《喪失感》
なにか明確に、喪ったものはない。
誰も死んでいないし、特別なことなんてなに一つとしてなくて大丈夫だ。
それなのに、どうして。
時間を無駄に消費したから?
無駄とわかっての行動を繰り返したから?
その生産性のない言動に飽き飽きした?
いや、きっとどれでもないのだろう。
特別なそれはなくて。
理由も、自分ですらわかっていなくて。
だからこそ余計に苦しくなるのだろう。
誰か、埋めてと。
この喪失感を埋めてくれないかと、人恋しさに、また時間を解かすのか。
それが負のループになっているのかもしれない、と思える。
けれど、それがタチの悪い話で。
抜け出せないから、苦しい。
辛いのに、繰り返す。
望んだ結末は当然なく、また空虚な時が過ぎてしまう。
そしてそれが、喪失感を運んでくる。
夜になると特に酷くて、訳が分からなくなって時間だけが消える。
眠れば全てを忘れられる?
どうせ目覚めれば、また思い出す。
こんな時にどうすればいいのだったか。
大丈夫だと、口にするのだったか。
——ああ、そうか。忘れていた。
こんな時にどうすればいいのか、教えてくれた彼の人を。
不安を共有してくれた彼の人を。
言葉の意味を改めて教えてくれた彼の人を。
とうの昔に喪っていたのだった。
疎遠になっただけ、とは言えない。
彼の人の日々に存在できていないのだから、それは。
互いに喪ったも同然だろうから。
特別喧嘩をした訳でない。
ただ忙しくて会えないまま、離れただけだ。
そう、それだけ。
それだけのことで、人は喪失感に苛まれる。
きっと、あなたも。
特別な理由なんて必要ないことに、今、気付けるだろうから。
喪失感にしろ他のなににしろ、人はそう多くの理由を必要としないでいいのだから。
苦しい時に泣いて、辛い時に涙が溢れて、壊れかけて涙が頬を伝った時。
理由もなく傍に誰かがいてくれることを、嬉しく思ったり安心する。
それと似ている筈だ。
喪失感も、人の感情の一つなのだから。
二つ別の感じを書きたくなったので
「ありがとう」で区切ってお読み下さい
《世界に一つだけ》
領地の勉強を頑張っているからと、お父様はオーダーメイドのドレスをプレゼントしてくれた。
料理人のジョンは手伝いのお礼にと、甘くて美味しいスイーツを作ってくれた。
庭の掃除をすれば、庭師のダンドルフがいちばん綺麗なお花をくれた。
雑草の生えた石を掃除すると、代わりにと、メイドのアンナはハンカチをくれた。
嬉しいけれど、そうじゃないの。
本当に欲しいものは、物じゃないのに。
たった一言が欲しいだけ。
世界に一つだけの、貴女からの言葉が欲しい。
ねぇ、こう言ってちょうだいよ、お母さま。
「ありがとう」
それは感謝を伝える言葉で。
簡単に口にできる言葉で。
心を少しだけ軽くする言葉で。
聞けば嬉しくなれる言葉で。
優しい言葉で。
残酷にもなれる言葉で。
心の近い言葉で。
拒絶の言葉で。
自然と溢れる思いを固めたような言葉で。
世界に一つだけの言葉だ。
《言葉はいらない、ただ・・・》
前に逢ったのはいつの日だったか。
数えた頃はあれど、それも幾度か繰り返せば飽いてしまうもの。
デアは過ぎた時間を厭うことすらせず、ただ漫然と絶えず呼吸をしていた日々だったと、今更ながらにして思う。
「——【調和せし流水よ】」
「【大いなる息吹】」
口上も挨拶すらも必要ない。目が合って互いを認識していれば十分。
そも、千回はとうに交わしたことのあるのだ、互いに満足だろう。
デアの放った水は意志を持って悠然と動き、当然の結果として相手へと迫る。
ただし、動きで属性も魔法もを察知していた彼にとってはただの悪戯に過ぎないのか。
風で自身に掛かる水を全て散らせた彼——デウスは、事もなげにまた呪文を口に載せる。
