《形の無いもの》
森の奥にある泉。
各地方で聞く伝承。
姿を見た者はおらず、ただ漠然と“いる”のだと認識されている存在。
それが、精霊である。
「見えないしわかんないのに、みんなはどうしているよって言うの?」
森の小道を歩く母子は手を繋いでいる。
「それはね、知っているからよ。精霊さんがいなくちゃ、この世界には水もなかったのよ? ね、精霊さんって凄いでしょう」
息子の小さな左手を握りながら、母親は諭した。
「そうなの!? じゃあ、ありがとうって言わないとだめだね、お母さん」
そうね、と返した母親の左腕は爛れていたが、それが刹那にして治る。
医師が匙を投げた筈の、二度と動かせないと宣言された腕が。
気まぐれか、想いへの返答か。
その奇跡に気付くまで、あと少し。
《花畑》
九の月。
いつだってこの月になると、私の心は暗くなる。深い深い沼へと沈み込んで行くのだ。
まだ青さを残した木々は、まるで嘲笑うかのように窓の外で揺れる。
「……やめて」
そんな筈はないとわかっていながら、制止の声を上げて蹲る。
きっと、窓の外へ行けたら、お前を叩き切ってやるのに。
恨めしくそう思っても、どうせ行けやしないのだ。考えるだけ時間の無駄というやつである。
ちょうど立ち上がった時、扉の向こうに気配がした。誰か来たのか。
「……なに」
短く聞くと、相手は遠慮なく扉を開いた。
私が目を覚ましていればそれだけでいいと思ったのか。
「失礼する。ご機嫌いかがかな、俺のお姫様?」
「誰があんたのお姫様よ!」
使用人の誰かかと思えば、まさかの友人枠。
幼馴染のベンジャミンだった。
失礼する、と言ったのも礼儀としてだろう、本人は一切気にした風もなくずかずかと部屋に入って来る。
「というか淑女の部屋に許可もなく入るとか論外よ! 出直してきなさいな」
「うん? ああ、大丈夫だ。俺はソフィア以外にこんなことしないから!」
眩しい笑顔で何言ってるんだろうこの人。
「それは私が淑女じゃないってこと?」
「いや、ソフィアのことだから身嗜みは既に整っているだろうし、時間を取るまでもないだろうと。それと、君は乙女だからな」
「信頼どうもありがとうだけど、なお悪いわよそれは!」
付き合っていられない。
いつものことだが、この調子ではいつになれば本題に入るのかわからない。
私がソファに座ると、ベンジャミンも対面に腰を下ろした。
人の部屋には勝手に入る癖に距離を取る辺り、礼儀はなっている男である。
「……それで、なにかあったの? 突然尋ねてくるなんて珍し——くもなかったわね」
ここ十日ほどなかったため忘れていたが、この男、三日に一回は我が家でくつろいでいるのだった。その内ひと月に四回は連絡も寄越さずに来て、誰に止められることもなく私の部屋まで通される。
幼馴染とはいえ年頃の令嬢と二人っきりというのはいかがなものか。と、苦言を呈したいが一応彼もそこは考えているらしく、いつも扉は半分ほど開けたままにしてある。
まあ男爵令嬢と子爵令息がどうなろうと揺るぎはしない社交界だが。
また今日も——今日は、扉を閉めている?
