友情
不思議な友情だと思っている。
その子はある日突然現れたblueのマントを纏ってけれどそのblueのマント以外なにも知らなかったけれど遠い昔から知っていたようなそんな気になるblueのマントに隠れた顔も声も知らない子だった。
わたしたちはこの仮想空間の中で出会い互いの趣味を知り語り合う、またここでと約束もせず
それでももうかれこれ6、7年はそうして続いている勝手に友情を感じるblueのマントの名も知らぬ顔も知らぬ本当のところは何も知らない、けれどここで語る君も本当の君だと信じるワタシをワタシは信じる。
何時までもそこに行けば会えると思っている
blueのマントを纏った君に。
きっと、友情は友に抱く情なので見返りなんて求めないから友情なのでしょう、共に抱く情みたいに見返り求めるのではなく友に抱く情それが「友情」ってものなのでしょう。
令和6年7月24日
心幸
花咲いて
花よ花よ花は咲く
花の命は短くて
苦しいことのみ多かりき…
生きることが辛いとか
苦しいだとか言う前に
野に育つ花ならば
力の限り生きてやれ
「生きてやれ」って言葉が好きですねこの歌。
大空と大地の中で 松山千春。
やっぱ松山千春も長渕剛もロン毛でフォーク・ソングの頃が良かったよね。
花は咲く前が美しい。
令和6年7月23日
心幸
もしもタイムマシーンがあったなら
過去に行きたいか未来に行きたいかと問われれば迷わず過去。
未来を知ることにあまり興味はない特に自分の未来を知ることは殺されることとさして変わらぬほど残酷なことのように思う。自分のいない未来の文化を見学することなら楽しそうだが。
けれど今2024年令和6年の私は30年前の私にとっては未来人けれど2034年令和16年の私にとっては過去の人今というひとつの点から過去と未来は和のように繋がってどの点を今とするのか?ってだけなら、過去も未来も無くないかとたまに思うのである…。
そして本日のお題は「タイムマシーンがあったなら」ドラえもんかエメット・ブラウンと出会った私は何処に行きたいかと言えば自分が存在する以前の私の育った家だろうか…。いや、夫の子供時代を訪れて夕焼けのお姉ちゃんになるのも良いがやはり、会えなかった自分の祖父や曽祖父自分のルーツを旅してみたい気がするが
それはなにもタイムマシーンが無くとも出来るのではないかと思う出来事があったのでここに記す。
とみに最近感じること、一ヶ月に一度実家までドライブをするようになった近頃、目的はお墓参り。その田舎の風景は未だ昭和の面影を残し田畑の色合い古い建物そこで活動する人々は遠目に見ると昭和に戻ったような錯覚を覚える。
農道を歩く前掛け姿のおばあちゃんはその50年前にもそこにいて下校途中の私に声をかけたあのおばあちゃんではなかったかな?いやいやもう令和6年かりにあのおばあちゃんだったとしたら100歳超えだ、けれど全く同じ風景を私は50年以上前にここで見たというデジャヴのようなタイムスリップを経験したのだった。
後で知ったのは、その令和6年のおばあちゃんは昭和45年のおばあちゃんの孫だった・・・
タイムマシーンならそこにある。
血の流れの中にある。
引きこもりの中学2年なら真っ直ぐ感じ取れないだろう、血の流れというタイムマシーン祖父の祖母のそのまた祖父母の流れの中に漂う1枚の葉それがひとりの人間という輪廻森羅万象
タイムマシーンならそこにある。
令和6年7月22日
心幸
今1番欲しいもの
「新しい左足」
8年前から思いはいっしょ。
左足切断寸前の開放骨折足首は完全に潰れ足の甲は180度ひっくり返っていた。膝踝も骨折左足の膝から下は皮と筋肉で繋がっている状態で骨は砕けた。胸も強打し呼吸も意識も薄れていくかと思いきや、意識だけはハッキリとしけれど言葉は出ずにこれはどういうことだろうと考えながら「この足もとに戻るの?」と想いを巡らせたあの日は家が遠かったね本当に、信号無視のオートバイを避けようとして自転車の私に突っ込んだ軽乗用車を運転していたおばあさんは震えていたところまではハッキリ覚えている。
