《言葉はいらない、ただ・・・》
前に逢ったのはいつの日だったか。
数えた頃はあれど、それも幾度か繰り返せば飽いてしまうもの。
デアは過ぎた時間を厭うことすらせず、ただ漫然と絶えず呼吸をしていた日々だったと、今更ながらにして思う。
「——【調和せし流水よ】」
「【大いなる息吹】」
口上も挨拶すらも必要ない。目が合って互いを認識していれば十分。
そも、千回はとうに交わしたことのあるのだ、互いに満足だろう。
デアの放った水は意志を持って悠然と動き、当然の結果として相手へと迫る。
ただし、動きで属性も魔法もを察知していた彼にとってはただの悪戯に過ぎないのか。
風で自身に掛かる水を全て散らせた彼——デウスは、事もなげにまた呪文を口に載せる。
「【火炎の囁き】」
「【大地穿ちて】」
他者からすれば初等魔法にしては例外な拡がりをみせる炎だが、見慣れているデアは焦ることなく土壁を立てて打ち消す。
単調な作業のようで、実際は高度な様子見の攻防。と、本来はそう認識される掛け合いだろうが二人にとってこれは準備運動だ。
久々に音を出し、やや乾いた声を立てる各々の喉を起こすだけの。
初等魔法以外使っておらず、また、相手が打ち消すか躱すか防御する前提であるからこその動揺のなさ。
「【空に轟て鳴け】」
「【大地穿ちて】」
半円状に放たれたデウスの雷は空気を震わせ、やがて逃げ場のない網と化す。その糸に絡まる前にと、大地から足場が立ち上がった。
その盛り上がった大地に足を掛け、デアは息を吸う。
「……【灼熱の炎よ、汝が敵を焼け】」
「【巡り巡る水よ、固に在りて非ず】」
二節詠唱の下等魔法。一拍を置いたのは余裕の表れか、はたまた気持ちの切り替えか。
火と水がせめぎ合い、その中心で爆発する。その衝撃で微塵になった木々には目もくれず、デアが再び詠唱を。
「【唸れ剣風、疾するが如く】」
「【内なる昏きに、恐れ戦け】」
広範囲に広がった炎とは違い、風はただ一点を目指してその他の空気を置き去りにする。
対してデウスが闇を発した所以は、その動きを悟られるのを嫌った為か。
当然風は現象だが、闇をも割くのは魔法で生まれた為だろう。しかし、狙った所には既に彼の姿はなかった。
「【雷鳴よ討て、光の指すままに】」
殆ど真横から飛来した雷は、前方に跳んで躱したデアが半瞬前にいた場所を刺した。
ここで、互いに初めて回避行動を取ったのである。
「…………はぁ……」
「……はー……」
訂正。言葉は不要だが、例外は息継ぎの際に漏れる声だ。微かな音である。
そこで漸く距離を近付けて二人は対峙した。
ここからが本当の殺し合い。
そう告げるまでもなく、そうなっていた。
デアは一拍置いて口を開く。
「【遍く大地に翳せ、月を介した光さえ、汝らが目には過ぎしもの。故に万物を焦がす】」
過ぎたる光は灯りとは呼べず、ただ身を焼く痛みを及ぼす不可避の凶光となる。光属性の高等魔法だ。
「——【ソル】」
最後の一節で魔法は現界し、刹那、地を灼いた。防御すら許さない純粋な殺意を叩き付けることと同義。
それに対して彼は、
「【ルーナ】」
と短く一節。
詠唱破棄という高難易度の魔力操作に輪をかけての高等魔法で返したのである。
月は陽の光を反射する。
それがこの世界においての常識である限りは、魔法戦においても確かな効力を発揮する。即ち、デアの太陽を擬似的に降臨させる魔法は、デウスの月を擬似的に降臨させる魔法に反射されることが確定しているのだ。
法則だとか、そういう理屈ではない。
概念的に『そう』なっているから、結果は絶対に——万に一つの例外もなく『そう』なるのだ。
デアが放った光は空へと反射され、誰をも灼くことなく消滅した。被害といえば、地面が焼け焦げたくらいである。
「……馬鹿が。蒸発でもする気か」
豪気な策に、思わず悪態がデアの口を突いて出る。
