《過ぎた日を想う》
文明が発展し、殊に医学の分野において異様に発達したといっていい現代社会において、傷とは。
どんな手術痕であろうと元の通りにしてしまえる技術が生まれたのは、何十年か前のこと。五年前には、どんな古傷をも跡形もなく綺麗さっぱりとしてしまう技術が生まれた。
そうして、現代社会を生きる人々にとって傷とは一瞬にして治るものとなった。
過去では諦めるより他はなかった古傷さえも、未来で治すことのできるようになったのだ。
——今、老人が一人、息を引き取ろうとしていた。
実に百四十年余りを生きた体は、既に崩壊の兆しを見せている。
医学の発展がもたらした結果が、この寿命の延びた肢体なのだ。
また、この老人の体には数多の傷が刻まれていた。
周囲のものは皆、誰彼問わず治したそれを。この老人は後生大事に抱えていたのだ。
雨の日に時折疼く裂傷、腕を動かした時にやや痛む刺傷、なにより不便でならなかったろう、左目を縦に貫く刀傷の数々を。
どうして傷を治さないのか、と近所の人が老人に聞くと、
「この傷はただの傷ではないからだ」
と返したそうだ。
ではなんの傷なのか、とまた老人に聞くと、
「朋のくれた思い出だ」
と答えたそうだ。
結局それ以上は語ろうとせず、近所の人達は老人の傷だらけな姿を忌避した。
それでも老人はその姿勢を崩すことはなく、生涯古傷を抱えたまま幕を閉じようとしている訳である。
「……優心……遥香、龍斗」
傷ごとに、老人の口は古き朋の名前を紡ぐ。それぞれに、どんなに小さくともそこに思い出を刻まれてあるのだ。
「優奈、彰人……航誠……木乃美」
まるで愛おしいものかのように、老人は傷をひとつ撫でては涙を零す。
もう殆ど動かない体だ、手の動きも既に震えに支配されかけている。
「一花……朝美、恭介……」
殆ど視界は朧げとなり、老人の手は布団の上に落ちた。
そうして、老人はただ——眠りに落ちた。
安楽死というものが病死よりも遥かに増加した現代社会において、老人の死体なぞ埋もれてしまえるありふれたものであろうが。
それでも、老人は決して他の人に埋もれる姿をして亡くなりはしなかった。
古傷を撫ぜ、過ぎた日を想う。
それだけの差が、この老人の死を異なるものへとしたのだろう。
それだけの差が、この老人の孤独な死をあたたかなものとしたのだろう。
体を傷付け欠けさせたまま、心を満たした老人は静かに息を引き取った。
その心に気付く者は、この社会において存在するのであろうか。
人々が失いつつある、不可思議で無理解なことの意味が問われるのは、いつになるであろうか。
10/6/2024, 11:35:32 PM