鋭い眼差し
鋭い眼差し、、それはゴルゴ13か!?
ゴルゴ13名言集(笑)
その正義とやらは、お前たちだけの正義じゃないのか?
東郷が「その正義は、お前たちだけの正義じゃないのか?」と質問すると、首脳はこう答えた「ふざけるな、アメリカの正義は世界の正義だ!」と激高した、すると東郷は、拳銃を発射首脳の額を撃ち抜いた。
「アメリカの正義は世界の正義」の名の元に繰り返される虐殺は東郷にとっては受け入れられず「俺たちにあらずは人にあらず」と感じたようだった。
「正義」それは、それぞれの人の立場や生きてきた環境によって違い、ひとつの「正義」は、ひとつの「悪」になり得る、そんな矛盾を東郷の言葉は表現しているのだ。
私は、朝ドラ同様漫画も最近のものは全く観ないし読まないのだが、昔のものは好きなものがいくつもある。
まず、朝ドラは実家も自営業だった為、朝が早く通勤時間も無い為、家族揃って朝食をとりながら観ていた。その当日の大人たちは、ラジオドラマの流れを汲んでナレーションだけ聞いていれば事足りる朝ドラは忙しい朝には丁度良いのだろう、必ずかかっていた。大人になってサッパリ観なくなったが、近頃セミリタイアで暇人になりつつあるので、早い朝には家事の後で、朝ドラよりも前日の深夜帯のドラマの録画なんかを観る、朝が早いとどうしても深夜帯のドラマは観れない、朝が遅い昼くらいまで寝てると深夜帯のドラマもリアタイで観れるのか?居眠りせずに(笑)
まあ、会社員だと通勤時間の加減もあり、自宅から会社まで時間がかかると、朝にドラマなんて余裕はないのだろう御苦労なことだ。
漫画も、昔は少女漫画から少年漫画までよく読んだが、最近はサッパリだ、どうだろうジブリもディズニーも、まあ子供が大人になったということか観なくなった。そう言えばジブリもディズニーも「アニメ」と言うらしいが、「アニメ」を「漫画」と呼ぶ世代なのだ。けれどそんな中でも漫画のキャラの台詞も思い出すものは沢山有って、ゴルゴ13のこの台詞は心に留めている台詞だ。
鋭い眼差しのデューク東郷は「10%の才能20%の努力、そして30%の臆病さ、残りは運だ!」とも言う能天気な運命論者でもあるが、まあ、実際 努力しない人に限って自分の努力をひけらかすし、愚者ほど虚勢を張り上っ面のものに拘りセンセーなんて自分を呼んだりするものだ(笑)
令和6年10月15日
心幸
高く高く
高く高く昇って行くんだ。何時までも高い高いしてもらってママに「よしおちゃん」「ぼくちゃん」なんて、まあ呼ぶ方も呼ぶ方なので、そんな親の子はこの親にしてこの子ありの鬼の子なのだ、だいたい高く高く昇って行く人は、人がみな最初子供だったことを知っているので、「子供のままいたいよぉ」なんて狡賢いことは言わないのである。自分より先に生まれ自分より先に歳を取り老いてヨチヨチ歩く子供に返り、やがて記憶さえも朧気になる、自分を産んだ人を守りたいと思うから、いつか自分がしてもらったように。
だから、子供のままでなんかいやしないんだ。
その日暮らしの自由な子供は幸せか?うん?いや、きっと一生涯永遠にそれならきっと寂しいと言おうか寂しいという感受性さえ幸せの何かさえ分からないはずだ、不自由があるから束の間の休日は嬉しく、不自由があるから自由な小さな仕合わせは守られ、その1片に自分がいるということに気づき、守るべきものを自分の力で守り抜いた時、気分は高く高く高揚し生かされている生まれてきた喜びを知るのだろう。
それが大人になるということ。
日がな寝て、遊んで暮らす、それが幸せと思うなら、いつまでも子供のままで親に大人に社会に寄生し続ける、傷つきやすい何時も被害者の子供のままでいるがいい、けれど子供のままでいれば、子供のようにあどけなかった日の気持ちを美しいと思い寄せる感受性も育ちはしないだろう、大人になったからこそ子供時代を懐かしむことが出来るのだから。
