あっ、お母さん、解ってる、解ってるって、もう切るよ」
入社式の朝、起こしてくれたのは、聞き慣れた母からの声が聞こえる長ーいコードの家電だった。とたんに、なんだか今日の空模様のように、気分が憂鬱になった…いやいや、新生活への不安というより、激しいホームシックに之子は堕ちていた。
3月25日に家を出てはじめて大阪で一人暮らしを、はじめてから味わう寂しさに憂いていた。3月25日は母も来てくれて一人暮らしの準備を手伝ってくれたが、一人になると、とてつもなく寂しかった。と、いうのも生まれてこの20年母とは何時も一緒で、一卵性親子のように過ごして来た。けれど、之子は地元の短大を終え、母の希望に反旗をあげて、バブル全盛期の大阪へと足を踏み出したのである。
本当は、東京に行きたかった。高校時代あの、なごり雪の洋くんを追いかけて。
1985年東京の大学に出た洋くんと地元の短大に進んだ之子は暫く遠距離恋愛をしたが、「木綿のハンカチーフ」ヨロシク之子は失恋をした。その間に数度訪れた東京は、なんだか忙しく騒がしく、そして之子には汚い街に見えたのだった。東京に馴染んで行く洋くんを見るのも寂しかった。元来、呑気に育った天然のまだ20歳前の之子には東京はとても汚くて怖い街に思えた。
なら、どうして、母の願い通りに「二十四の瞳」の若先生にならなかったのかといえば、怖さと裏腹にある都会への憧れ、1988年昭和63年バブル全盛期、瀬戸内の天然娘は、バブルの申し子となり、「木綿のハンカチーフ」さながら自分を振った男を見返すべく、小糠雨降る御堂筋に立つのであった。けれど、東京には、よう行かんのである。流行りのマヌカンヘアーにして肩パットで怒らせてみても、心の中は瀬戸内海の穏やかな水面を渡る鵯なのであった。
之子の母、鶫 之亜は島でスナックを経営しながら、夫亡き後、夫の母に手伝ってもらいながら、之子を育てた。最初こそ、自分の引いたレールの上を安全パイを生きて欲しいと願い、島の小学校の教師にすべく之子を育てたが、一転何があっても、決めたからには石の上にも3年泣き言、言わずにやって来いと之子の背中を叩いたのである。之子は、そういう風に真っすぐに育った。
「人間ハッタリが肝心やからね!セコセコせんとドンとやって来い!」と追い出し、今夜も田舎のスナックに立っているのであろう母。之子は、昨夜すぐに眠れなくて、大阪の夜空を見上げ涙が溢れないように言った
「大阪の星は小さいねぇ」
空は低く、川に映るネオンを反射して星はとても小さく遠かった。之子は布団を頭からすっぽり被って眠った。
つづく
この語は、1988年バブル全盛期、田舎から都会に飛び出した女の子が、バブルの申し子と呼ばれ、時代を謳歌し、本物に出会うまでの時代創作話である。
後書き
「空に向かって」
にじむ街の灯に
空を見あげた
泣いたら負けや
泣かへんで
空に向かって約束した
夢しか無いよな
時代(とき)やった
一度も誰も
憎まへんで
海に向かって嘘ついた
嘘も吐き通せば
本気の嘘やで
墓場まで持ってたる
負けへんで
自分に向かって約束した
碧海 曽良
「ごめんてね」ってさぁ、思ってもないのに口先だけで私優しい人間です装う為に言うのって一番図々しくて薄汚いよねぇ笑笑
「ごめんてね」って言ったら許さないと相手が悪くなるものね、許される為に口先だけで謝ってんじゃねえよ!笑笑 ちっとも相手の心に寄り添ってないよね笑笑 少年マンガ王ナルシストもキモ。
自分のせいではないことの処理が出来るようになって、はじめて一人前に仕事がデキる大人です。いつまでも自分のことで精一杯の萬年ペーペーでいたければ別ですが。
こんなもの くだらないから もうやめた
そう打ち込んで 桜映えUP 📸🌸
悪口は くだらないから と悪口
投稿せしは 正論気取る
無季 😜
一番アホなのは、我こそわーって、正論気取って、悪口の悪口に悪口投稿してる奴だわね笑笑どれもこれも悪口ざんす、解ってる?笑笑
「正義は簡単にひっくり返る…だから、永遠に正義はそれこそ有り得ない。けれど、受けた恩って生涯かわらない、その人の中で正義であり続ける」やなせたかしって、結局そういうことを書きたかったのではないかなぁ、、凄いよね🌟🤗
さあ、今夜も、下手な横好き一炊の夢はじめようかな🤡
今日も1日お疲れ様でした。
はじめまして
はじめまして、今日からはじめます。
今日はエイプリルフールですがあれって正午までなんですか?詳しく知らないけど笑笑
確か、去年の今日は、「四月バカ」って感じのお題だった記憶、実は二周目なんです(笑)
ここからは、今日のこと。
今日は、1日図書館でネタを集めてました。
グルグルグル浮かんでは消える、本を手にしてみたり、スマホを覗いてみたり、こんな休日がまた、人生に訪れるなんて想いもしなかった。あの頃は、スマホは無かったけど笑笑 根気は今よりあったかなぁ、、、(笑)
それから、そんな日があったことさえ忘れるような日が続き、気づいたら、ほら、また会えたあの日のわたし。
「またね、また来るね!」って、あの頃の私に話しかけたい、そんな気分。
ふふ、ということで、はじめますは後日公開。
今日もナナシ…。
二周目 4月1日
ああ〜、また、他人のせいにしてるわ笑笑
こんな僕にさせる君が悪いんだ!どんなけ他責思考なんだ笑笑