親から家を追い出され、一人公園で、このままどうやって生きていこうかと悩んでいた頃。夜だというのに一人の少女がやってきて、やつれた俺に声をかけた。
「おにーさん、一人でどうしたの?」
「……親から追い出されちまってね、『いい加減働け!』って」
「うーん……わたしも!おかあさんに追い出されちゃったの!『あんたの顔なんて見たくない!』って」
「こんな時間に……おまえ、それはぎゃくた……」
「おにーさんとわたし、仲間だね!」
「……」
きれいな声をしていた。傷だらけだが、かわいい顔をしていた。だがそれも些細なこととなるほどには、『仲間』と言ってくれた少女のくれた優しさは温かかった。
それだけが、俺が初めて恋をした理由だった。
「俺のこと覚えてるよね、あの公園の」
「え、誰ですか……離してください!」
「……覚えてない?15年前の7月30日、夜の北公園で仲間になった」
「誰?! 15年前って……北公園は近所にあったけど……」
「…………覚えて…………ない?」
「いっ……痛い! 離して!」
15年なんて月日が経てば、恋が愛に変わるのもたやすい。少女とはその間会うことはなかったが、また会えるその時のために定職に就き、アパートの2階に部屋を借り、少女に似合いそうな家具を選び、少女といつでも二人で幸せな生活が送れるように。俺はそのために生きた。
だが。少女は。俺のことを、覚えていない。
途端に愛は憎悪に変換される。何だ、覚えていないとは。俺はおまえに救われたんだ。何だ、顔の傷が全部治って。あの時の弱々しい笑顔はどこに。愛してる、愛してたのに!
気付けば、アパートに少女を連れ込んでから、1ヶ月が経っていた。少女をストーキングして、家を特定し、同居していた男を包丁で刺して殺した。お前もこうはなりたくないよなと脅し連れてきてから、1ヶ月。
連日報道されるニュースだけが、部屋に音を響かせる。少女の声を、もうずっと聞いていない。カーテンの閉じた部屋の隅で、ひたすら虚ろな目をする少女。
『調べによりますと、1ヶ月前に殺害されたとみられる男性は、出血性の』
「タカフミ……」
テレビを消した。途端に、部屋は静寂に包まれる。少女の表情は動かない。タカフミ、と知らない名前を呼んだその口のまま、動かない。
タカフミ。もちろん俺の名前ではない。少女の呼んだその名前は、俺の殺したあいつの名前。
どれだけ家具を揃えても、どれだけ金を稼いでも、どれだけ少女を憎んでも、愛しても。15年間育んだ愛は、誰かも知れない男に負けた、負けた、負けた!
気付けば、包丁を持ち出していた。俺も、少女も静かだった。物音一つ立てなかった。声なんて一言も出さなかった。
愛の終着点とは、憎しみの最上級とは、なんと静かなものだろうか。このまま少女は、苦しむ声も上げずに、その腹に刃を沈めて、俺の腕の中で息絶えるのだろうか。俺はその後を追って、静かに自らの喉を刺すのだろうか。ならば、この静寂は、俺が少女にかける思いの、最大の、表現。
このまま声も上げられずに、私は殺されてしまうんだ。静かな部屋の中でそう思った直後、聞こえてきたのはパトカーのサイレン。
薄暗い部屋に、不意に光が射し込んだ。窓ガラスが割れて、カーテンが開いて、ベランダから人が入ってくる。ここは、私の予測が間違っていなければ、たぶん2階だ。
あの人は嫌な顔をして、入ってきた人たちに見せつけるように、私の首に包丁を押し当てる。近づいたらこの女を殺す、と大声で喚いている。しかし、後ろからも聞こえる足音と人の声に、何かを察したのか、直ぐに包丁を下ろした。
ああ、ようやく助けが来た。懐中電灯で外にモールス信号を打ったのがよかったのか、私がいないことを不思議に感じた知り合いが動いてくれたのか。なんにせよ、この部屋から1ヶ月も出してもらえなかったのが、やっと見付けてもらえたのだから。
ベランダから、そして玄関から入ってきた人たち……警察が、あの人を捕らえる。後ろ手に手錠をかけて、無線というのだろうか、何か通信機具のようなもので、他の警察に現行犯逮捕だの何だのを伝えている。その合間に、私のほうにも警察が数人駆け寄ってきて、大丈夫ですか無事ですかと目まぐるしく質問してきた。
警察の質問に答えている私の後ろで、あの人は玄関の方向に連れ去られていく。引き摺られて服の繊維がちぎれる音が聞こえる中、あの人は最後に言った。
「……お前は、俺から離れられねえぞ!」
そして10年。あの人の死刑が執行されてもなお、私はあの人の言葉に恐怖を植え付けられたままでいる。
日頃から傘を持ち歩くように気を付けていたが、今日に限って忘れてしまった。冷たい雨が体に当たる中を走り抜ける。せめてこれだけでも濡れないようにと、革のカバンを前に抱えて、猫背になった。
すれ違う人々は傘をさしているのに、わたしだけが雨に濡れている。みじめだ。テストで最低点として自分の取った点数が発表されたときくらいみじめだ。
それでも、なんとか近くのポストまで、このカバンの中の荷物を持っていかなければいけなかった。先方への大切な手紙だから、いくら自分が濡れ汚れようとも、みじめさを感じようとも、この手紙を出さないわけにはいかない。
しかし一人でここにいるわたしとは裏腹、すれ違う人々は誰かと二人で、または大勢で歩いている人々ばかりだ。クソ、リア充め。こちとら大学でも恋人ができないまんま社会人になったんだ。それに何だ、今日は平日だというのにラフな格好で。わたしはブラック企業で連勤35日目だ。ああ、雨のせいもあってか、気分がどんどん悪くなっていく。
雨がいっそう強くなる。ポストまであと少し。向かいから歩く人のせいで、水溜まりからハネた汚水がかかる。さすがに嫌な気分になって、ガンでも飛ばしてやろうとそいつを見た途端。
「………え、かわいい。」
ワンちゃんがいた。レインコート着て散歩してるワンちゃんがいた。かわいいワンちゃんだった。
いや、とてつもなくかわいい。本当にかわいい。目が合った瞬間、わたしはこの世の嫌なことを全て忘れかけた。それくらいかわいかった。
気が付けば、雨が止んでいた。ワンちゃんは去っていった。わたしはさっきまでの嫌な気分も忘れて、30メートル先のポストへ向かっていった。
ねえ、「桜が綺麗なのは木の下に死体が埋まってるから」みたいな話、あるよね。あれってさ、死体の血が桜に吸い取られて、桜の花がピンク色になるからなのかな?
