はなればなれ
学業を終えたあとも、親の援助のもとで自分は働かず生活する。自分は働かないくせに部屋に籠もり暇だから本を読み頭でっかちに本から得た知識の自分の正しさ理想のみの元に生きようとする。高等遊民いわゆるニートそんな人間だから必然分不相応な恋愛は必要ないとしなければ誰かの人生なんぞ背負いきれない、にもかかわらず、友人の妻に横恋慕して略奪するという、阿呆な暴挙を描いた作品が誰もが知る文豪が書いた文学といわれるものです。
正しさや正義感、倫理観、道徳心からは、はなればなれですね。おまけに高等遊民だとか、ただの無収入の男があっちだけは一人前で、これまた、西洋かぶれで働かずに政治世論を語るのもまるで正義正論、道徳心、倫理観とは、はなればなれで滑稽ですらあります。
こいつ、働かなくていいことを良いことに
「労働のための労働は悪である」とか吐かします、「パンがなければお菓子を食べれば良いじゃない」と同じ感覚です。社会人なら何故働くか?学業終業したら何故働くか?考えるまでもなく、生きるためですが、それが通じない人種もいます、こういう層が、戦争を起こし労働者階級の市井の息子は鉄砲玉みたいに使われました、それが古今東西今昔の戦争の歴史でした。
「それから」、阿呆な高等遊民はこうも吐かします「自然児になろうか、意思の人になろうか」・・・どっちでも良いから横恋慕の末に掻っ攫った友人の妻の為に働け!となるが、それで懸命に額に汗して働いては高等遊民の名が廃れ文学では、ないのです。そんな道徳心は溝にでも捨てるのが文学です、文学は倫理観や道徳心とは、はなればなれなのです、だから人間の内なる欲や業を抉るのです、それが、ドラマです。
この阿呆な高学歴ニートの高等遊民は、働くことを馬鹿にし働かないことに固執しますが、結局働きますザマアミロです、自分が1番蔑んでいた労働のための労働を、欲しかった女を手に入れたが為に、彼的に労働者に成り下がります。
高等遊民無職の男は、無駄なリスクを負わまいとしながら、友人の妻への恋慕断ち切れず、ついには告白、略奪します。
無論友人とは絶交、無職の男は愛する女を手に入れますが、多くの社会的まあ、もともと社会責任を追わないニートですが、その安楽の立場さえ失います、失ってお先真っ暗ならぬ真っ赤だったりして、働かないことが偉いこととでも思っていたボンボンは、背徳の愛の代償として
半人前の理想論や安穏とした守られ与えられた暮らしや友情とはなればなれになり貫いた愛の代償として生きることになります。
・・・ そりゃあ引きこもりの無職の立場じゃ恋愛否定も社会批判も仕方がない、自分には分不相応だから、否定批判するより他ない。
現実を生きるとは理想論を語るより難しいことだということを学んだ、夏目漱石の「それから」という一冊をご紹介しました。
言うが易し行うが難しですね(笑)
他人を責めるのは簡単で、自分を責めるのは難しいです、特に「私が悪いの」なんて言って、返しの「そんなことないよ」を求めている、寄り添ってさんや、自称繊細さんは、、高等遊民も自称繊細さんですから(笑)世の中とは、はなればなれなのでしょう。
あくまで、個人的感想です。
嫌なら、読むなー(笑)
いや、「それから」は真剣に馬鹿をやってのける馬鹿の見本みたいな噺ですので面白かったです。
令和6年11月16日
心幸
子猫
「えぇ〜! おい!また猫かよ神様!」
「ああ、すまぬすまぬ間違えた、間違えたがもう生まれてしまったから変えられんのじゃ、後は、また死んで戻って来たら話そう、まあ、ゆるりと見物しろ、今度は生まれながらの飼い猫じゃ、まあ、達者で暮らせ」
「何が、達者で暮らせだ!ヘボ神様、何度も何度も猫に生まれさせやがって!もう何周目?いや、もう百万回ねこだ!」