「……なに」
私の口から零れたのは、先ほどと同じ言葉。
けれど、そこには先ほどとは似ても似つかない非難の色を込めていた。
ベンジャミンが私と二人きりのときに扉を閉めるのは、これで二回目だ。一回目は、幼少期から少年期に差し掛かる頃。
そして、あれから一度も忘れたことのない彼が再びそれをした。とあれば、なにか意図を感じずにはいられない。
「そんなに警戒するなよ、ソフィア。大丈夫、なにも取って食おうってわけじゃないから」
「なにを——」
「今日は外に出ないのか? こんなにもいい天気なのに」
唐突だった。少なくとも、私にとっては。
たしかに空は澄んで涼しい気候の今、外へ出るのは気持ちがいい筈だ。
それだけのことを言う為に扉を閉める、この会話がそんな終わりではないだろう。
いや、本当は私はわかっている。
ベンジャミンがなにを言いたいのか。
「——いやよ。私は外に出られないわ」
「出たくない、の間違いだろう? ソフィア」
「そうじゃないの。出ることができないのよ、私には」
どうして。
ベンジャミンにだけは誘われたくない言葉だ。
わかっていて口にしたのか、彼は私の頷くのを待つように視線を送る。
「本当よ? それに面倒でしょう、いちいち使用人を呼んで一時間以上かけて着替えて……髪だって編む必要があるし、それに合わせた飾りも」
貴方が思っているよりも女の子の外出は面倒なのよ、と私は笑ってみせた。
額縁通りに言葉を受け取った、そう見えていれば成功だ。
ただ、彼はその演技を見知った人間に対してすることを無意味と思ったのか、少し笑う。
「なぁ、ソフィア。また、俺に魔法を見せてくれないか?」
まさかの直球。一瞬呆気にとられたが、
「……無理よ」
と、返した声は思いの外弱々しかった。
しかし、明確な拒絶。その意図はたしかに伝わったろう。
ベンジャミンは思案顔をして、ややあって立ち上がる。
「わかった。なら俺の魔法を見てくれないか? 新しく覚えたんだ」
「……見るだけならね」
私だって、ベンジャミンが魔法を大好きなことくらい知っている。
だから、それに少し付き合うくらいわけないのだ。
揃って一度玄関まで行き、中庭に出る。
花壇の花々も数多ある木々も、随分と楽しそうに風に揺られている。
周囲に問題がないようにと、念の為端っこの方で足を止めた。ここなら低木を気にするだけで済むからだ。
後で庭師に怒られるのは私だし、そもそも植物だって可哀想だから被害は最小限でいい。
「なんの魔法を覚えたの? ……って、もう聞いてないわね」
魔法は貴族であれば誰でも行使が可能だが、ベンジャミンは得意とはしていなかった。寧ろ逆で、苦手の部類に入る。
こうして、人が話しかけてもそれに応える余裕がないくらいに集中を高めて行使しなければならないほどには。
白く光り輝く魔法陣が、彼を中心として展開された。
私は彼の近くに立って、先程の軽薄さが鳴りを潜めた真剣な横顔を見つめる。
「【花よ花ども、今一度。咲けよ咲えとひとひらに】」
詠唱に呼応するかのように、魔法陣は魔法の規模に合わせて大きく広がる。
そして魔力の流れに沿ってゆっくりと回転し始めた。
「【いざ、花開け。その名の如く】!」
光が一際強くなった途端、私の目の前に花が——十輪咲いた。
私の好きな蒼い色の、小さな花だ。
「……きれい。素敵ね、ベンジャミン!」
しゃがみこんで、可憐な蒼い花弁を散らさぬようにとそっと撫ぜる。
ふわりと揺れるその花は、日に照らされて一層きれいに映った。
「……うん、まだ咲いた方だ」
ベンジャミンの呟きに、今更だが、魔法陣の規模に対して効果が少なすぎることに気付いた。本来であれば、この一角を埋め尽くすほどは咲く筈の魔法だったのか。
「これって最初は何本だったの?」
「……初めて成功した時は一輪だけだった」
「なら上達してるんじゃない! それにこの花、少しの方が可愛らしくて私は好きよ」
ね、と彼を見上げると、その表情の暗さがよく見える。
まあ、完全に成功したとは言えないか。