詠唱破棄は不可能ではないが、魔法の位階が上がれば上がる程難易度が跳ね上がる。
それを生死の境でしてみせたのだ、いかな相手とはいえ呆れが先に来る。
また、デアに直接反射するのではなく、怪我をさせないようにと空へ反射させたのも気に食わない。
「ならば貴女の光に灼かれて死ねと? それではどちらにせよ結果は変わらぬ」
デウスもデウスで、対抗策を潰したうえでそう宣うデアに呆れた声を返した。
刹那で選び取れる魔法など、他に思い付かなかったのだ。
寧ろ最善の策だったと言えよう。
「……ふん、詰まらん。もういい、貴様の顔など見たくもない」
「性急なことだ。我とて時間は余っているのだ、もう少し付き合えよ。デア」
「妾の名を呼ぶな」
「良いではないか。今回は三百ととんで四十二年ぶりだぞ、最長記録を更新だ」
「まさか数えていたとはな……暇を持て余しよって」
文句を言いはするものの、会えばこうして喧嘩をしてくるデアにデウスは苦笑した。
これで五千回目の邂逅だということに、彼女は気付いていないだろう。
「……さて、気の早い貴女だ、次で終わりにしてみせよう」
「良かろう。妾の得意な魔法で返してやる」
「先手を譲られたな、格好の悪いことに」
「知るか。早うせんか」
勝手知ったる互いの得意魔法を放つには、この場所は些か狭過ぎるだろう。だが、移す場所もない為諦める。
「デア、我が勝てば次は名で呼ぶ許可をくれよう」
「では妾が勝てば、貴様を名で呼んでやろう」
「……卑怯だな、貴女は」
デウスがその提案に勝負の采配を悩むとわかっての、デアの提案だ。
理由はわからないが、どうもこの男は名で呼びたがるし名で呼ばれたがるからだ。
「……はぁ……去るぞ?」
「待たせた、済まん」
漸く腹が決まったのか、彼はデアに向き直った。
呼吸を置いて詠唱を始める。
「【業火よ抱け、値し罪科に等しく在れ】」
「【水淼は永久に非ず、然るべき破を持つ】」
一節ずつ丁寧に唱える。
デウスは男。即ち陽の力を有する。
詰まり彼の得意は火属性魔法だ。
「【冷焔と対を成し、焱を散らせ】」
「【凝固せして、秋水と成れ】」
間違えれば反動は術者に来るのだ、慎重になるのも無理はない。
デアは女。即ち陰の力を有する。
詰まり彼女の得意は水属性魔法だ。
「【燎の及く、火日の若く】」
「【神癒の有れ、禍と在れ】」
互いに放つ魔法は初、下、中、上、高等魔法のどの位階にも属さぬ独自のもの。
それ故に詠唱破棄はできないという欠点がある。が、それを持って余りある威力を誇るのが独自で編み出した魔法の力だ。
「【其は我意の下に在り、万象を焚くこと為し】」
「【其は妾が意に従い、森羅を覆うべしこと誠生れ】」
果たして、この魔法が交わったとき世界は衝撃に耐え得るのか。
手加減していた理由が、今の二人には頭の片隅にすらないだろう。
それ程、この魔法戦を楽しんでいるということに気が付いているのか、いないのか。少なくともデウスはわかっているだろうが。
次で最後の一節だ。
相殺できる威力なのか、或いはどちらかが負傷するのかも読めない。なにせ初めて使用する——三百年という時間を持て余した二人が生んだ魔法なのだから。
「【アウレア・フランマ】!」
「【クラルス・アクア】!」
デウスが魔法で現界させたのは、黄金に輝く光と見紛う程の炎。
対してデアは、向こうの景色の詳細をも描く澄み渡る水である。
下等魔法同士の衝突で起こったのは小規模な爆発だったが、これはその何倍の威力を誇るのか定かでないのだ。
結果——世界が、瞬いた。
「——っ……!!」
「——あッ!?」
二人とてその被害者に漏れず、咄嗟に展開した防御魔法は意味を成さない。
光が、音が、熱が。
見えない。聞こえない。痛みを通り越して、何も感じない。
永遠にも思えるその時間は、正確には十数秒だった。
