《明日、もし晴れたら》
『結婚式を挙げるんだ』
兄からの便りにはそう在って、挙式の日付は明日だった。
唐突で、驚いた余り目を何度擦っても同じ文字が並んでいた。
恋人がいるという素振りすらなかったというのに。
「結婚かぁ……相手、どんな方なんだろう」
弟として知っておきたい。
この先、慕うべき存在となるのだから。
「兄さんも話してくれたらいいのに」
その時ニュースで、明日の天気予報は大雨です、と聞こえた。
「雨……雨ね」
明日は洗濯物ができないな、とか。
出掛ける時は傘を持っていかないと、とか。
「明日、もし晴れたら——それでも雨が降っていたらきっと、兄さんは結婚式を挙げているんだろうなぁ」
そう呟いて弟は、自慢の黄金色の尻尾でクッションを叩いた。
叩いてから、化けの皮が剥がれていることに気付いた弟は尻尾を隠す。
幸い今は一人だが、外でやってしまわなくてよかった。
「兄さん、おめでとう」
零した祝福の言葉は、遠い山里にいる兄にも届いただろうか。
きっと、狐の兄弟の絆が伝えてくれるだろう。
《だから、一人でいたい。》
みんな殺された。
家族も、友達も、知らない人も。
一方的な虐殺としか思えなかった。
こんなものは戦争とは呼べない。
そう思う程だった。
残されたのは何人だったか。
生き残ったのは誰だったか。
誰もが泣いていたから、誰かわからない。
悲しい。
苦しい。
辛い。
寂しい。
どうすればいいのかわからない。
助けてほしい。
哀しい。
淋しい。
痛い。
感情は、解る筈なのに。
どうしてか涙は出なかった。
どんなに気分は沈んでも、泣けなかった。
気持ち悪い。
心がないのか。
冷たい人。
そんな風に、みんなに蔑まれた。
でも、どうしたら涙が出るのかわからない。
涙が出ない奴は可笑しい。
異常で、狂っていて、壊れている。
そんな言葉に蓋をした。
みんなが後ろ指を指すから。
みんな誰かを喪っている大事な時なのに。
そう思わせてしまうのが申し訳なかった。
ごめんなさい。
泣けなくてごめんなさい。
悲しめなくてごめんなさい。
苦しめなくてごめんなさい。
寂しがれなくてごめんなさい。
心の痛みがわからなくてごめんなさい。
だから、一人でいたい。
みんなが悲しめるように。
涙の流せない今の感情を、わかりたくて。
《鳥かご》
祐希と怜斗はいつも二人だった。
母親同士が高校生の頃からの親友とあって、同じ病院で一日違いで産まれた二人は産まれる前から一緒だった。
幼馴染というより、殆ど家族に近かったのもそれが理由だろう。
人見知りの怜斗が輪に入れず寂しい思いをしないようにと、祐希が傍から離れなかった為でもある。
誰にでも優しく穏やかな態度を取り、老若男女問わず好かれる祐希は友達が多い。
人見知りなうえ口数も少ない方で、初対面の人など緊張して上手く言葉も紡げなくなる怜斗は友達がそう多くはなかった。
本来であれば、幼稚園、小学校、中学校で友達の一人もできなかったのではないか。
怜斗がそう思うのは、一重に祐希が傍にい続けてくれたからだ。
誰からも好かれる祐希と仲が良いからこそ、他のクラスメイトも怜斗に話し掛けやすくなっているのだろうと。
一人であれば、きっと、もう少し静かな学校生活になっていたのではないかと。
そうして、高校生活までもを共にできると知ったのは一ヶ月前の話だ。
二人はまた、クラスメートとして新生活を開けたのだった。
いつものように、怜斗は祐希の家のドア前で彼を待つ。
今日は起きるのが遅かったのか、隣の部屋からは慌ただしい音がしていた。
当然、祐希がドアを開けて出てくるのもいつもより少し遅い。
「待たせてごめん! おはよう、怜斗」
「気にしてない。……祐希、おはよう」
「あっ、そうだ! 今日あるらしい数学の小テストの勉強ってやった?」
「うん」
「どう、難しかった?」
「そこまで。祐希なら余裕」
「なんだよそれ〜! でもまぁ、怜斗がそう言うならそうなんだろうね」
家は変わらず隣同士、適当に会話を続けながら徒歩十分のところにある最寄りの駅へ向かう。
毎日顔を合わせていて話すことはなくならないのか、と母親から聞かれたことがある。
話すことがなくても、祐希となら無言の時間すら心地良いから問題ない。
そう答えた時、呆れているのかわからない笑い声を返された。
「祐希」
「ん? どした、怜斗」
「いや、なんでもない」
「……そっかー。なんかあったらいつでもなんでも言ってね!」
無邪気に笑う祐希に、怜斗の心は苦しくなる。
果たして祐希と怜斗の心は、同じなのだろうか。
そう疑問に思っても、祐希に聞くことなどできない。
違っていたとき、どうすればいいのかわからないだろうから。
この友情の先を、まだ、見たくないのだ。
かけがえのない唯一と言っていいだろう友達を、心友を、親友を、幼馴染と離れるなど考えたくもない。
***
いつも静かで、隣にいることが心地好い。
冷静に物事を捉えられて、誰よりも先を見ている。
冷たい印象を受ける彼の瞳が、嬉しそうに、楽しそうに細められると心が踊る。