ため息を吐いた私は立ち上がって、ベンジャミンの手を取る。
「今のは魔力操作が甘かっただけよ。もう少し頑張れば、きっと、たくさんの花が咲くわ」
「……本当は、もっと咲かせられると思ったんだ」
「そんな顔しないの。ほら、もう一回見せてちょうだいな。ベンジャミン、貴方ならできるわ」
落ち込んだ様子の彼に、流石に私も調子を崩される。今までも魔法でつまづくことはあったけど、この顔は何年経っても慣れない。
「……ソフィア。魔法の発動を手伝ってくれないか?」
「い、や! 私は、もう魔法なんて使わないって言ったでしょ」
誰よりもその理由を知っているくせに。
「花を咲かせるだけの魔法だ。誰も傷つかない。花に埋もれたって大丈夫だから」
解きかけた私の手を、今度はベンジャミンが強く握った。
「俺は、花に負けるほど弱そうな男なのか?」
「それは……思わない、けど……」
「なにも一人で魔法を使って咲かせてくれと言ったわけじゃない。ただ、魔力操作を手伝って欲しいだけだ」
「……あんたに怪我を負わせた、私に?」
今だってあの光景を、鮮明に覚えているのに。
——そう、あれは今から三年前の九の月。
私とベンジャミンはこの庭で魔法の練習をしていた。
当時は彼も私も、同じくらいには魔法が好きだった。でも、私の方が得意だった。
魔力操作だって上手にできたし、そもそもの魔力量も多かった私は魔法をたくさん扱えた。
それが、いけなかった。
ベンジャミンが使うことの出来ない魔法を見せてあげたくて、私は——庭を炎で埋めつくした。
庭師の作り上げた庭だ、美しかったその景色は姿を変え、ただ炎を拡げるだけのものへとなってしまった。
私にはその魔法を止めることもできず、暴走する魔法陣に命までもを吸い取られないよう踏ん張ることだけが意識の中にあった。
だから、ベンジャミンのことなど頭から抜け落ちていたのだ。
炎に呑まれ気を失った彼のことを。
結果的に大人が救出してくれたから良かったものの、彼はその一件で背中に大きな火傷を負ったのだ。
なにより、それで怪我をしたのがベンジャミンだけだったという事実が私を苦しめた。
その件で顔に傷でも負っていたら、まだ心が安らいだかもしれない。
だのに、私が負ったのは数ヶ月で治る様な小さな火傷を少しだけ。
彼が目を覚ましたとき、私は謝りながらたくさん泣いた。けれど、ベンジャミンは笑ってこう言ったのだった。
「ソフィアに傷がなくて良かった! それに、あの魔法は危険だったけど……初めて知った魔法だ!! きれいだったよ!」
その言葉がどんなに優しくて、心に傷を負うものだったかベンジャミンは知らないだろう。
こんなにも優しい人を傷付けてしまったのだと知った、あの衝撃を。悲しみを。
驕りのあった自分に対する、後悔を。
魔法を行使した自分に対する、軽蔑を。
思いの外精神的にも大きな傷を負ったからか、あの日から私は魔法が使えなくなった。
感情がぐちゃぐちゃになった所為か、魔力が上手く流れないのだ。
魔法は術者の想像次第で変わるからこそ、精神状態も反映されるという。
私が魔法を使えなくなったのは、当然の道理だった。
「——そうだよ、ソフィア」
それなのに。
ベンジャミンは、私を魔法に近付けようとする。
「なんで……私は、もう魔法が使えないのにっ」
「そんなことはない。絶対に使えるさ、ソフィアなら」
手を振り解こうとすると、彼の指がするりと指の隙間に入ってきて、更に強く握られる。
「っ!? ちょっと、」
「ソフィア。君は魔法を忘れてなんかいないんだから、大丈夫だ。今だって魔力操作は覚えているだろう?」
「……いいえ。今の私は、魔力が乱れて操作どころじゃないわ。ベンジャミン一人の方がきっと上手くいくもの」
「ソフィア」
名を呼ばれ仕方なく目線を合わせると、真っ直ぐな目に射抜かれる。
ああ、私はこの目が好きだった。
「魔法は嫌いか?」
いつだってこの目は、私の本心を見付け出してくれるから。
私がたくさん理由を重ねて、隠して、どこかへ追いやってしまった想いでも。
