→短編・ぐるりさん
多くの人が行き交う往来で、名前を呼ばれた私は振り返った。
柔和な雰囲気の女性が朗らかな笑顔を浮かべている。
「急に引っ越しちゃったよね? 小学5年のときクラスメイトだったんだけど、覚えてないかな?」
そう言って名乗った彼女は、あまりにも私の知る彼女の印象からかけ離れていた。
私が訝しげな表情をしていたのだろう。彼女は秘密の暗号を口にするように声を落とした。
「ぐるりさん、知ってるよね?」
私は思わず息を止めた。背中がヒュッと凍った。
ぐるりさんは当時の小学生のあいだで流行ったおまじないだ。人格を変えてしまうおまじない。
やり方は簡単で、対象人物の名前を薄紙に書いて水に濡らし、校庭の隅にある踊る少女像の台座にこれを貼る。このとき名前を書いた面と台座を合わせること。そうすると、濡れた薄紙越しに名前が反転して浮き上がる。
夜中に少女像はぐるりさんとなって、名前の主を人格を裏返してしまう、というものだ。
良い人は悪い人に、その反対も然り。中学校の男子生徒にこれをやられた人がいて、大人しかった彼は不良グループに入ったという。同様の話は山ほどあったが、どれもこれも噂話止まりだった。怖さ半分興味半分の小学生ゴシップだ。
当時、私のクラスメイトにイジメっ子がいた。彼女の陰湿なイジメは凄まじく、最終的にクラス中から総スカンを食らっていた。
放課後に友人たちと遊んでいたとき、彼女の名前をぐるりさんに貼ってみようという話になった。イジメっ子の反対は優しい子、だからクラスのためにも彼女のためにもなる。この大義名分を言い訳に私たちはおまじないを実行した。
しかし、その結果を私は知らない。
その日の夜遅く、私は母親と逃げるように家を出た。長く続いていた父親の暴力が原因だった。
「誰かが私の名前をぐるりさんに貼ったんだって。信じられないかも知れないけれど、私すっかり変わったの。あなたのこともイジメてしまったよね。本当にごめんなさい」
呼び止めてごめんね、と彼女は申し訳無さそうな顔をした。その性格の良さや今の幸福さ加減がうかがい知れる。
私は曖昧に「そんなこと……」と言葉を濁すのが精一杯だった。彼女の今は良い結果に恵まれているようだが、私の後ろ暗さは晴れない。否、なおさら陰を増す。
あの日、ぐるりさんに彼女を裏返してもらおうと言い出したのは、私だ。
彼女で成功したら、父親の名前を貼るつもりだった。本当に変わるのか、どう変わってしまうのかを確かめたかったのだ。
もしあの日、彼女ではなく父親の名前を書いていたら……。
去りゆく彼女の後ろ姿を、私はぼんやりと見送った。
テーマ; 裏返し
→映画鑑賞・『イオとブリュノーとマスタング』
気がつくと、私は映画館にいた。
スクリーンには題名も話のジャンルも何もわからないフィルムが回っている。ストーリーがどこまで進んでいるのかさえ、皆目見当がつかない。
少し鑑賞するうちに、駆ける馬のエンブレムのオープンカ―で旅する2人の男のロードムービーらしいと推測した。
砂漠のような荒野に延びる真っ直ぐな1本道をただひたすらに進むのは、終始くわえタバコで運転する中年のブリュノーと、女装の少年イオ。二人の関係性は謎だ。
こんな会話があった。
「なぁ、イオ? お前いつまでそのカッコ続けるつもりだ?」
「この旅の果まで」
「じゃあ一生そのままだな」
なるほど、イオの女装は何か理由があり、彼らの旅は目的を失った状態のようだ。
イオは繊細な顔立ちをしている。おそらくは10代後半。レースやフリルを併せた服を着ているが化粧はしていない。言葉少なげな様子から内向的な性格が知れる。
一方のブリュノーは飄々とした人物で、窓に肘を置いて片手運転する、如何にもロードムービー向けのキャラクターだ。
立ち寄ったダイナーで、イオは常連客に女装を揶揄われる。少年は何も言い返さず、黙って耐えている。
彼の沈黙を良いことに増長する嘲笑。そこに席を外していたブリュノーが合流する。
彼は無法者たちに訊ねた。
「随分と酒が進んでるな。いい肴でもあったのか?」
「怒るなよ、兄さん。アンタの連れ合い、この辺りじゃ珍しい格好だってだけの雑談だ。そういう話で酒は進むもんだろ?」
「あぁ、そうだな」とブリュノー。
しばらくして店を出る際、彼は常連客たちに顎をしゃくり店主に言った。
「俺たちの飯代くらいの話の種になってやっただろうよ」
呆気にとられる一同を残して、2人は店を出ていった。
再びオープンカーの2人。紫煙の帯を引きながら、運転するブリュノーの横でイオが立ち上がった。