それらの現象が収まった途端、デアは頽れる。なんとか意地で立っていただけで、体が衝撃に耐えられなかったのだ。
正直見縊っていた。これ程の威力とは。
「……っぶない! 斃れるなよ、デア」
地面に伏しかけた彼女を既のところで支えたのはデウス。彼我の差は数十メートルはあった筈だが、彼にすれば一歩の距離だ。
彼女の額に手を翳す。
「【サナティオ】」
詠唱破棄の高等魔法の行使である。
それ程までに焦りがあったのだが、デウス自身も気付いていないだろう。
彼女の四肢にあった傷が一瞬にして癒え、同時に荒くなっていた呼吸も安定する。
そこで漸く安堵して、デウスは破壊され尽くした周囲に目を向けた。
デアを抱いていない方の手を伸ばす。
「【留められぬ流れよ、今この時を以て我に預けろ。然らばその流転、我の望みに従いて在れ。最たる存在の下、その知を与えよ】」
デウスは魔力か尽きかけていることを自覚しながら、それでも自身が携わった世界の破壊を放置する訳にも行かず詠唱する。
「【よって我——デウスの名の下に告ぐ。時よ巡れ、反転せよ。此は頑強なる大地を、在るべき姿へと】」
時属性の魔法は位階に関わらず、魔力消費と精神的苦痛とが馬鹿にならないのだ。
傷付いた大地のためであり、自らの暴力のためである。自業自得だと痛みに甘んじる。
「【アポステリオリ】」
詠唱を終えた途端頭痛と目眩がデウスを襲うが、なんとか堪える。
元通りの森に戻ったことを確認し、木陰にデアを寝かせておく。
「……またな、デア」
別れの言葉はいらない。
ただ、また会う時も同じように付き合ってくれればいいのだ。
それが死という概念を持たない、神たるゼウスが望むことだ。同じ立場にある、デアも望んでいるだろうか。
二柱の再会は、果たして、いつになるのか。
約束はしない。けれど、また逢えると信じているからこそ。
「……俺が勝ったんだ。名前で呼ばせろよ、デア」
また目の前から去って、世界を巡るのだ。
厄災から世界を守るためにも、秩序を守るためにも死ねない二人にとってこの魔法戦は——唯一無二の存在を求め合う一種の行為なのだろう。
《裏返し》
「おや、私のブローチは焦がれるあまり貴女に染まってしまいましたか」
そう囁くあいつの目は細められてはいるものの、随分と乾いている。
知っている。
嫌いだろう、憎んでいるだろう。
女性という生き物が苦手だろう。
「あら? とうとう見境がなくなってしまったのかしら。私まで口説こうとするなんて流石ね」
わかっている。
振り払う手が熱くなっているのも。
頬だって、少し赤いだろうけど。
「まぁなんて素敵な口説き文句なんでしょう。貴方の言葉一つで不快になれたわ」
「これはこれは手厳しい……相変わらず俺が嫌いだな、アニー」
「ええ。だから気安く呼ばないで頂戴、ルクシオン侯爵?」
嘘だ。
いつもその声で名前を呼ばれると、心臓が煩くなる。
嬉しくて、それだけで満たされる。
「はいはい……それではアンジェラ嬢、壁で佇む貴女に是非ダンスの誘いを受けて頂きたいのですが」
「あらなんて優しいのかしらね。わざわざ私が今壁の花になっていると教えて下さるなんて」
「おっと、失礼。麗しき茨姫、宜しければ一曲踊って頂けますか?」
「……ええまぁ」
侯爵からの誘いを、子爵令嬢が断れる筈もない。
周りからは、彼からはそう映っただろう。
それでいい。
そうでなくては、彼の傍にはいられない。
「では、参りましょうか」
「えぇ、素敵にエスコートして下さいね」
「アニー、君はダンスが得意だと記憶しているんだが」
「あらご存知ですか。……何度言えばいいのかわかりませんが、二度と愛称で呼ばないで下さるかしら。エドワード」
「これは失敬……本当に君は俺が嫌いだな」
そんなわけが、ないだろう。
「……大嫌いよ。エドワード」
大好きに決まってるでしょう、エドワード。
《さよならを言う前に》