「【火炎の囁き】」
「【大地穿ちて】」
他者からすれば初等魔法にしては例外な拡がりをみせる炎だが、見慣れているデアは焦ることなく土壁を立てて打ち消す。
単調な作業のようで、実際は高度な様子見の攻防。と、本来はそう認識される掛け合いだろうが二人にとってこれは準備運動だ。
久々に音を出し、やや乾いた声を立てる各々の喉を起こすだけの。
初等魔法以外使っておらず、また、相手が打ち消すか躱すか防御する前提であるからこその動揺のなさ。
「【空に轟て鳴け】」
「【大地穿ちて】」
半円状に放たれたデウスの雷は空気を震わせ、やがて逃げ場のない網と化す。その糸に絡まる前にと、大地から足場が立ち上がった。
その盛り上がった大地に足を掛け、デアは息を吸う。
「……【灼熱の炎よ、汝が敵を焼け】」
「【巡り巡る水よ、固に在りて非ず】」
二節詠唱の下等魔法。一拍を置いたのは余裕の表れか、はたまた気持ちの切り替えか。
火と水がせめぎ合い、その中心で爆発する。その衝撃で微塵になった木々には目もくれず、デアが再び詠唱を。
「【唸れ剣風、疾するが如く】」
「【内なる昏きに、恐れ戦け】」
広範囲に広がった炎とは違い、風はただ一点を目指してその他の空気を置き去りにする。
対してデウスが闇を発した所以は、その動きを悟られるのを嫌った為か。
当然風は現象だが、闇をも割くのは魔法で生まれた為だろう。しかし、狙った所には既に彼の姿はなかった。
「【雷鳴よ討て、光の指すままに】」
殆ど真横から飛来した雷は、前方に跳んで躱したデアが半瞬前にいた場所を刺した。
ここで、互いに初めて回避行動を取ったのである。
「…………はぁ……」
「……はー……」
訂正。言葉は不要だが、例外は息継ぎの際に漏れる声だ。微かな音である。
そこで漸く距離を近付けて二人は対峙した。
ここからが本当の殺し合い。
そう告げるまでもなく、そうなっていた。
デアは一拍置いて口を開く。
「【遍く大地に翳せ、月を介した光さえ、汝らが目には過ぎしもの。故に万物を焦がす】」
過ぎたる光は灯りとは呼べず、ただ身を焼く痛みを及ぼす不可避の凶光となる。光属性の高等魔法だ。
「——【ソル】」
最後の一節で魔法は現界し、刹那、地を灼いた。防御すら許さない純粋な殺意を叩き付けることと同義。
それに対して彼は、
「【ルーナ】」
と短く一節。
詠唱破棄という高難易度の魔力操作に輪をかけての高等魔法で返したのである。
月は陽の光を反射する。
それがこの世界においての常識である限りは、魔法戦においても確かな効力を発揮する。即ち、デアの太陽を擬似的に降臨させる魔法は、デウスの月を擬似的に降臨させる魔法に反射されることが確定しているのだ。
法則だとか、そういう理屈ではない。
概念的に『そう』なっているから、結果は絶対に——万に一つの例外もなく『そう』なるのだ。
デアが放った光は空へと反射され、誰をも灼くことなく消滅した。被害といえば、地面が焼け焦げたくらいである。
「……馬鹿が。蒸発でもする気か」
豪気な策に、思わず悪態がデアの口を突いて出る。
詠唱破棄は不可能ではないが、魔法の位階が上がれば上がる程難易度が跳ね上がる。
それを生死の境でしてみせたのだ、いかな相手とはいえ呆れが先に来る。
また、デアに直接反射するのではなく、怪我をさせないようにと空へ反射させたのも気に食わない。
「ならば貴女の光に灼かれて死ねと? それではどちらにせよ結果は変わらぬ」
デウスもデウスで、対抗策を潰したうえでそう宣うデアに呆れた声を返した。
刹那で選び取れる魔法など、他に思い付かなかったのだ。
寧ろ最善の策だったと言えよう。
「……ふん、詰まらん。もういい、貴様の顔など見たくもない」
「性急なことだ。我とて時間は余っているのだ、もう少し付き合えよ。デア」