「今度は、犬のお巡りさんになって可愛い子猫ちゃんの世話をしたかったのに!」
彼は、百万回猫に生まれ変わって今また神様の手違いで猫に生まれ変わり、子猫から始めることに悲観しているのであった。
「もう、退屈だ、退屈でしょうがない、今度は生まれながらに飼い猫のようだが、日がな一日ぐうたら生活だ、兄妹たちも母親もみんなそうだな、デブだ!ルーティンは決められたこの狭い檻の中、俺の特等席は違うものたちが通り過ぎて行くのが見物出来る場所だけだ、つまらない話だ、そこから日がな一日、目に写り通り過ぎるものをあくびをしながら時に毛づくろいしながら眺め、飯食って、糞して寝るだけだから肥える、見ろ今の俺の姿、ブヨブヨのデブ猫で野生のカケラもない」子猫のくせに爺のような小言を吐きまくるのは、猫百万回目の子猫だから許してやって欲しい。あくびをひとつ、また猫百万回目の子猫は文句をたれ始める。
「俺は、その時誰の猫でもなくて…ってのやっただろこの前、それで白い猫に出逢うんだ、あの白い猫どうしているだろう、また猫に生まれていやしないか?」
「今度は漁師の猫でもなくて、雨の中濡れてカラスに狙われていた子猫だったな、あの時は肝を冷やした、生まれて来たと思ったら逆戻りか、まあ、俺たちは、人間みたいにてめぇでてめぇの命を終わらせるような意気地のない鬼畜でも殺し屋でもねぇから、その最後の瞬間まで生きる、生きるだけだ…まあ、寿命があれば死のうとしたって生きてるもので、その時俺は救われた、書生とかいう人間に抱かれて先生の家に行った、確かあの時は、吾輩とか自分を呼んで、先生の残した酒というのをしたたかに失敬し、したたかに酔って候、いい気持でお勝手場まで歩いて行き、喉が渇いて水瓶の縁に登り中を覗き込んだところで記憶が途絶えた、、、それから何回生まれ変わったろう、何度生まれ変わっても猫だ、猫でしかないな俺、、」
子猫は、その時大きなお屋敷の飼い猫でしたが彼は、猫なので金銀敷き詰められた絨毯も高そうなブランド品の食器にも興味がないのでした、そして親兄弟姉妹たちのように子猫のくせにふてぶてしく肥った野性味のない自分の姿にもため息が出て、そんな自分を「かわいい〜」って、臭い体や毛やベタベタした顔に擦り付けられるのが嫌で仕方がありませんでした、以前は、ここよりも広い広い仕切りのない場所を自由に歩きまわり、狩りをしたり、時に人間にすり寄ってゴチになり、沢山名前を持ち、喧嘩をしボスと呼ばれ、いつか喧嘩に負けて人知れず去る、そんなことを繰り返し、ある、冬の寒い日に縁側で婆ちゃんに「寒かろう、温たたまってゆけ」と言われて縁側の奥のコタツという夢みたいに温かいものに包まれた時、飼い猫ってのも良いなと思い目を閉じたら開かなくなり、それから何度も野良あがりの飼い猫をあの手この手で人間に近づいてはやっていたが、今度は生まれながらの飼い猫だ、何の不自由もなく寒くもなく暑くもなく飢えもなく、狩りも喧嘩も人間で言えば生きるための戦いも冒険もない暮らしだ、ふと子猫は、人間が自分で自分の命を殺す理由が分かった気がしていた。
百万回目の子猫物語
★追記、これは幾つかの物語をリスペクトしてオマージュした物語です、多頭飼いとか飼育方法とか持ち出す物語を読むセンスの無い方には不向な噺ですので悪しからず。
令和6年11月15日
心幸
秋風
もう秋も深まり、秋風も日毎に爽やかさから肌寒さに変わる立冬も過ぎた枯れ葉舞う夕暮れ…ほらほらまた歌いたくなる気分をグッと抑えて
