→短編・小野寺勇斗(28歳)
さよならを言う前に、俺は幼い娘を抱き上げる。娘は小さな顔を甘えて俺の肩に埋めた。
今から1ヶ月前、帰ってきた俺に娘は警戒してなかなか寄り付かなかった。ショックよりも、短い足を突っ張って隠れたカーテンから見える娘の背中が可愛くて可愛くて、動画も写真も撮りまくったな。
半日ほどで、コイツはビデオ通話で話してた父親とかいうヤツだと気づいてもらえた。
舌足らずな声で「おとしゃん、バイバイ?」と娘はくすくす笑った。その言葉の意味を正確に理解しているかどうか怪しいものだ。後から泣くのかな? それとも案外と平気なのかもな。
前回、娘はまだ首も座らない赤ん坊で、手を振る妻の胸に抱かれて眠ってた。あの時も胸が張り裂けそうなほど、別れが辛かった。
辛さの比較なんて馬鹿らしいが、娘がこうしてすり寄ってくれるようになった今、別れはさらに耐え難い。思わず妻にそのことを漏らした。男親のエゴだと鼻で嗤われるかと思ったら、親バカ万歳と揶揄われた。お前、本当に頼りがいがあるよ。
娘の頭にキスをする。柔らかい髪が鼻をくすぐる。小さな子ども独特のミルクのような匂いがする。その甘い香りに、安直だが、愛おしいとか無垢とか天使とか世界で一番可愛いとか宇宙で一番可愛いとかそんな言葉が頭に浮かんだ。
周囲が慌ただしくなりだした。送迎の大きな声、振られる旗、それに応える汽笛。
あぁ、そろそろ行かなきゃ。
「じゃあな」
妻に娘を渡す。大きな目が不思議そうに俺を見ている。やっぱりバイバイは理解できてないな。そのあどけなさに俺の目が潤む。
―バシン!!
「行っといで!」と妻に背中を叩かれた。目の端の涙が吹き飛ぶ。
「痛って!!」と睨みつけると、片腕に娘を抱えた妻の笑っている瞳の奥に、覚悟がチラついていた。そうだよな、待つ方もしんどいよな。それでもお前はそんな事を一度も口にしない。俺、マジでお前と結婚して良かったわ。
甲板の上から、妻と娘に手を振る。娘が小旗を振っていた。
陸と繋がる見送りの紙テープが一枚、また一枚と切れてゆく。港の声に波とエンジン音が重なる。
「しっかり稼いで帰ってくるからな!」
俺は威勢良く二人にガッツポーズをしてみせた。
マグロはえ縄漁船が次に帰港するのは、1年後だ。
テーマ; さよならを言う前に
8/21/2024, 2:38:34 AM