「妾の名を呼ぶな」
「良いではないか。今回は三百ととんで四十二年ぶりだぞ、最長記録を更新だ」
「まさか数えていたとはな……暇を持て余しよって」
文句を言いはするものの、会えばこうして喧嘩をしてくるデアにデウスは苦笑した。
これで五千回目の邂逅だということに、彼女は気付いていないだろう。
「……さて、気の早い貴女だ、次で終わりにしてみせよう」
「良かろう。妾の得意な魔法で返してやる」
「先手を譲られたな、格好の悪いことに」
「知るか。早うせんか」
勝手知ったる互いの得意魔法を放つには、この場所は些か狭過ぎるだろう。だが、移す場所もない為諦める。
「デア、我が勝てば次は名で呼ぶ許可をくれよう」
「では妾が勝てば、貴様を名で呼んでやろう」
「……卑怯だな、貴女は」
デウスがその提案に勝負の采配を悩むとわかっての、デアの提案だ。
理由はわからないが、どうもこの男は名で呼びたがるし名で呼ばれたがるからだ。
「……はぁ……去るぞ?」
「待たせた、済まん」
漸く腹が決まったのか、彼はデアに向き直った。
呼吸を置いて詠唱を始める。
「【業火よ抱け、値し罪科に等しく在れ】」
「【水淼は永久に非ず、然るべき破を持つ】」
一節ずつ丁寧に唱える。
デウスは男。即ち陽の力を有する。
詰まり彼の得意は火属性魔法だ。
「【冷焔と対を成し、焱を散らせ】」
「【凝固せして、秋水と成れ】」
間違えれば反動は術者に来るのだ、慎重になるのも無理はない。
デアは女。即ち陰の力を有する。
詰まり彼女の得意は水属性魔法だ。
「【燎の及く、火日の若く】」
「【神癒の有れ、禍と在れ】」
互いに放つ魔法は初、下、中、上、高等魔法のどの位階にも属さぬ独自のもの。
それ故に詠唱破棄はできないという欠点がある。が、それを持って余りある威力を誇るのが独自で編み出した魔法の力だ。
「【其は我意の下に在り、万象を焚くこと為し】」
「【其は妾が意に従い、森羅を覆うべしこと誠生れ】」
果たして、この魔法が交わったとき世界は衝撃に耐え得るのか。
手加減していた理由が、今の二人には頭の片隅にすらないだろう。
それ程、この魔法戦を楽しんでいるということに気が付いているのか、いないのか。少なくともデウスはわかっているだろうが。
次で最後の一節だ。
相殺できる威力なのか、或いはどちらかが負傷するのかも読めない。なにせ初めて使用する——三百年という時間を持て余した二人が生んだ魔法なのだから。
「【アウレア・フランマ】!」
「【クラルス・アクア】!」
デウスが魔法で現界させたのは、黄金に輝く光と見紛う程の炎。
対してデアは、向こうの景色の詳細をも描く澄み渡る水である。
下等魔法同士の衝突で起こったのは小規模な爆発だったが、これはその何倍の威力を誇るのか定かでないのだ。
結果——世界が、瞬いた。
「——っ……!!」
「——あッ!?」
二人とてその被害者に漏れず、咄嗟に展開した防御魔法は意味を成さない。
光が、音が、熱が。
見えない。聞こえない。痛みを通り越して、何も感じない。
永遠にも思えるその時間は、正確には十数秒だった。
それらの現象が収まった途端、デアは頽れる。なんとか意地で立っていただけで、体が衝撃に耐えられなかったのだ。
正直見縊っていた。これ程の威力とは。
「……っぶない! 斃れるなよ、デア」
地面に伏しかけた彼女を既のところで支えたのはデウス。彼我の差は数十メートルはあった筈だが、彼にすれば一歩の距離だ。
彼女の額に手を翳す。
「【サナティオ】」
詠唱破棄の高等魔法の行使である。
それ程までに焦りがあったのだが、デウス自身も気付いていないだろう。
彼女の四肢にあった傷が一瞬にして癒え、同時に荒くなっていた呼吸も安定する。
