たとえ間違いだったとしても…
「真実の愛」
たとえ間違いだったとしても、あなたと生きた共に生きた時間は消えない。私の唯一無二である。
たとえ間違いだったとしても、誰が間違っているとかいないとか決めるのか?
間違っていなければ正義で
間違っていれば悪か?
正義の反対は悪ではない
もうひとつの正義だ。
間違っているかいないかは
とかく人生については、ずっと後にならなければ答えは分からない。
ロミオとジュリエットの純愛は間違いだったのか間違いでなかったのか?結果若い二人は出会ったが為に純愛を成就せんがため謀を企てた為に若い命を終える悲恋である。
彼らは間違っていたのか?
いや、たとえ間違いだったとしても
出会い愛し合い互いが唯一無二の存在と誓い合えた消えない時間は清らかで尊いものであったという物語であるからこそ語り継がれる。
若い二人の恋は
間違いだったのか間違っていたのか?
愚問である。
たとえ間違いだったとしても
二人は愛し合う喜びに満ちて輝いていた。
罪深く弱く愚かであろうとも
唯一無二を見つけた人生は喜びに満ちて
輝いていた。
きっと、それも真実というものなのだろう。
たとえ間違いだったとしても…。
2024年4月23日
心幸
「雫」
涙の谷… 悲しみの中にある現世のありさまを、谷に喩えた話。
悲しい縁が多い人生で彼女は涙の雫の種を蒔きました。悲しみの種は歓の実を彼女の前に広げました。
芥川龍之介は言いました。
彼らは涙の谷をすぐれども其処をおほくの泉あるところとなす また前の雨はもろもろの恵をもって之をおほへり
令和の若い人たちが分かるように言うと、こうなる。
バカな谷を通っても、そこを泉の湧くところとします。また前の雨は池をもってそこをおおいます。
太宰治は、そんな涙の谷にを悲しみの中にある現実のありさまと喩え、妻のおっぱいとおっぱいの間にある涙の谷にと喩えた。
愚かさを寛容されただいとおしく思われながら妻に抱きしめられて泣いたという意味なのだろう。けれど妻は本当の救いを与えることが出来るのか?と不安になるのではないか…それが現世の中にある悲しみの種、不安と疑心暗鬼の涙の谷から湧く一滴の雫がやがて池をもってそこをおおいます。
人生は涙の谷を渡り一滴の涙の雫が集まり溜まった池におおわれています。
わたしたちはその悲しみを湛えた澄んだ池と池と谷と谷の間を脚をとられないように歩くのです。
きっと、涙の雫をこぼしながら悲しみの種を涙の谷に返し、また池をつくるのでしょう。
2024年4月21日
心幸
何もいらない
命さえあれば
健康さえあれば
君さえいれば…
あれ、何もいらなくなくなっちゃうや。
人間は煩悩の塊で弱く、向こうにいかないところのギリギリ境界線で藻掻いている。
誰も殺めなくても生きていられるという縁と運。
何も盗まなくても生きていられたという縁と運。
だからこそ
許して許される
奪われて与えることを覚えることに気づきたい。
悪人正機
ここでいう悪人とは煩悩に苦悩する、か弱きわたしたちです。煩悩に苦しむ悪人こそ救われ許される価値があるとお釈迦様は仰いましたと親鸞様は説かれました。
南無阿弥陀仏
2024年4月20日
心幸
もしも未来を見れるなら
「店番」
何処にでもある駅前の商店街に、おばちゃんの店はあった。そこが1号店だから結構古い店だ一階がテナントで上はアパート7年くらい前からそんな感じで、おばちゃんは店番兼務の管理人だ。以前は内外兼務で飛び回っていたおばちゃんも、今はわりと暇な商店街で店番だ。
過去には三泊四日くらいで行きたい気がするが
「見たい未来」となると・・・あるかねぇと、おばちゃんはスマホから目を上げ店の外を眺めた。
猫は客用の長椅子を占領し眠っていた。
閉店までのひととき。
忙しいのは午前中と帰宅ラッシュの時間帯だけ後は呑気な店だ。繁忙期は春先の季節商売それもコロナで大打撃だ、おばちゃんの店も何店舗か閉店の憂き目にあい、商店街も歯抜けになっていたが、最近ようやくもとの賑わいをみせるようになっていた。それでもおばちゃんは相変わらず呑気で店番をしながら通りを眺めている。
呑気なおばちゃんは暇そうな若僧を見つける。
漫画「おじゃまんが山田くん」の山田くんの様な風貌の若僧は今起きましたというような顔にボサボサ頭を掻きながら、きっと世界がその色で見えているのではと思われるような灰色のスエットに素足にサンダルで店の前を歩いて行く
平日の午後2時過ぎ、1番店が暇な時間帯に前を通り過ぎる暇な若僧。
暇同士のニアミス。
「あの子また来てるよ、無職かねぇ…こんな時間に、あんな格好で」
おばちゃんは独り言を言いながら勝手に名付けた山田くんを見つめた。
すると山田くんもこっちに目をやった。
「暇そうな店だなぁ…」とでも独り言を言っているのか。
目が合う 暇そうな人二人。
そうだ、もしも未来を見れるなら。
半年か1年くらい未来に行って
山田くんがどうしているか見たいわ。
おばちゃんは、そう思った。
もし、まだ同じようなら声をかけてやろうか。
時間を無駄にするな!