変わるべきだったのに変われなかった、どうしようもない私を見付けてくれるから。
「——好きに、決まってるじゃない」
だから大好きなんだろう。
私はあの事件で魔法を嫌いになるべきだった。大嫌いになって二度と関わるものか、と言い切ってしまうべきだった筈なのに。
「大好きに決まってるじゃない……! だって魔法はきれいなのよ、ずっと、ずっと大好きなのよっ……!」
魔法という名の、奇跡が好きだ。
私はどうしようもなく魔法が好きで、それが誰かを傷付けたとしてもその気持ちは変わらなかった。
「奇跡みたいでしょう? 素敵なものでしょう? 魔法は誰かを傷付ける為のものじゃない、笑顔にする為の奇跡なの……!!」
それを自分自身で裏切ってしまったことが、ただただ衝撃的だった。
魔法をそんな風に扱ってしまった私が嫌いで、魔法は大好きなままだった。
「……なら、俺と一緒に花を咲かせてくれ」
「私にはできない。だって間違えたんだもの、魔法の価値を」
「俺のお姫様は、そんなつもりであの時炎を放ったのか?」
「そんなわけないでしょ!」
敢えて「お姫様」と呼んだのは、彼の優しさだろう。俺の、はこの際無視する。
「だったら問題ないなー! さあ、諦めて魔法の行使を手伝ってくれ」
「だから、私は」
「大丈夫だ。ソフィアは俺を信じてくれさえいればいい。そうだろう?」
「……私じゃなくて、魔法の下手なあなたを?」
「それは言うな!」
耳まで赤くしたベンジャミンに思わず吹き出すと、彼も笑った。
ああ、今なら、花を咲かせるくらいの魔法は大丈夫かもしれない。
大好きだった、魔法を、もう一度。
暴走しないように、あなたの手に導かれて。
深呼吸をして、手を強く握り返す。
「ベンジャミン、詠唱を」
「! ああ——【花よ花ども、今一度】」
手から魔力を繋げて、今にも暴れ出しそうなベンジャミンの魔力を私の魔力で包み込んでいく。
不必要なところに広がらないように、魔力の通るべき道を指し示していく。
「【咲けよ咲えとひとひらに】」
そうして拡がった魔法陣は、先程より大きなもの。それがゆったりと音に連れて回転する。
「【いざ、花開け】」
魔法陣から零れた光がふわりと拡がって、辺り一帯を伝っていく。
「「——【その名の如く】」」
気が付けば私の口からも音が漏れていた。
あ、と気付いた時には白い光が世界を埋め尽くしていて。
「……わぁっ!」
「……おぉーっ!!」
光が収まって、すぐ目に入ったのは、蒼。
庭の一角に留まらず半分程を覆う色だ。
「……花畑できちゃったね……ベンジャミン」
「あぁ……ああ! やっぱり凄いな、ソフィア! 格段に魔法がきれいに行使できた」
いや、そんな笑顔で来られても。
「元の魔力量はあなたに依存してたから、ポテンシャルはこれだけあるってことでしょ」
「なら、今引き出してくれたソフィアに感謝だな! ありがとう!!」
可憐な花々には悪いが、ソフィアの視界には今ベンジャミンの眩しい笑顔とやらが満開である。心臓に悪い。
その輝くような表情から逃れるべく、繋ぎっぱなしだった手を引こうする。だが、ベンジャミンは離そうとしないで指を絡ませたままだ。
「ねぇ、離してほしいのだけど」
「なにを?」
「手を」
「……そんなことより、魔法が成功して良かった! こんなに咲くとは思わなんだ」
「いや成功は嬉しいけど……驚いたのは私も同じだけど……離してほし、」
「というかこの後のことを考えていなかった! ソフィアのご両親に叱られるだろうな、これは。庭を散々にしてしまった」
手は気になるがそれよりも気になる単語が聞こえてきた。
満開の花畑を眼下に、頭を抱える。
「……どうしよう、絶対にやり過ぎたわ」
「俺が全面的に悪いから、取り敢えず全身全霊で謝り倒してからどうにかしよう」
「子爵子息のプライドは何処」
「その前に人として謝るべきだろう?」
「それはご立派。けれどね、その前に思い付いて止める方がいいのよね」
「……好奇心には勝てないだろ」