白くキレイな彼の手はややひんやりとしていて、意外と骨張った大きな手で驚く。
落ち着いた声が、心を蕩けさせる。
数センチ高い彼の膝に乗ったときは、いつもより至近距離で見つめられて心が早鐘を打った。
時折一緒になってふざけて、時折縋るように甘えて、時折泣き虫になって。
堪らなく愛おしくて、大好きで、かっこいい。
それでいて、誰よりもかわいい大切なトモダチ。
「唯一無二の存在」
それが祐希にとっての、怜斗だった。
だから、これでいい。
物心着いたときから傍にいてくれたから、怜斗は祐希の一部のような存在なのだ。
幼稚園では常に二人きりで、殆ど誰かと関わりを持つことがなかった。
小学校や中学校では、クラスが違っても毎日顔を合わせて話すことも容易だった。
高校の志望校を合わせることも、祐希にはわけなかった。
同じクラスになって、運命だと信じた。
そうして、強く想うようになった。
これからもずっと、怜斗と二人きりがいい。
祐希は二人ぼっちの、カゴの中を望んでいる。
それが一方的なものであっても、優しい彼のことだ、最後には必ず赦してくれるだろうから。
《今一番欲しいもの》
「大好きな、愛しいあなたの声……とかかな」
そう嘯いた彼は、電話を、また掛けた。
トゥルルルル、トゥルルルル。
規則的なコール音に耳を傾けながら言葉を紡いでいく姿は、月下の世界でどこか儚げに映る。
「そうだな、この前失敗した話を話すから、それに笑い声を立ててくれたらいいや」
トゥルルルル、トゥルルルル。
一人静かに公園のベンチに、夜でも暑いこの季節に、水のひとつも持たずに座っている彼。
「ああ、笑わなくってもいいんだけど。ただ声が聞きたくなったからさ」
トゥルルルル、トゥルルルル。
繰り返されるコール音に、飽きれるほど聞いた音に彼は声を続ける。
「……だからさ、いつか」
何度目のコールでだろうか、おかけになった電話番号は……という自動音声に変わる。
彼は、ため息を零す。
「声を聞かせてくれよ、なあ」
真っ暗なスマートフォンの画面は声を立てない。
親友の声は——想い人の声は、二度と聞こえない。
《私だけ》《視線の先には》
君は誰にでも優しい、あたたかな人だった。
だからこそ、誰にでも愛されたし、誰でも愛すことのできたんだろうと思う。
ただ、勿体ないことに、君は誰の気持ちも悟ることができてしまって、慮ることも、解ることもできてしまった。
だから、何をすることもできていなかったんだよ。
皮肉? ああ、そうかも知れないね。
だって、誰からも愛されるということは、誰からも愛されないことときっと同義だから。
それに気付けたのは、君が襲われてから。
昨日の話だよ、本当に、呆れるよね。
怨恨からの事件だったんだって?
今思うと、動揺しすぎてて笑っちゃうけど。
『うそ、ひどい、さした、どうして、ああ、だれが、じょうだんだよね、いやだ、ねえ、なんで、君は、だれに、君を、さされたって、君が』
脳裏に浮かんだ言葉は、ただ思考を滑って行くだけで取り留めもなかったし、生産性も何もなかった。
それくらいびっくりしたんだよ?
でも、そうだな、うん。
割と仕方ない状況だったんでしょう、聞いたよ、お医者さんじゃなくてご両親から。
ほら、守秘義務? ってやつがあるから言えないらしくってさ。
暗かったんだよね? でもって周りに誰もいなくて、そこで襲われたんだって?
でも良かったよね、発見して通報と救急車を呼んでくれたサラリーマンがいて。
感謝しないとだよ、本当に。
ま、目を覚まさない君に代わってご両親と一緒にお礼は言っておいたからいいよね。
ねぇ、君はさ、刺された時どう思ったの?
自業自得だって思ったのか、それとも、どうしてあなたがっていう失意の中で刺されてたのか気になるなあ。
いや、君のことを心配してないからこんなことを聞いている訳じゃなくて、寧ろ心配だからこそ聞いてるんだよ。
だって、答える為に目を開けてくれるかも知れないじゃない、なんてね。
まあ、それは置いといてだよね。
泣かないよ、泣くだけが死を悼む行為ではないし、それはご両親の特権だと思ってるから。
うーん、そろそろ日も暮れてきたからね、もう帰らないとだ。
そうだな、また会いに来るよ。
今度会ったときは、目を覚ましててくれるといいな。
またね、ダーリン。
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「またね、ダーリン」
そう言って彼女は立ち上がる。
最後にそっと真新しい花を撫でて、石の上にある、彼の大好きだったチョコレートをハンカチで包んで鞄に入れた。
沢山の四角い石に囲まれながら砂利道を歩いて、また、雑草の生える道を進んで低いフェンスを飛び越えた。
本日、725回目にして初めて気が付いた、大通りまでの近道なのである。
そうして彼女は日常へと——自然と流れている時の流れへと、帰るのだ。
彼女だけが、この場所に囚われているのやも知れない。
低いフェンスには、ある看板が掲げられていた。
——これより、◯◯霊園。
彼女の視線の先には、きっと、在りし日の「君」がいたのだろう。