子供のように
可哀想に思いました放課後への執着という投稿
そんな青春もあるのかと、、。
私には過去は縛られるものではなく、過去は、いつも私の味方であり、いつも背中を押してくれるものであると捉えているので、満たされなかった想いへの執着よりも、満たしてくれたものへの愛情それが放課後への想いですねぇ、、
それはイギリスの詩人にして児童文学作家A・A・ミルンにより1926年に執筆された、児童小説「くまのプーさん」のようである。
子供のようにと子供のままは決定的に違うのだ
ろうということを、ここに記す。
「子供のように」
成熟し遠い昔を懐かしむような壮年期を迎え、ふと庭のポーチに腰掛けると、昔懐かしい友人、くまのプーさんとその仲間たちが遊びにやって来る。ポーチを抜け出し私はプーさんたちと森に遊びに出かける、やがて遊び疲れて帰ると、ガタンと物音がする。ハッと我に返って飛び起きる、猫のミーシャが窓辺でこちらを見ていた、振り返ってもプーさんたちはいない、けれど何処からともなく風にのり楽しい音楽が聴こえてくるのだ。
午後の微睡みから覚めて膝掛けを外し立ち上がる、「またねプーさん」と呟く私の中の子供のような時間。
「子供のまま」
成熟が何かしらに妨げられ、自分でその杭を抜く力が備わっているのに、外に出る勇気が自分になくて、流れを塞き止めた状態で過去にしがみついて満たされなかった思いに執着している。誰も助けてはくれない、そこからは自分で出るか、「大人になれなかった少年」として
子供のまま残るかだ、他の子供たちが育って行くことが羨ましくて寂しくて悔しくて、決してない国、決して終わらない国、子供たちがずっと子供のままでいられる国に誘うが、他の子供たちはお母さんが心配するからと朝を待たずに帰るのだ、大人になれなかった少年はネバーランドという国で独り子供のままでその国という子供部屋に居ることになるという「ピータパン」というこれもイギリスの作家ジェームス・マシュー・バリーの作品である。「ピータパン」はサブタイトル、大人にならない少年
大人にならなかった少年、大人になれなかった少年とあるが結局大人になれなかったが結論のようである。
それが子供のようにと子供のままの違いだ。
自然に大人になって行くことが苦しく悲しい時は誰しもある、そんな時は過去が味方になってくれるはずだ、容易いことだ愛すればいい過去の自分を。
そうなれるだろう、そうなれる道を…
そこからだよ(笑)
令和6年10月13日
心幸
10/13/2024, 2:17:04 PM