《放課後》
高さのためか強く風が吹き込む三階の廊下は、夕日が反射して眩しく感じられる。
部活動に所属している生徒は活動中、所属していない生徒はとっくに下校済み。
校庭の喧騒もどこか遠く聞こえる。
まさに、絵に描いたような学校の放課後。
「好きです……付き合って下さい!」
そこで告白されるというシチュエーションは、どれだけ使い古されたものだろうか。
そして——告白された側の親友がそれをうっかり聞いてしまうということも。忘れ物を取りにのんびり下足室から教室へ戻り、開けようとしたその瞬間に、妙に鮮明に声が聞こえてくることも。
あとほんの少し力を込めれば引き戸を開くことができた筈の手は、ひんやりとした鉄の引き手に触れたまま動き方を忘れたように止まった。
引き戸の隙間から緊張した空気を感じ、気が付けばそれに呑まれて立ち竦む他なかった。
対して、教室内では一拍置いて、
「……それは、できない」
と謝罪の響きを伴って言葉が紡がれていた。
現実逃避を目論む頭が、ごめんとかじゃないだな、とどこか冷静にそんなことを思う。
「……その、好きになってくれたことは、ありがとう……と、思うんだけど」
「なら……、」
聞き馴染みのある声で、初めて並ぶ音が紡がれていく様を傍聴する自分の立ち位置に困惑しながら、体は思うように動かない。
「悪い、本当。君の想いには応えられない」
はっきり言うなあ、とか。
迷わなかったな、とか。
相手の子を傷付けたくないんだろうな、とか。
部外者としてそう思うけれど、親友のそれは、随分と迷った声色だった。
多分、結構、割と、悩んだんだろう。
「わかり、ました……。急に、言ってごめっ、なさ……っ、ひっ……く……ぅ、あ……」
「! ごめん、泣かせたいわけじゃ、」
親友の口から発される謝罪。
「……あー、忘れ物するとかツイてねぇわ、マジで! わざわざ教室まで戻って来ないとだし」
口を突いて出た言葉は、右手が息を吹き返すのと同時に引いた戸の音と、重なる。
突然現れた乱入者に、二人の視線は向けられる。親友は、この登場に何を感じただろう。
「……あれ、まだ誰か残ってたんだ。えーと、ごめん、取り込み中だった?」
今彼らに気が付いた振りをして、急いで自分の机からノートを抜き取る。
というか相手、一個下の後輩だったのか。
「……あ、いや……わ、忘れて下さい! ごめんなさい、失礼します……!」
「あっ、ちょっ……!」
涙を完全に拭き取りもしないまま、告白をした女の子は逃げるように教室を飛び出して行った。
そこでようやく気を利かせた振りをして、親友の肩を抱く。
「……これってもしかして、告白とかだった? なんか邪魔しちゃってごめん」
「…………あのな、お前が今謝るべきなのは、俺じゃなくてあの子だ」
返答は、手は払わないまでも、鋭い視線。
そうだった。この男、伊達に親友をやっていない。嘘にはすぐ気が付くのだった。
肩を竦めて、学生鞄にノートを突っ込む。
「はいはい。悪かったとは思ってるよ、ホント。告白なんて、勇気を振り絞って頑張った結果なんだろうし……」
「ならどうして、わざわざ入ってきたんだ」
「お前さあ、成り切れないのはわかるけど、寧ろ今の方が残酷だったぞ?」
さっきの、泣かせたくない、という言葉は親友の本心だったろう。
相手を想っての言葉ではない。
そう、自分自身が相手を泣かせてしまったという事実と向き合わなければいけないことが、嫌だから。
「……そう、だな。こんな時にも俺は自分のことばっかりで……」
「いやいや、普通だって! 自分の恋愛の話なんだ、自分本位で考えることの何が問題なんだって話だろ。自分の感情だぜ?」
敢えて軽く言ってみせるが、当然、表情は厳しいままだ。困った親友だこと。