時間泥棒のような日々
それは、もっと先にいくらでも出来るから。
先ずね
暇そうな人にも色々あることを学んで。
自分は今どの時なのか?
人生の大切な時間を時間泥棒に盗まれないようにねって。
冬眠が必要な雪深い場所で生きているのに死んでいるような時を過ごしていると狭苦しくなってしまうけど、街に出ればみんなそれぞれの時間を生きていることに気づくもの。
火曜は飲食店は休み
水曜日は水商売は休み
土日祝日に休む客商売は無し
だから平日の休み
暇な日も時間も
人によりけり
暇な理由も人によりけり
それに気づく事はとても大切
山田くんとおばちゃんは暇だけど暇な理由は同じじゃないきっと。
おばちゃんは山田くんの未来が狭い灰色の冬眠中のクマが見る世界じゃないことを祈ってる。
おばちゃんは、山田くんと名付けた灰色のスエット姿の青年と目が合って微笑んだ。
平日の午後2時過ぎ。
2024年4月19日
心幸
無色の世界
「虚無 〜はてしない物語〜」
少し前「世界が灰色に見える」なんて台詞をドラマで聞きました。きっと無色じゃなくて無職で閉籠てる人は世界が灰色に見えたりモノクロに見えたり無色に見えて虚無に食われてしまうのではないか。ドラマレビューでは、なんだかプロなのか素人なのか分からないカウンセラーさん達がいろいろとシッタカな名前を付けていたけど、単に思春期だろって思ってました。高校生のその人が40年後も「世界が灰色に見える」とか言っていてからシッタカな名前をつければと思っていた。そのドラマと同じ頃モノクロの雨の中いつまでもバスを待ってる女の子の物語もやっていて、それらがとても繊細な思春期の心には見えずに、腫れ物に触るように育てられた赤子の成れの果てに私には見えてしまった。そう、無色の世界で「虚無」に食われ無表情な仮面でもつけた様な顔でセバスチャンを虐めていた子供たちのように。
世界の終わりのその果てにいるという「虚無」
子供たちの夢を食い夢想を食い物語を食いつくそうとする「虚無」
選ばれし勇者はセバスチャン相棒は白馬アトレイユ。
セバスチャンとアトレイユは「虚無」と戦い物語を守るために旅に出た。
行く手に「虚無」は広がり
美しく舞い踊り落ちる薄紅色の絹を纏った花弁たちが敷きつめた花弁の絨毯のうえを滑る子供の燥ぐ声も、シュプールを花弁の絨毯のうえに描く橇に乗った虫たちも、その花弁を喋む小鳥たちも姿を消し去り沈黙の無色の世界「虚無」はひた走っていました。
アトレイユは悲しみの沼に捕まり希望を絶やしてしまい沼にのみ込まれてしまいました。
セバスチャンは最後の勇気を振り絞り世界が灰色に見えるモノクロの雨の中バスを待つその世界の果てにいる無色で無関心で無感動で夢想で人の心を支配しようとする「虚無」と戦いました。
戦いは終わり、全てが「虚無」に支配されたような暗闇の中でセバスチャンは涙しました。その涙ひと粒の中に生命が宿り、あかりが灯りました。何処からかセバスチャンを呼ぶ声が聞こえます、声が聞こえる方を目指すと闇の中に光るお城があり女王様がおられました。
「僕は負けてしまったのですか虚無に」
「いいえ、あなたは勝利しました」
「さあ、ここから始まるのです」
「あなたの物語を描いてください」
「まず、わたしに名を」
「物語に登場するものたちに名を、あなたがつけてください」
「そこから、あなたが思い描く全てが」
「この国をつくります」
煌めく数多の物語は、たったひとつの名前から始まるのです。
無色の世界に色をつけながら、色々な物語の色を、あなたがつけるのです。
ミヒャエル・エンデ著書
「はてしない物語」へのオマージュ。
2024年4月18日
心幸