両手を大きく広げて向かい来る風を受ける。彼のゆったりした袖が鳥の羽のようにはためいた。
「頼むから、鳥のように飛んでいきたいとかバカ言うなよ」
その軽口にイオはポツリと呟いた。
「逃げるの嫌い。嫌な気分を吹き飛ばしてるだけ」
肩を竦めるブリュノー。
「そういう強さはもっと表に出してイイもんだぜ?」
ここまで観ても、全く何もわからない映画だ。エンドロールが始まる様子はない。もう少し鑑賞を続けてみよう。
テーマ; 鳥のように
→短編・小野寺勇斗(28歳)
さよならを言う前に、俺は幼い娘を抱き上げる。娘は小さな顔を甘えて俺の肩に埋めた。
今から1ヶ月前、帰ってきた俺に娘は警戒してなかなか寄り付かなかった。ショックよりも、短い足を突っ張って隠れたカーテンから見える娘の背中が可愛くて可愛くて、動画も写真も撮りまくったな。
半日ほどで、コイツはビデオ通話で話してた父親とかいうヤツだと気づいてもらえた。
舌足らずな声で「おとしゃん、バイバイ?」と娘はくすくす笑った。その言葉の意味を正確に理解しているかどうか怪しいものだ。後から泣くのかな? それとも案外と平気なのかもな。
前回、娘はまだ首も座らない赤ん坊で、手を振る妻の胸に抱かれて眠ってた。あの時も胸が張り裂けそうなほど、別れが辛かった。
辛さの比較なんて馬鹿らしいが、娘がこうしてすり寄ってくれるようになった今、別れはさらに耐え難い。思わず妻にそのことを漏らした。男親のエゴだと鼻で嗤われるかと思ったら、親バカ万歳と揶揄われた。お前、本当に頼りがいがあるよ。
娘の頭にキスをする。柔らかい髪が鼻をくすぐる。小さな子ども独特のミルクのような匂いがする。その甘い香りに、安直だが、愛おしいとか無垢とか天使とか世界で一番可愛いとか宇宙で一番可愛いとかそんな言葉が頭に浮かんだ。
周囲が慌ただしくなりだした。送迎の大きな声、振られる旗、それに応える汽笛。
あぁ、そろそろ行かなきゃ。
「じゃあな」
妻に娘を渡す。大きな目が不思議そうに俺を見ている。やっぱりバイバイは理解できてないな。そのあどけなさに俺の目が潤む。
―バシン!!
「行っといで!」と妻に背中を叩かれた。目の端の涙が吹き飛ぶ。
「痛って!!」と睨みつけると、片腕に娘を抱えた妻の笑っている瞳の奥に、覚悟がチラついていた。そうだよな、待つ方もしんどいよな。それでもお前はそんな事を一度も口にしない。俺、マジでお前と結婚して良かったわ。
甲板の上から、妻と娘に手を振る。娘が小旗を振っていた。
陸と繋がる見送りの紙テープが一枚、また一枚と切れてゆく。港の声に波とエンジン音が重なる。
「しっかり稼いで帰ってくるからな!」
俺は威勢良く二人にガッツポーズをしてみせた。
マグロはえ縄漁船が次に帰港するのは、1年後だ。
テーマ; さよならを言う前に
→名作探訪 第55回 (改稿2024.8.20)
製折紙所『風景専科』の
『空模様』シリーズ
『風景専科』の折り紙は、社名が表すように風景に特化している。瞬間の風景を、専門の職人がマーブリングで写し取る。
刹那を閉じ込めた折紙は風景ごとにシリーズ化されており、『花模様』『水の旅』『宙と星』など様々。今回、紹介するのは隠れた名作『空模様』シリーズだ。
未明から深夜まで、これまで折り紙となった空模様は数知れず。
もしかすると、あなたが寂寞を覚えたあの日の茜色の空もシリーズの中に見つかるかも、知れない。
文房貝店、オソラインストアにて販売中
テーマ; 空模様
→短編・失踪事件について
本社1階のトイレの洗面台で私は髪を梳かしていた。他には誰もおらず、私一人だ。
洗面スペースは、大きな鏡が向かい合い空間を広く見せている。同時に、どこまでも続く鏡の世界に、自分がサンドイッチされてしまいそうな落ち着かない気分を覚えた。
ふと、後輩の言葉が脳裏をよぎった。
「本社1階のトイレ、合わせ鏡で怖くないですか?」
そう言えば、子ども頃に噂話で12枚目の鏡に何か映るとか、引っ張られるとかあったなぁ。怖いもの見たさで手鏡を合せてやってみたけど、自分の顔と対面するばかりで、肝心の合わせ鏡の部分は見ようにも上手く見えなくて……あれ? 今、合わせ鏡の奥の方、何か見え―――
―カラン
本社1階のトイレに櫛が落ちた。持ち主の姿はどこにもない。
大きな向かい合う2枚の鏡が、お互いを反転しながら映し合う。鏡の虚空が繰り返される。
その隙間に何か見えたなら、おいでくだちい。いらっしゃいませ。
テーマ; 鏡