「けど、本当にキレイなままで終わらせてやりたかったんなら、ちゃんと最後まで振ってあげるべきだったろ?」
「それについては反省してる! けど、あんまりだ、あのやり方は。本当に、」
「へいへい、謝りに行ってくるわ、一旦」
忘れ物は回収したし、と戸に手を掛ける。
「待て」
「ん? なに、早く行かないとあの子帰っちゃうかも知れないんだけどー」
「……俺を想っての行動だったんだろう。それに関しては、ありがとな」
「いーってことよ、親友君や」
笑って茶化して、今度こそ教室を出た。
それから廊下を少し歩けば、階段の手前で座り込む影が一つ。恐らく自分の教室まで戻れなかったのだろう、あの子だった。
「……っ……ぐすっ……はぁ……」
「……あー、ごめんな、さっき。邪魔しちゃったよな、絶対」
「……ッ! だい、大丈夫なので……!」
あいつには勿体ないくらい健気。
顔を伏せたまま声を返す後輩に、どうしたものかと悩んで十秒。
「——ねぇ、君さ、俺と付き合わない?」
「……え?」
よほど驚いたのか、顔が向けられ、視線がぶつかる。涙は止まったようだ。
「あいつに振られたんならもういいっしょ? ね、俺と付き合おーよ、後輩ちゃん」
「……馬鹿にしないで下さい。私、そもそもあなたのことよく知らないし」
「ツれないこと言わずに〜。俺って結構優良物件だと思うけどね?」
「……空気は読めなさそうですけどね」
「痛いとこ突くなぁ、君。で? 返事は?」
「無理ですごめんなさいさようなら」
「スッパリ言うな、本当……じゃ、諦めて帰るわ。あんま遅くならないうちに帰れよ〜」
「……はい」
気まづそうな声を背で受けて、階段を降りる。
告白した直後に、相手の友人らしき人物から告白されるという可笑しな状況。
さて、これでどれほどショックは感じにくくなれただろうか。
「少なくとも、涙枯らして帰るよりはマシだったらいいけど……自己満乙〜」
親友が誰かを傷付けたという事実は、認めたくない。
これはそういう、ちょっと不思議な、あるいは歪んだ友情が成す業なのだろう。
《過ぎた日を想う》
文明が発展し、殊に医学の分野において異様に発達したといっていい現代社会において、傷とは。
どんな手術痕であろうと元の通りにしてしまえる技術が生まれたのは、何十年か前のこと。五年前には、どんな古傷をも跡形もなく綺麗さっぱりとしてしまう技術が生まれた。
そうして、現代社会を生きる人々にとって傷とは一瞬にして治るものとなった。
過去では諦めるより他はなかった古傷さえも、未来で治すことのできるようになったのだ。
——今、老人が一人、息を引き取ろうとしていた。
実に百四十年余りを生きた体は、既に崩壊の兆しを見せている。
医学の発展がもたらした結果が、この寿命の延びた肢体なのだ。
また、この老人の体には数多の傷が刻まれていた。
周囲のものは皆、誰彼問わず治したそれを。この老人は後生大事に抱えていたのだ。
雨の日に時折疼く裂傷、腕を動かした時にやや痛む刺傷、なにより不便でならなかったろう、左目を縦に貫く刀傷の数々を。
どうして傷を治さないのか、と近所の人が老人に聞くと、
「この傷はただの傷ではないからだ」
と返したそうだ。
ではなんの傷なのか、とまた老人に聞くと、
「朋のくれた思い出だ」
と答えたそうだ。
結局それ以上は語ろうとせず、近所の人達は老人の傷だらけな姿を忌避した。
それでも老人はその姿勢を崩すことはなく、生涯古傷を抱えたまま幕を閉じようとしている訳である。
「……優心……遥香、龍斗」
傷ごとに、老人の口は古き朋の名前を紡ぐ。それぞれに、どんなに小さくともそこに思い出を刻まれてあるのだ。
「優奈、彰人……航誠……木乃美」
まるで愛おしいものかのように、老人は傷をひとつ撫でては涙を零す。