人々の罵る声がする。
「……せ! あの悪女を殺せ!」
何をしたのか。
何故そんなふうに叫ばれるのか。
全くわからない、わけではない。
「早く!」
急くように死を望まれるのは、無知だったから。
「殺せ!」
いや、悪政を見て見ぬふりをしていたから。
「悪女を!」
殿下を誑かしてしまった、からだろうか。
冷たい石畳の上を裸足で歩いたことはなかった。
その凍えるような痛みを初めて知った。
あたたかな街の人々が、これ程冷たく残酷な目で悲鳴をあげることができたとは知らなかった。
「悪女に制裁を!」
それでも石を投げるのは一部の人だけで、良心が感じられて可笑しかった。
こんなときでも、心優しい人達なのか。
そんな人達を苦しめてしまっていたのか。
「殺せ!」
謝罪は口にしない。
それで良心が痛む人が、きっと、いると思うから。
せめてと、小さく口の中で別れを告げる。
「……さような」
「——その前に、貴女には言うべき言葉があるわ」
断頭台の前に立つ彼女は。
まさか。
「……マー、ガレット?」
「ええ、貴女のマーガレットよ。侯爵令嬢たる貴女がここで何をしているのかしら?」
「なにって、わたくし、は……」
気が付けば周囲は彼女の家の紋章を掲げた兵らによって、空けられていた。
無理もない。
この場を仕切っていたのは侯爵家で、彼女は公爵令嬢。階級で勝るマーガレットが多少無理を通しても、誰も止められやしないのだ。
あのマーガレットなのだから。
「ねぇ、今、なにをしてほしいか言ってごらんなさいよ。大切な友人として聞いてあげるから」
「……なら、そこを退いてちょうだい。わたくしは裁かれるべきなの、だから、兵も退かせて」
「あら……残念だわ、アン。私に聞けないお願いをするだなんて」
くすくすと笑ったマーガレットは、そっとアンの手を取った。
そして、
「さあ、なにを言っても周りには聞こえないわよ」
「……マーガレット」
「私、貴女が泣くのを許せないのよ」
「……けて」
「アン、私に願って」
「……たす、けて……!」
「そうよね。アン、行きましょう?」
二人で立ち上がって、断頭台から背を向けて歩き出す。
不思議と、心はあたたまった。
責任から逃れる苦しさに目を瞑って。
閉じ込めていた、理不尽だと嘆く自分に手を差し出して。
そうして、足は動くのだ。
「……それでは皆様、ごきげんよう」
「さよなら」
公爵令嬢による誘拐は真昼に行われたにも関わらず——誰の記憶にも留まらずして世界に溶けた。
マーガレットは、魔女である。
《夜の海》
短針は十一を、長針は六を少し過ぎたところ。
リビングにある洒落たデザインの時計は要(かなめ)の父親の趣味だった。
その時計に合わせてシックな基調のリビングは、誰でも落ち着きを感じられるだろう。
そんなリビングで格闘ゲームの真っ只中、
「——今から海行きたい」
突然友人がこんなことを言い出したとき、どう答えるのが正解なのか。
「……は?」
一瞬で答えが出る訳もなく、困惑が口を突いて出る。
いや今一緒にゲームしてるだろ、とか。
昼間ならまだしもこんな夜に行ってなにするんだ、とか。
そもそもこの時期ならクラゲに刺されるかも知れないだろ、とか。
額縁通りに受け取ればそんな言葉しか返せないだろう。
「……はあ、いいけど」
どうせ一度言い出したら聞かない、既に立ち上がった友人——圭(けい)の手を取ってソファから立ち上がる。
プレイ中のゲームが格闘ゲーでよかったと思う要は、一時中断して電源も落としておく。
「ここからバイクで十五分! 運転よろしく〜」
「夏とはいえ、一応上着羽織っとけよ」
夜に海に行くことなどなかった為、潮風が暑いのか涼しいのかはわからない。
この冷房の効いた部屋から出たくない体は、のろのろとスマホと財布とをポケットに入れる。
「ねぇ、まだぁ? 要くん、早くしてよ〜」