今日はマイルス・デイヴィスの「Autumn Leaves」にしよう、「枯れ葉」直訳「秋の葉っぱ達」ってちょっと笑っちゃうけど情緒に欠けるなぁ、流石英語と思うけど、「秋の葉っぱ達」ってちょっと可愛くもあると思ったのは中学の頃だったろうか、、あの頃は秋とか言えば失恋ソングで女の子は髪を切ったり伸ばしたりするのであったね、「髪は女の命」とかまだ言われていた時代だった、別れて伸ばしはじめた髪が背中まで届いたとか、前髪1ミリ切り過ぎて彼に逢うのが怖いとか、これは男だけど髪が伸びて君と同じになったら結婚しようとか、、ちょっと怖いんですけど、でも今聴いてもクスッとなる可愛らしさと叙情溢れる歌謡曲の詩の世界である。
詩人天才、作家は神。そんな想いは中二病の頃から今も変わらない、あの頃心ときめかせた中二病万歳な歌も文章も、その頃の大人が紡いでいたのかと思うと、中二病は偉大な作家であると想う、物想う秋なのでありました。
秋風が急に冷たくなって来た頃合い、皆様お体ご自愛ください。
秋風に乗せて…枯れ葉よ♪(笑)
また会いましょう
今度生まれてくるとしたなら、やっぱり女で生まれて来たい、だけど今度はへまはしないであなたになんか躓かないわ、、と歌いました
顔や体や生まれた場所や目の色や背負うもの全部違っても記憶さえも全て無くしても、また見つけ出す必ず、「怖」な決心を魂レベルで交わし何度も騙し騙される、それが男と女の縁
全部忘れて、はじめましてでも
生きる理由とか心模様が違っても
何故だか背中眺めてしみじみと
でも、「好き」と思う
人混みに紛れて、見えなくなったら
きっと死ぬほど寂しくなってしまう
想い出は、いいとこだけ
リボンをかけて仕舞われる
時は偉大な作家とか
きっと私とあなたを何度でも巡り会わせる
時はダイヤモンドとか
灰色の深い海に眠っても見つけ出せる
また会いましょう、私はそのダイヤモンドを
真夜中の海にポチャンと落として
眼を閉じた永遠という静寂がとても優しかった
ことを覚えている、どれくらい漂っていただろう
また、こうして生まれて巡り会っているのよ
気づかない?私はもう気づいたわ
来世でも、また会いましょう
巡り会わなくて良い人には巡り会わない
自信があるの
だって、魂レベルで分かるから
千里眼か?いいえ、全然違う
閃きがあるの、また会いましょう
手を握り締め
もう開くことない今生の瞼に口吻て…
永遠という物語でした
令和6年11月12日
心幸
スリル
スリルのある暮らしは、物語の中だからこそ楽しめるとは、大人なら心得ていたい。
本当は誰でも細やかで平凡な暮らしの大切さを知っている、守られるべき倫理観や道徳もね、そういうものを現実も物語やエンターテイメントも区別が出来なくてなってしまう人って、少し前に「ジョーカー」真似て世の中を騒がせた人みたいな人なのかな、、そこにハードルを合わすと、文学とかエンターテイメントとか死んでしまうね、「月が綺麗です」の夏目漱石の「こころ」は略奪愛で「それから」は、不倫の物語だし、川端康成の「雪国」もそうだ。みんな、日常では、ちょっと味わえないスリルと割り切ってそれらを読む、現実で女と自殺未遂ばかりしている太宰治は「走れメロス」なんて有り得なく真っ直ぐで誠実で強い生命力漲る友情ものを書いてみたりと現実と物語はしばしば反比例する、日常生活わりと平凡に幸せにのほほんと暮らしているからこそ、たまにスリルのある物語やエンターテイメントでドキドキするのであろう、きっと、日常で人殺しや傷害や詐欺や不倫なんかを、やってるとそういうものから逃れたくて、倫理観や道徳にやたら正しいものを好むのだろうね、だってそれらは人生の失敗だだから蓋をしたいと思うのが肝っ玉の小さい普通の人間よ、人を呪って人の死を望んで騙して略奪愛に溺れてそんなことを実際にしてニヤニヤニヤけてやってるのってサイコパスでしょ(笑)
スリルはね、ブラウン管向こうやスクリーンの向こう、本の中だからこそ、楽しめるの。
スリルは、それくらいで丁度いい(笑)
令和6年11月12日
心幸