もう殆ど動かない体だ、手の動きも既に震えに支配されかけている。
「一花……朝美、恭介……」
殆ど視界は朧げとなり、老人の手は布団の上に落ちた。
そうして、老人はただ——眠りに落ちた。
安楽死というものが病死よりも遥かに増加した現代社会において、老人の死体なぞ埋もれてしまえるありふれたものであろうが。
それでも、老人は決して他の人に埋もれる姿をして亡くなりはしなかった。
古傷を撫ぜ、過ぎた日を想う。
それだけの差が、この老人の死を異なるものへとしたのだろう。
それだけの差が、この老人の孤独な死をあたたかなものとしたのだろう。
体を傷付け欠けさせたまま、心を満たした老人は静かに息を引き取った。
その心に気付く者は、この社会において存在するのであろうか。
人々が失いつつある、不可思議で無理解なことの意味が問われるのは、いつになるであろうか。
《奇跡をもう一度》
魔法学園の入学式が執り行われる日。
新入生達は、開かれた正門の前で立ち尽くしていた。
魔法学園の入学試験は、全部で三つある。
一つが筆記、一つが身体能力と機転を測る実技、最後の一つが——
「迷路を抜け、講堂へ辿り着いた者のみに入学資格を与える」
というものだった。
魔法によってか、肥大化した植物が覆う講堂へ続く道が視界を塞ぐ中で、声は頭の中で厳かに響いた。
物理無効の魔法によってのみ破壊可能な、自己再生能力を持つ魔法植物による迷路。それを通って辿り着くには、当然魔法が必要不可欠となる。
入学前に魔法を会得している者は全体の一割にも満たない。だのに、最後にして最難関の試験において魔法が必要。
新入生らにとって、これは不可能を与えられただけに過ぎないやもしれぬ。ただ、決して魔道への道を閉ざすべく存在する試験ではないのだ。であれば、攻略法は存在する。
つと、一人の少年の前に魔法陣が生じたかと思うと、そこから膝をついた青年が現れた。
「——シュルツ王子殿下。是非、貴方の前に道を拓くことをお許し願いたい」
魔法学園の三年生の一人。学年首席を入学時から維持し続けている秀才にして、時期公爵の地位を約束された公爵子息だ。
「ああ。私からも願おう。頼めるか」
「お望みとあらば」
鷹揚に頷いた少年——シュルツに応えた彼は、道を塞ぐ魔法植物へと杖を向けた。
「【切り払われよ】」
たった一言、詠唱によって導かれた魔法陣が展開され植物の根を切断する。
そうして彼らが通った後に、すぐ、植物は元の通りに再生した。
つまるところこれは、ただの演出である。
王族という最初から入学資格を持つ者を用いた、その他の新入生らに攻略法を示すだけの。
「……わ、私の為にどなたか道を拓いて下さらない!?」
「——ええ、構いませんよ、リノア侯爵令嬢」
「気合いで行けないのか、これ!」
「——豪快ね。助けてあげるから突っ込まないの」
「俺……帰っていい……?」
「——はいそこ、諦めない。というか帰るな将来有望なんだから君ぃ」
家柄、工夫や能力……様々な観点で評価を受けた新入生達の元に魔法学園の三年生らは姿を現した。
魔法学園の三年生らが投影魔法で審査しており、彼らが気に入った新入生を指名して、それを受けた教員が転送するという仕組み。
早い者勝ちの面接のようなもの、というのがこの試験の実際だった。
一人またひとりと三年生に連れられ、迷路の中へと入っていく。
少しでも自力で進もうと模索する者もいるが、そういった手合いにはすぐに助けがくる。工夫を凝らそうという姿勢が評価されるのは、当然のことだろう。
「あ……どっ、どうしたら……」
そんな中、未だ事態を呑み込め切れていない少女が一人立ち尽くしていた。が、優れた能力者ではないと自覚していた彼女は埒が明かないとして、迷路へ足を踏み入れる。