「はいはい。待てって」
適当に黒のパーカーを羽織って玄関へ向かうと、タオルを手にした圭は準備を終えていた。
戸棚にあったヘルメットも二つ抱えている。
「……あれ、俺場所とか教えたことあったっけ」
「この前おばさんが教えてくれたよ?」
「ああ、そう」
スニーカーを履きながらの会話でわかったことは、要の知らぬ間に圭と母親が仲良くなっていたことだ。息子の友人なのに、その息子が知らなかったとは。
世話好きの母親らしいと呆れながら、要は家の鍵を閉めた。
「……んじゃ、行くかぁ」
「れっつごー」
だらだらしている内に圭の気が変わらないかと期待してはいたが、その気配は全くない。
要は漸く諦めが付いて、海へとバイクを走らせた。
天気がよく、星もちらほらと見える中。
「……流石に暑ぃな、こりゃ」
「要くーん? 上着やっぱ要らないじゃん」
「だったな」
二人して、着いた瞬間これである。情緒は何処。
道中は風もあってか比較的涼しいと思っていたのだが、実際は微風で潮風も温い。どちらかと言えばじとじととした空気だ。
砂浜近くでバイクを停め、上着を置いて海へと近付く。念の為スマホと財布も置いて行くことにした。盗られる心配もなくはないが、濡れる心配の方が多くこの時間に人通りは多くないと見越してのそれである。
「ね、夜の海ってさ、結構深いよね」
「色か? あー……そうだな」
近くで見ると尚更だ、と要は思う。
月明かりで余計に闇が深く見えるのか、どこまでも昏い海に引きずり込まれそうだった。
「これはこれでキレイかもな……って、おい!」
要が水面に魅入っている内に、圭は砂浜に靴を脱ぎ捨てて浅瀬ではしゃいでいた。
足首まで浸かった圭は、この後のことを考えているのかいないのか。
「あんま遠くまで行くなよー、服、濡れんぞ」
「わかってるって。心配症だなぁ、要くんったら」
「わかってないだろ」
現に膝までを浸からせた圭には、真の意味では言葉が届いていない。
遠くから眺めていた要だが、このままでは泳ごうとすらするのでは、と焦り海へ近づいて行く。
「圭! もう腰まで浸かってるぞ」
「……要くん、オレを捕まえてみてよ」
その言葉に要は足を止める。
「変なこと言ってないで上がってこい。風邪引いても知らねーぞ」
「要くん、いいの? オレどんどん離れるよ?」
宣言通り一歩、また一歩と圭は距離を取っていく。
しかも要に顔を向けたままだ、いつ深みに足が嵌ってしまうかと気が気でない。
「せめて前見ろ」
「見てるじゃん」
「じゃあ後ろだ」
軽口を叩く暇などない筈なのに、いつものように返してしまう。
要の足は波が時折攫う砂浜で止まった。
「……っ、なんで急にこんな」
「なんで? わかってないと思ってんの、オレが」
要の疑問に苛立ったのか、圭は声を荒らげる。
「あのさぁ、いい加減にしてほしいんだけど。オレに気を使ってもなんの意味もないことくらい知ってるよね? わかっててやってんの? 意味わかんない」
「なに言って、」
「わかんないなら言ってあげようか、代わりに」
圭の目が冷たく感じ、ふいに要は手を伸ばした。
きっと、口を塞ぎたかったのだろう。
「今日ずっと上の空だったじゃん。なんか言いたいことあったんでしょ? 水嫌いの要くん」
それは呆れも混じっていて。
ただ、それだけではなかった。
「…………今日、プールがあって」
観念した訳ではないが、要は、つと話し始めた。
「ふざけてるヤツらがいて。俺は腹痛いからって、見学してたんだけど。なんかノリで、水掛けられて。顔に掛かんなかったんだけど。そしたら、また掛けてきて。顔に当たって動揺しちまって。一瞬パニックになって、足踏み外して……中に落ちかけて」
話している内に顔が下がっていくのを感じながら、それでも見られたくないからと要は俯く。