高く高く伸びて行け
高く高く昇って行け
呑気者で怠け者で
自称ナイーブで繊細なジャックという少年がいました。
お母さんは貧乏暮らしをしているのに、お構いなしに、呆けていて好きなことだけ自由にやっているジャック、好きなことが出来るのはお母さんのお陰なのに、他の子供比べてうちは貧乏で、ぼくちゃんはやりたいことが出来ないよと文句ばかりを口にしていた。
ある日、不思議なお爺さんがミルクが出なくなった雌牛を売りに行くジャックに話しかけました。お爺さんは奇妙な形をした豆を持っていて、ジャックがそれを欲しがると「不思議な魔法の豆だ」その雌牛となら交換してやろうと言いました。ジャックは不思議な豆が欲しくて欲しくて雌牛と豆を交換してしまいます。
帰宅すると、母親に酷く叱られました、当たり前です、明日食べるお金に換える為に雌牛を売る決心をしたのに、小さな豆ひと粒と息子が交換してしまったのですから。
お母さんに叱られて、悲しくなって
ジャックは、外に豆を捨てたのでした。
すると、あくる朝、豆は巨大な木になって天の雲まで貫いていたのでした。
それを見たお母さんは、驚いて木に登ろうとするジャックを危ないからと止めましたがジャックは、「待ってて、お母さん僕天まで登って行って、何か珍しいものはないか探してくるよ、見つけたら必ず、お母さんのところに帰るから待ってて」ジャックはどんどん高く高く登ってやがてお母さんのいる場所から見えなくなってしまいました、お母さんは心配で心配でハラハラしていましたが、あの臆病で何時までも僕ちゃんのジャックが、自分から進み勇ましく木を登って行く姿に圧倒され見つめていました。
ジャックが木を登ると、雲の上には人喰い巨人が住んでいて、大きな屋敷かありました、丁度巨人は昼寝をしていて、その庭先には金の卵を産む雌鶏がいるのを見つけました、ジャックはその雌鶏を盗み出し、逃げる途中、中庭のあずま屋にある珍しいハープを見つけそれも盗み出そうとしましたが、突然ハープは喋り出し、人喰い巨人は目を覚まし、ジャックを追いかけ回して巨体を揺らし走り出しました。
ジャックは大慌てで木を下りて逃げることに成功し、まだ怠惰な生活で肥えた巨漢の人喰い巨人がモタツイテいるうちにジャックは斧で木を切り倒してしまいました。やっとこ巨漢を揺らし木を下りて来た人喰い巨人は落ちて空に呑み込まれてしまうのでした。
その後、金の卵を産む雌鶏を飼育したジャックは、母親に新しい家を創ったのでした。
人喰い巨人の庭に忍び込み金の卵を産む雌鶏は盗むは、果ては自分を追いかけ回す人喰い巨人を木から落としてしまうジャックなのでした。
その教訓は…
人生を変える勇気を持つ時は、他の大勢がやらないことを、自分を信じて自分の意思に従ってやるが良い、結果の責任は誰を問う必要もないということ。
自分の居場所を自分の意思で決めることが出来て責任も自分で取ることが出来るそれが大人。
高い高いのその後は、自分で自分の意思に従って高く高く登って行くのだ。
令和6年10月14日
心幸
子供のように
可哀想に思いました放課後への執着という投稿
そんな青春もあるのかと、、。
私には過去は縛られるものではなく、過去は、いつも私の味方であり、いつも背中を押してくれるものであると捉えているので、満たされなかった想いへの執着よりも、満たしてくれたものへの愛情それが放課後への想いですねぇ、、
それはイギリスの詩人にして児童文学作家A・A・ミルンにより1926年に執筆された、児童小説「くまのプーさん」のようである。
子供のようにと子供のままは決定的に違うのだ
