日が沈むと、山はそれまでとは打って変わって不気味な様相を見せる。夜の山には生きている人間は一人もいない。だが、そんな闇に包まれた山に、人知れず迷い込んだ者たちがいた。
あくる朝、一人の村人が山の中で見慣れない花を見つけた。その花は朝日を浴びて透き通り、不用意に触れればたちまち砕け散ってしまう硝子細工のように無垢な輝きを放っていた。
村人は花を無視して仕事を始めた。村人は知っていた。硝子細工の花の下には、永遠の愛を誓ったいたいけな子供たちが、二人静かに眠っていることを。
(繊細な花)
サスペンス映画を観た。つまらない映画だった。だが、エリーにとってはそうではなかったらしい。
一年後、エリーは失踪した。かつて彼女の父が、不可解なメモを遺して失踪したように。
(1年後)
「日常ってさぁ、小説の題材になり得ないと思うんだよね」
「…いきなりなによ」
「そもそも何で本を読むかってさ、一瞬でも日常を忘れるためだろ?日常から逃げるための手段であるべき小説が、逆に日常を突きつけてくるなんておかしいと思うんだよ」
「ま、たしかにそういう考え方もあるかもね」
「だろ?大体、そんなに日常が好きなら、小説じゃなくてエッセーとかを読めば良い。息苦しい日常から逃れるための小説に日常を書き入れるなんて、そんな悪辣な趣味俺には理解できないね」
「だからあんた、平凡な日常が描かれるだけのハートフルなホームドラマとか嫌いなのね」
「いや、それはまた違う。ああいうのは単純に、『幸せの正解』を押し付けてくるから嫌いなんだ」
「…なるほどね。でもあんた、日常の要素なんて全くない、SFやらファンタジーやらも嫌いじゃない」
「ああ、あれは非科学的だからな」
「…ややこしい人!」
小説家崩れの彼と私の同棲中。
私が一番幸せだった頃の日常。
(日常)
ぼくの世界は生まれたときから不完全だった。
いわゆる「色盲」というやつで、ぼくがいるのはいつも色のない世界だった。
でも、ぼくの目はきみの瞳の色だけは認識することができた。
きみの瞳が何色なのか、ぼくにはわからないけれど、ぼくはその色が一番好きだ。
きみと過ごした長い年月のなかで、ぼくはもう何も見ることが出来なくなってしまったけれど、今でもきみの瞳の色は、ぼくの心にしっかりと焼き付いている。
(好きな色)
小雨が降る中、安産祈願に訪れた相合傘の二人。そのうちの一人、懐妊した妻に甲斐甲斐しく傘を差し向ける男の声に、わたしは聞き覚えがあった。
──かつて、妊娠したわたしの腹を無慈悲に蹴りつけ、流産させた男。
そんな男が、別の女と幸せになろうとしている。わたしの子供たちは、あの男のために生まれることさえ許されなかったというのに、あの女の子供は同じ男に生まれることを望まれている。
許せない……許さない。
──────
「あっ、」
「ん?どうした?」
「今、黒猫が横切ったの。」
何か不吉~、と私はごく軽い気持ちで言ったが、夫はなぜか、何か後ろめたい事でもあるかのように、奇妙に顔を歪ませて言った。
「…そんなの、ただの迷信だよ。」
(相合傘)