え、今その話する?秋だよ、綺麗に赤くなってる紅葉の木の下だよ今。空気読めないにも程があるでしょ。
いやいや、今からすること考えてみてよ!さっき言った……仮に「桜キレイ理論」って呼ぶけど。桜キレイ理論はさ、紅葉にも通用するかなって。
……何言ってるの?
紅葉がもーっと明るく、赤くなりますように。やっぱさ、いつまでも二人で楽しみたいじゃん?紅葉。
……血抜きしたじゃん。「指紋消しと血抜き、あと歯形も気を付けて!」って言ってたの誰だよ。
あ……ほんとだ。じゃあ、紅葉これ以上キレイにならないじゃん!この紅葉はこれが最大の美しさなんだ……。
まあまあ……死体そのものの栄養とかあるじゃん。あれ吸い取ったら、たぶんキレイになるんじゃね?桜もたぶんそうだよ。死体の血じゃなくて栄養を吸い取ってる。たぶん。
ああ……!なるほど!さすが大天才!我が親友!じゃあ来年も再来年も、ここで次第に美しくなっていく紅葉が拝めるってことだね!
………二人で、見に行こうね。
え、なんか言った?
君は実にバカだなあって言った。じゃ、埋めよ。
あ、誰がバカだぁー!
滑走路を猛スピードで走り、地面から離れ、少し前まで住んでいた街にさよならを告げる。雲を突き抜け、乱気流のなか、飛行機になんて乗り慣れていないわたしは、ああ墜落しなければいいな、なんて他人事のように思った。
とんでもなく、あっけなかった。日常が壊れるのも、飛行機が飛び立つのも。周りは目まぐるしく動いているのに、わたしはなにもできなかったから、まるでわたしが騒ぎの中心にいるみたいだった。あれやこれやで、国境を越えた引っ越しが決まって、わたしは、お母さんが死んでから、わずか6日で家を出ることになっていた。
やはり葬儀もあっけないもので、棺の窓から花まみれのお母さんの顔を見ても、お母さんが死んでしまったことへの悲しみもなく、飲酒運転をしたトラックドライバーへの憎しみもない。立ち上る煙に涙を流すこともなく、崩れていく日常と、周囲の大人たちからの哀れがる目線を感じていた。そんな中わたしは、外国人であった離婚済みのお父さんの話を受けるしかなく、お父さんの元へと移住することになったのだ。
3日かけてまとめた荷物は、諸々を捨てた結果、大きなキャリーケース1個に収まるくらいになった。わたしの15年間、なんとポータブルな人生。わたしはそれを、初めての空港でも迷うことなく手荷物預け場で預け、難なくチェックインも終え、たった一人で人生の新たな門出を切ったのだ。
もう窓からは、とっくに街は見えなくなっていた。わたしの平凡な日常は、崩れ去った。実感なんてない、浮いてしまいそうな心持ちで、一面に雲しかない白い窓を見ていた。
ああ、もう何もないな。学校でできた友達も、ピアノコンクールの出場も、この先の人生の展望とかも。お母さんも。真っ白になってしまった。友達と原宿スイーツ食べに行きたかったな、ショパン弾きたかったな、あの街で、もっとやりたいことあったのにな。
……お母さん。ほんとうに、死んじゃったんだ。窓から見える白い雲。白装束に白い顔。あれほど生命に溢れていたものが、こんなにも無機質になれるんだなと思った、棺窓。花だけは色とりどりだから、それが余計に、無生命を引き立てて。まるで、青い空に、赤い夕焼けに、暗い闇夜に、白い雲が映えるように。
上空1万メートル。やっと、お母さんの死を咀嚼できるかもしれない、と思った。