「……私はなにも言えない」
花を咲かせるだけだ、と思っていたが庭師にとってこれはかなりの脅威だったのではないだろうか。
とはいえ後悔しても遅い。
「……っ、決めた! この花たちを今から魔法で枯らす!」
「……ソフィア。やっておいてなんだが俺はそういう魔法を知らないぞ?」
ベンジャミンの瞳は不安そうに揺れている。
当然だ、できないものはできないのだから。
「ベンジャミン、この手、絶対に離さないでいてくれる?」
「約束しよう」
「ありがとう。……今から魔法を使う。上手くいくかはわからないけど、いいかしら?」
「……ソフィアが……そうか、わかった。俺が隣にいる、安心して使ってくれ」
信頼の目を向けられたのは、いつぶりだったか。私はとても嬉しくなった。
だからこそ、成功させなくてはならない。
「【花や花よ、誇り在れ】」
記憶の奥から引っ張ってきた、魔法の作り方をなぞりながら音を紡ぐ。
魔法陣が光を伴って展開される。
「【されど咲けば終焉を知る】」
回転する魔法陣は私とベンジャミンの頭上で輝く。
震えそうになる声を真っ直ぐに伸ばして。
「【さあ、花閉じよ】」
成功して、お願いだから。
そう願いを込めて詠唱する。
「【その名を逆さに】……!」
魔法の作り方はあっていた筈で、魔力も綺麗に流れた筈だ。
光に満ちた中、私の手には自然と力が篭っていた。ベンジャミンも。
「……成功だな」
美しかった花畑は姿を消し、元の庭に枯れた根が微かに残ってはいるものの元通りとなった。
私の魔法が成功したのだ。
「……うん、成功した。ありがとうね、ベンジャミン」
「なんだ、もっと感動するのかと思った。落ち着いているな」
「それはそうでしょう。魔法に感動するのはもう、貴方が先に魅せてくれたもの」
安心と綯い交ぜになった感情がせり上がってきて、視界の端が滲む。
「……ソフィア」
「ベンジャミン、ありがとう。私——わたしっ、魔法使えたのね……!」
零れる雫を彼の目に映したくなくて、顔を手で覆う。
どうしてか、涙が止まらない。
でも、嬉しかった。
こんな私でもまた魔法を使うことができた。
大好きな魔法が、また、手の中に在る。
「……ソフィア、おめでとう! これで漸く君を魔法の特訓に付き合わせられるな」
「……っ……ばか」
「ははは! 冗談だ、冗談! ……めでたい気持ちは本当だけどな」
「ああそう……まぁ、いつでも付き合ってあげるわよ。——私の騎士様」
かつての私が彼をそう呼んでいたことを、ふと、思い出す。
いくつから蓋をしていた記憶なのか、わからないけれど。
「俺のお姫様は寛大だな! 頼りにしよう」
「……だれがあんたのお姫様よ」
私がそう返すと、ベンジャミンはまた破顔した。
「これは手強い」、と。
《命が燃え尽きるまで》
後はないと、わかっている。
「であれば、私の成すべきことはひとつだ」
この戦いは既に勝敗を期している。
私たちは、負けてしまった側なのだ。弱者と淘汰され敗者として死に行く側。
それでも希望を繋げることはできる。
殿下さえこの戦線から逃れることができれば、また幾らでも立ち上がることができる。
「この命が燃え尽きるまで、貴方様の剣となることをここに誓いましょう」
さあ、騎士たれ。
死を最大の華として、主がために死力を尽くして逝けることを誉れとしろ。
「……掛かってくるがいい! 私が生きている限り、誰も通しはせん!」
まだ、剣を握れる。
まだ、頭も働く。
まだ、足も手も動く。
まだ、私の心は折れていない。
今、斃れる理由が此処には存在していないのだから。
だからどうか、殿下。
「貴方様を守り抜く誉れを、頂戴します」
人殺しとなった私を、よく務めたと、褒めて下さい。
そう願うのは、騎士として恥ずべきことでしょうか。
その答えをお聞かせ願いたい。
この剣を振り切った後に。
《喪失感》
なにか明確に、喪ったものはない。
誰も死んでいないし、特別なことなんてなに一つとしてなくて大丈夫だ。
それなのに、どうして。
時間を無駄に消費したから?