「ふざけてたヤツらが助けてくれたんだけど、片足濡れて。それでまぁ、なんだ。ちょっと……パニクったってだけなんだけど。その場で取り繕えるくらいだったから大したアレじゃなくて」
「……それでも頭に残ってたから、オレに話そうと思ってたワケ?」
「いや、まぁ……なんつーか、そうだわ」
「ふぅーん?」
若干の気恥しさを覚えながら要が顔を上げると、圭は更に遠ざかっていた。
胸の辺りまで浸かっている。
「ちょっ、はぁ!? なにしてんだよ、聞いてなかったろ俺の話!」
「聞いてた聞いてたー! ……そんな要くんにオレは捕まえてって言ってたんだけど、聞いてた?」
「聞きたくなかったわ!」
冗談かと思えば、その目は確実に本気だ。
片足をプールに突っ込んだだけであの動揺具合だった要に、海に飛び込んでこいと言うのか。
嫌々ながらも要は深呼吸をして、スニーカーを脱いで靴下も脱ぐ。
「お? 来てくれんの、要くん」
「そこまでは行ってやんねぇからな……!」
舌打ちをして、要は海に足を踏み入れた。
その瞬間ぞわりとする。
同時に怖く思うが、構わず足を進めた。
「圭、さっさと戻ってこい」
「やだよー、オレは水好きだもん」
「好きとかあんのかよ……」
「要くんはどうせ来れないんだし、待ってたら?」
「るっせぇな、テメェ」
「あは、意地になってんじゃん。うける」
「舐めんなよ、俺の負けず嫌い」
「ガキじゃん」
「はあ? 圭に言われるとか終わりだわ」
「はい? そっちこそ舐めてない、オレのこと」
「合ってるだろ」
「間違ってるんですけどー?」
「はっ! おら、手ぇ出せこの馬鹿」
「なに——馬鹿じゃん」
恐怖心を会話で紛らわせながら、要は圭に手を伸ばす。
海に腰程まで浸からせた要の手は、震えていた。
手だけでない。足も、体全てだ。
「あっはは! ホントに来たの!?」
「馬鹿、これ以上は無理だっての」
「はー……面白いね、要くん」
こっちはそれどころでない、と要が圭を睨むと、その手を取るべく圭は動いた。
「要くんに免じて帰ってきてあげる」
「早くこい」
その手を圭が握ると、余計にその震えが伝わる。
よくよく見れば顔色も悪い。
「意地悪してごめんね、要くん」
「……マジでふざけんなテメェ」
素直でかわいい友人に圭は笑う。
水嫌いのくせに、頑張ってここまで来るとは。
「要くんがなんか隠したまんまなの、悲しいし寂しいんだからね。今後は直ぐに言ってよ?」
「……善処するわ」
海から上がると、服は重いうえ肌はベタベタとしていて最悪だった。
潮風も温く乾かす気などなさそうな弱さだ。
「気持ち悪ぃ……入るんじゃなかった」
「あははー、これはこれで醍醐味だよ」
「なんのだよ」
「……着衣水泳?」
「どっちも泳いでねぇわ」
靴を履くとバイクまで戻ってTシャツを脱ぐ。上着だけ羽織ると、まだ不快感はマシだった。
「ねぇ、要くん」
「あんだよ」
「ありがとね」
「なにが」
「……さぁて、帰ろっかー!」
要の言葉には答えないまま、圭は歩き出す。
いつもと変わらぬその声に要は、
「誰のせいで濡れたと思ってんだ。後で俺になんか奢れよ」
ため息混じりの声で応えた。
「ジュースでいい?」
「んー、却下」
「アイス?」
「高級なやつな、よろしくー」
「……いいけど、まずは家帰って風呂でしょ」
「だな。先入って、そんで俺が風呂入ってる間に買ってきといて」
「バニラ?」
「聞くまでもねぇだろ」
「だねー」
夜の海に、二人の声は響かないだろう。
波の音が総てを、攫ってしまうから。
《終点》
君と俺の人生が交わった、あの湖。
俺の入水自殺を止めて、最期は君から一緒に死のうと叫んだあの湖。
そして、結局俺だけが世界に取り残されて慟哭したあの湖。
嗚呼、それから。
これから俺が沈むあの湖だ。
それがきっと、終点。
君と俺の人生か。
俺の生と君の生が。
君の死と俺の生が。
君の死と俺の死が。
交わる場所だ。