ろうということを、ここに記す。
「子供のように」
成熟し遠い昔を懐かしむような壮年期を迎え、ふと庭のポーチに腰掛けると、昔懐かしい友人、くまのプーさんとその仲間たちが遊びにやって来る。ポーチを抜け出し私はプーさんたちと森に遊びに出かける、やがて遊び疲れて帰ると、ガタンと物音がする。ハッと我に返って飛び起きる、猫のミーシャが窓辺でこちらを見ていた、振り返ってもプーさんたちはいない、けれど何処からともなく風にのり楽しい音楽が聴こえてくるのだ。
午後の微睡みから覚めて膝掛けを外し立ち上がる、「またねプーさん」と呟く私の中の子供のような時間。
「子供のまま」
成熟が何かしらに妨げられ、自分でその杭を抜く力が備わっているのに、外に出る勇気が自分になくて、流れを塞き止めた状態で過去にしがみついて満たされなかった思いに執着している。誰も助けてはくれない、そこからは自分で出るか、「大人になれなかった少年」として
子供のまま残るかだ、他の子供たちが育って行くことが羨ましくて寂しくて悔しくて、決してない国、決して終わらない国、子供たちがずっと子供のままでいられる国に誘うが、他の子供たちはお母さんが心配するからと朝を待たずに帰るのだ、大人になれなかった少年はネバーランドという国で独り子供のままでその国という子供部屋に居ることになるという「ピータパン」というこれもイギリスの作家ジェームス・マシュー・バリーの作品である。「ピータパン」はサブタイトル、大人にならない少年
大人にならなかった少年、大人になれなかった少年とあるが結局大人になれなかったが結論のようである。
それが子供のようにと子供のままの違いだ。
自然に大人になって行くことが苦しく悲しい時は誰しもある、そんな時は過去が味方になってくれるはずだ、容易いことだ愛すればいい過去の自分を。
そうなれるだろう、そうなれる道を…
そこからだよ(笑)
令和6年10月13日
心幸
放課後
放課後の保健室ピンクのカーテンが揺れていた… それ、早急観た(笑)
放課後の校庭
待ちぼうけ陽が暮れて
時は流れ 一瞬だけの今日
喜びの日も悲しみの日も
じゃれ合って走った校庭
見えなくなった後ろ姿
あの時代にありがとう
美しい一瞬の日々
儚く輝く制服姿
見えなくなる後ろ姿
かけがえのないあなたにありがとう
輝くものは輝きにとどまらず
気分は最高 飛び立つ背中に
サヨナラよりもありがとう
放課後の想い出
令和6年10月12日
心幸
カーテン
朝日差す窓辺で
一人見ている空の色
週末は あなたは来ない
窓から見える視界に
家族が見えた
週末に あなたは居ない
レースのカーテン
引きちぎり怖くなる
若さによく似た白昼夢
昨夜の余韻が隅々に
残る部屋は苦しくて
夕暮れまで時間が長くて
街に出る知らずに目指す
あなたの住所それが白昼夢
そんなこと出来やしないから
私とあなたは
大人の関係でいれる
愛を語れば壊れてしまうから
愛を語れば重荷になるから
他人同士を演じ続ける
この愛が果てるまで
窓に西陽が満ちて来て
あなたの煙草の匂い
探すけど今夜は週末
あなたは来ない
鳴らない携帯握り締め
呟くバカヤロ、、バカヤロ
壁の傷が心の傷
いつしか時が過ぎ
この部屋を忘れ去る日が来るのだろうか
西陽が消えるカーテンに
縋って泣いた22歳の火傷の跡
カーテン越しに見た大人の残酷さ
それが大人の恋と思っていたけど
それが大人の愛だと思っていたけど
ただ背伸びしたいだけの子供の火遊びだった…
あれれ〜、カーテンって言ったらアイツはあのネタだろうと思ったあなた残念(笑)
週末、カーテンと言ったら
金妻頭に流れちゃった訳(笑)
お粗末様で御座いました
ではでは、また明日
令和6年10月11日
心幸