無駄とわかっての行動を繰り返したから?
その生産性のない言動に飽き飽きした?
いや、きっとどれでもないのだろう。
特別なそれはなくて。
理由も、自分ですらわかっていなくて。
だからこそ余計に苦しくなるのだろう。
誰か、埋めてと。
この喪失感を埋めてくれないかと、人恋しさに、また時間を解かすのか。
それが負のループになっているのかもしれない、と思える。
けれど、それがタチの悪い話で。
抜け出せないから、苦しい。
辛いのに、繰り返す。
望んだ結末は当然なく、また空虚な時が過ぎてしまう。
そしてそれが、喪失感を運んでくる。
夜になると特に酷くて、訳が分からなくなって時間だけが消える。
眠れば全てを忘れられる?
どうせ目覚めれば、また思い出す。
こんな時にどうすればいいのだったか。
大丈夫だと、口にするのだったか。
——ああ、そうか。忘れていた。
こんな時にどうすればいいのか、教えてくれた彼の人を。
不安を共有してくれた彼の人を。
言葉の意味を改めて教えてくれた彼の人を。
とうの昔に喪っていたのだった。
疎遠になっただけ、とは言えない。
彼の人の日々に存在できていないのだから、それは。
互いに喪ったも同然だろうから。
特別喧嘩をした訳でない。
ただ忙しくて会えないまま、離れただけだ。
そう、それだけ。
それだけのことで、人は喪失感に苛まれる。
きっと、あなたも。
特別な理由なんて必要ないことに、今、気付けるだろうから。
喪失感にしろ他のなににしろ、人はそう多くの理由を必要としないでいいのだから。
苦しい時に泣いて、辛い時に涙が溢れて、壊れかけて涙が頬を伝った時。
理由もなく傍に誰かがいてくれることを、嬉しく思ったり安心する。
それと似ている筈だ。
喪失感も、人の感情の一つなのだから。
二つ別の感じを書きたくなったので
「ありがとう」で区切ってお読み下さい
《世界に一つだけ》
領地の勉強を頑張っているからと、お父様はオーダーメイドのドレスをプレゼントしてくれた。
料理人のジョンは手伝いのお礼にと、甘くて美味しいスイーツを作ってくれた。
庭の掃除をすれば、庭師のダンドルフがいちばん綺麗なお花をくれた。
雑草の生えた石を掃除すると、代わりにと、メイドのアンナはハンカチをくれた。
嬉しいけれど、そうじゃないの。
本当に欲しいものは、物じゃないのに。
たった一言が欲しいだけ。
世界に一つだけの、貴女からの言葉が欲しい。
ねぇ、こう言ってちょうだいよ、お母さま。
「ありがとう」
それは感謝を伝える言葉で。
簡単に口にできる言葉で。
心を少しだけ軽くする言葉で。
聞けば嬉しくなれる言葉で。
優しい言葉で。
残酷にもなれる言葉で。
心の近い言葉で。
拒絶の言葉で。
自然と溢れる思いを固めたような言葉で。
世界に一つだけの言葉だ。