右を見ても左を見ても見たことのない植物が目に映るばかりで、少女は訳もわからず駆けていた。気ばかりが急いてしまうのだ。
また行き止まりになって、一度少女は足を止めた。
「と、取り敢えず……どなたか聞こえませんか? 助けて下さい……!」
辺りを見回し誰もいないことを確認したかと思うと、少女は空白に向かって声を投げる。
「お願いします、どうしてもこの学園に入学したいんです! ……なんて、言っても聞こえてないか」
声を萎めて少女が肩を落とすと同時に、
「な」
景色が一変した。
植物に囲まれてていた筈が、いつの間にか正面には人がいる。魔法学園の制服を着た女性だ。その人は椅子に座っていて、その前に置かれたテーブルには、受付、とあった。
突然現れた少女に女性は驚いて声を上げた。
だが、状況についていけない少女の耳にそれは入らない。
「…………へ? ここ、なんで……私、」
「お、おめでとうございます!」
「あっ、え? ありがとう、ございます……?」
務めて冷静になろうとした女性の圧に押されて、少女は感謝を言った。だがやはりなにに対してなのかすらわかっていない。
「……正式にご入学されました。どうぞ、扉を進んで空いている席に着席して下さい。試験終了までは待機時間とします。私語は自由です」
「は、はい……」
女性に促されるまま、少女の三倍はありそうな高さの両開きの扉を開ける。見た目よりも遥かに軽いのも、魔法かなにかか。
その向こうにあったのは、半分ほどの席の埋まってある講堂だった。
迷路の先にある講堂とは、ここのことではないかと少女は気付く。遅いが、それでも咀嚼してでなければ理解できない急展開であった。
「え、ええっ? つまり……どなたかが私をあそこまで転送してくれたってこと……?」
先程かけられた言葉も反芻した結果だ。
少女の記憶にも、そして今周囲にも上級生らしき人物は見当たらないがそういうことなのだろう。魔法についてよく知らないが、だからこそ、そういうものかと納得する。
「……今ご覧になっていらっしゃるかはわからないですけど、助けて下さってありがとうございます!」
見えているか、見えていないかわからないが少女は礼を言った。
なにはともあれ、最終試験に合格できたことは感謝すべきだろう。
そうして、少女の奇跡は一度起こった。
——あれから一年経っても、少女を助けた人物はわかっていない。
それでも少女は、当時三年生だった上級生らを片端から当たって恩人を探し続けている。
願わくば、恩人に会いたいと。
「お願いします、どうか、奇跡をもう一度」
今度は少女の手で奇跡を掴もうと足掻いている。
《別れ際に》
「ひと月が終わる度に雨が降る」
それが別れの言葉のようだと、先生は言った。
それは別れが悲しくて泣いているのだと、
学生の頃の私は言ったのだったか。
もう覚えていないけれど、
先生、今、ここでは雨が降っていますよ。
あなたのいる所は、ずっと晴天でしょうね。
《形の無いもの》
森の奥にある泉。
各地方で聞く伝承。
姿を見た者はおらず、ただ漠然と“いる”のだと認識されている存在。
それが、精霊である。
「見えないしわかんないのに、みんなはどうしているよって言うの?」
森の小道を歩く母子は手を繋いでいる。
「それはね、知っているからよ。精霊さんがいなくちゃ、この世界には水もなかったのよ? ね、精霊さんって凄いでしょう」
息子の小さな左手を握りながら、母親は諭した。
「そうなの!? じゃあ、ありがとうって言わないとだめだね、お母さん」
そうね、と返した母親の左腕は爛れていたが、それが刹那にして治る。
医師が匙を投げた筈の、二度と動かせないと宣言された腕が。
気まぐれか、想いへの返答か。
その奇跡に気付くまで、あと少し。