沼崎落子

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5/2/2023, 11:13:22 AM

昔のおれは注射が嫌いだった。痛いしいたいし、とにかく針が怖かった。それに痛い。
泣きじゃくるおれに「頑張ったね」とペコちゃんのペロペロキャンディとミルキーとふたつくれていたが、おれは「こんなもので泣き止むか!」と思いながらもらっていた。

大人になって、子どもを育てるようになると思うのは、予防接種しないと自分もこっちも大変になるんだから行かざるを得ないのである。親をどんなに嫌おうと喚こうと泣こうと打ってもらわなきゃ困る。
長女の方はとにかく泣いて叫んでいたが、アメでころりと笑顔になっていた。
弟の方のこの子はあまり泣かない子だった。
泣かなくてえらいなー、としゃがみこんでみるとものすごく泣きそうな顔をしていた。ただただ我慢していたのである。看護師さんにもらったアメの包装をとってやるとすぐに口の中に運んだ。
「お父さん、ぼく、えらい?」
「うん、えらい。昔のおれよりえらい」

5/1/2023, 10:13:34 AM

 この世界には黒と白しかない。いや、灰色というものもあるし柄のようなものもあるけれどそれらはあくまでも黒と白の何かである。
 自分が、前世で見ていた漫画の世界でそのまんま漫画の表現の中にいる、と気づいたのはいつだったか。それまでは効果音と呼ばれるものが文字で描かれ、自分たちの話す言葉が吹き出しのように飛び出ることになんら違和感などなかったのに。
 白黒の世界で綺麗なのにおいしそうに見えないリンゴと、いつも通りの白いご飯なのに味気なさを感じる白米と、もはや食べ物とは思えなかった味噌汁とを鮭とを見て狂ったように叫んでしまい、自殺未遂をしたりしなかったりとしていたら母親に「生きているだけでいい」とさえ言われてしまった。
 まともに生きたいと思った。

 前世の自分はとてもいい世界に生きていた。色があって匂いがあって音があって。ぶんぶんと腕を振り回せば空を切る感覚がしていたあの頃が懐かしい。

 自分は今も夢を見る。色のたくさんあるあの世界を。目を覚まして色彩のない真っ白な天井を見て、今日もここにいるのだと思った。

4/30/2023, 11:49:19 AM

 結婚の知らせが届いた。私は式に招待されていない。した、という噂を聞いた。


 昔から親に気厳しい躾を受けていた。当時の私にはそこから逃げるという考えさえ持てなかったが、高校の時にあった彼女はそんな私を叱りつけて私に親の言うことを無視して遊ぶ、ということを覚えさせた。
 私は買い食いも寄り道も初めてのことで、親から禁止されていた自分の好きな服を買うということも高校生になって初めてやったのだった。
 大切な人だった。それなのに、今では原因さえも忘れてしまった些細なことで大喧嘩をして疎遠になった。SNSはブロックされて、共通の友だった人も私から離れていった。
 私は彼女のことなんて忘れればいいのに、どうしてもふとした瞬間に彼女と笑いあったあの時を思い出すのだった。
 彼女といるその時間が、わたしのとっての自由であり足枷のない楽園だった。

4/29/2023, 11:56:53 AM

風に乗ってあいつがやってくる。
てめぇ、誰の許可を得ておれの体に入ってくる。
くそ、くそ。今年もまた辛い季節がはじまる。

花粉症の薬はドライバーには大変なんだぞ。

4/28/2023, 10:41:26 AM

 目を開けると、いつもの場所なのになぜか毎回「ちがうよな、これ」という気持ちになる。自分の服は変わらず、外に見える光景も同じなのに。
 なあ、と空に声をかけると「はい」と女の声が聞こえた。静かに襖が開いて女が頭を下げて入ってきた。
 いつも起きたあとに世話をするのは少年のはずだったのに。お前誰、と聞くと「わたしは127代目の『世話係』です」と返事が来た。
「……前にいたのは、何代目?」
「記録によれば、完全に覚醒されたのは68代目だったようです。寝言を聞いたものはほかにもおりますが」
 今回の眠りはだいぶ深かったらしい。おれが会いたかった男は転生したのか、と聞くと「まだでございます」と言われた。

 初代世話係となった男は短命だというのにおれに一生を幸せにすると言った。最初の方はおれも馬鹿だったので彼のことを突っぱねてしまったのだった。彼と一緒にいることが楽しい、と気づいた瞬間には彼はもう人間で言うところの中年期とかいうやつで、彼の残りの人生はおれにはあまりにも一瞬で時間が過ぎるのはとてもはやかった。
 彼はまたおれに会いに来ると言った。子孫たちにあなたを世話させる、と。おれにはそんなものいらなかった。ただ彼と一緒にいたかった。本当は彼の番になって彼のことをすべてもらっていきたかったけれど、彼には人間の女の妻がいて、おれは割って入れば彼にもう会えないだろうと思った。

 妻になった女はおれの世話係をすると言ったが、おれは悲しくて悲しくてとてもじゃないがこの女の顔を見ていられないと眠りについた。次に起きた時、世話係だと名乗る子どもがいた。初代の彼のやしゃ孫という少年はほんの少し彼の面影があった。
 おれは起きたほんのつかの間に彼らの面倒を見た。人間はすぐに死ぬのでおれにとっては刹那のようなものだったが、彼らとの時間はそれなりに楽しかった。その時に出会った世話係が亡くなると悲しくってまたどうしようもなくなって寝ることにしていた。
 そうやって続けていたら、とうとう127代目になったらしい。初代の彼はまだおれに会いにこない。
「なあ、おれは彼に会えると思うか」
 女の世話係は初めてで、動揺していた。思わず漏れた言葉に「いや、」と否定しようとして女がじっとこちらを見ていることに気がつき何も言えなくなった。
「眠っておられるあいだ、初代と思われるような方がいらっしゃいました」
「は」
「ですが、彼は眠るあなた様を見て『起こすのはしのびない』と笑っておられました」
 あなたが起きる前、つい昨日、墓に骨を埋めてまいりました。

 それから何をしたのかよくは覚えていない。ただ気づいたら墓場にいた。墓をのぞけば幾多もの人の骨がある。自分は今度はそこで眠ることにした。今度こそ、手放さないと思った。

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