それから目が覚めると私の足は吊るされていたどうやら足はついているようだった。
目が覚めて開口一番Dr.に聞いたのは「歩けるようになりますか?」と「仕事に復帰出来ますか?」だった。Dr.の返事は「あなた次第ですが、あなたの足はあります、使い方はあなた次第で決まります」であった。私は元来取り柄は前向きであることであるので、私の足はついている使い方は私次第に単純に負けるか!と思い元通りの生活を取り戻すと心に誓い3度の手術を受けてリハビリを初めて紅葉が綺麗だった頃から桜が満開になる頃まで人生初の入院をした。杖をつきながらその年お花見に行った。
それから、杖が無くても歩けるようになり、自転車にも乗れるようになり、職場復帰も叶った訳だがそれは雇われではなく自営であったということは感謝せねばならない。
もう、走る事は難しいししゃがむ事も難しい現実は残った。その日から元々好きだった走る事踊ること、飛び跳ねることへの憧れは強くなる一方だ。
大地を蹴って力強く走る姿の美しさ、柔らかく自由に大胆に舞う姿の美しさに心奪われる。
時に涙しながら、ただ走る人の姿を踊る人の姿を見つめるようになった。
そんな時は必ずリハビリを始めた頃車椅子から立ち上がることに1日かかったこと横歩きが出来ず泣きじゃくったことを思い出す。
「だから、今1番欲しいものは、新しい左足だ!」
そう思って、3度手術して傷だらけになった左足を叩いてみる…。ふいに3度の手術に耐え私の体にひっいて必死に役目を果たそうとしている左足が愛しくなって泣いた。
思えば、この足は私に色んなことを教えてくれた、道路の視覚障害者様のブロックは私たちには非常に危険であること、公共の場でいきなりあらぬ方向に走り出す子供は凶器であること。
平気で駅のエレベーターを使用する健常者はデブと怠け者であること、満員電車で席を譲ってくれるのは、だいたいガテン系のお兄さんで、邪魔くさそうにするのは、高そうなスーツを
着て忙しいそうに歩く人であることだ。そういえばこの足になって見えたものは結構あった。
走ることの踊ることの飛び跳ねることの躍動の美しさを教えてくれたのもこの足だった。
必死に私の体にひっいて必死に役目を果たそうとしている傷だらけのこの足は私のものだ、色んなことを教えてくれた私の足だった。
もう一度考えてみた。
「今1番欲しいもの」
それは、この健気な傷だらけになろうと必死に役目を果たそうとしている私の左足に適う心の強さであることに気づいた。
令和6年7月21日
心幸
私の名前
名前は愛する人からの最初の贈り物で、どんな人でもそのまだ名前もない命を前にしてその子の人生に想いを馳せ名付けてくださった人がいるってことです。もう、そこで愛されていないなんて嘘だし、ちゃんと自分の命を見つめていてくださった人がいるのだということは、名前を書くたび思い出したほうが良い。
私の名前は父が考えて考えてつけてくれた名だ。未熟児で生まれた私は少し多めに新生児室にいて、大きな声でよく泣く赤ん坊で名前が何時までもないから産婦人科の看護師さんたちに「お父さん、早く名前つけてあげて」と言われたそうだ。
父は40前にして初めて授かった娘につける名前を拘りに拘って最初は豪華な名や洒落た珍しい名をと考えたらしいのですが、結局最後に行き着いたのは、小学1年生で習う漢字で優しい字体でけれどきちんと漢字があり、そして苗字が変わっても姓名判断で凶にはならない画数どんな苗字が上に来てもそれなりにしまる名前でと考えて考えて結局無難な名前になりました。
太郎や花子ではないけれど、そんな感覚の命名です。子供が育たない時代だったら捨松とかおひろいとかつける親の深い愛情を感じたりして、私は私の名前の由来を祖母から聞かされてからというもの、自分の名を書くたび父の顔が浮かんで、しっかり生きなきゃなと背筋が伸びる想いがするのと同時にとても優しい気持ちになります。
私は結構私の名前を気に入っています。