そこで漸く安堵して、デウスは破壊され尽くした周囲に目を向けた。
デアを抱いていない方の手を伸ばす。
「【留められぬ流れよ、今この時を以て我に預けろ。然らばその流転、我の望みに従いて在れ。最たる存在の下、その知を与えよ】」
デウスは魔力か尽きかけていることを自覚しながら、それでも自身が携わった世界の破壊を放置する訳にも行かず詠唱する。
「【よって我——デウスの名の下に告ぐ。時よ巡れ、反転せよ。此は頑強なる大地を、在るべき姿へと】」
時属性の魔法は位階に関わらず、魔力消費と精神的苦痛とが馬鹿にならないのだ。
傷付いた大地のためであり、自らの暴力のためである。自業自得だと痛みに甘んじる。
「【アポステリオリ】」
詠唱を終えた途端頭痛と目眩がデウスを襲うが、なんとか堪える。
元通りの森に戻ったことを確認し、木陰にデアを寝かせておく。
「……またな、デア」
別れの言葉はいらない。
ただ、また会う時も同じように付き合ってくれればいいのだ。
それが死という概念を持たない、神たるゼウスが望むことだ。同じ立場にある、デアも望んでいるだろうか。
二柱の再会は、果たして、いつになるのか。
約束はしない。けれど、また逢えると信じているからこそ。
「……俺が勝ったんだ。名前で呼ばせろよ、デア」
また目の前から去って、世界を巡るのだ。
厄災から世界を守るためにも、秩序を守るためにも死ねない二人にとってこの魔法戦は——唯一無二の存在を求め合う一種の行為なのだろう。
《裏返し》
「おや、私のブローチは焦がれるあまり貴女に染まってしまいましたか」
そう囁くあいつの目は細められてはいるものの、随分と乾いている。
知っている。
嫌いだろう、憎んでいるだろう。
女性という生き物が苦手だろう。
「あら? とうとう見境がなくなってしまったのかしら。私まで口説こうとするなんて流石ね」
わかっている。
振り払う手が熱くなっているのも。
頬だって、少し赤いだろうけど。
「まぁなんて素敵な口説き文句なんでしょう。貴方の言葉一つで不快になれたわ」
「これはこれは手厳しい……相変わらず俺が嫌いだな、アニー」
「ええ。だから気安く呼ばないで頂戴、ルクシオン侯爵?」
嘘だ。
いつもその声で名前を呼ばれると、心臓が煩くなる。
嬉しくて、それだけで満たされる。
「はいはい……それではアンジェラ嬢、壁で佇む貴女に是非ダンスの誘いを受けて頂きたいのですが」
「あらなんて優しいのかしらね。わざわざ私が今壁の花になっていると教えて下さるなんて」
「おっと、失礼。麗しき茨姫、宜しければ一曲踊って頂けますか?」
「……ええまぁ」
侯爵からの誘いを、子爵令嬢が断れる筈もない。
周りからは、彼からはそう映っただろう。
それでいい。
そうでなくては、彼の傍にはいられない。
「では、参りましょうか」
「えぇ、素敵にエスコートして下さいね」
「アニー、君はダンスが得意だと記憶しているんだが」
「あらご存知ですか。……何度言えばいいのかわかりませんが、二度と愛称で呼ばないで下さるかしら。エドワード」
「これは失敬……本当に君は俺が嫌いだな」
そんなわけが、ないだろう。
「……大嫌いよ。エドワード」
大好きに決まってるでしょう、エドワード。
《さよならを言う前に》
人々の罵る声がする。
「……せ! あの悪女を殺せ!」
何をしたのか。
何故そんなふうに叫ばれるのか。
全くわからない、わけではない。
「早く!」
急くように死を望まれるのは、無知だったから。
「殺せ!」
いや、悪政を見て見ぬふりをしていたから。
「悪女を!」
殿下を誑かしてしまった、からだろうか。
冷たい石畳の上を裸足で歩いたことはなかった。
その凍えるような痛みを初めて知った。
あたたかな街の人々が、これ程冷たく残酷な目で悲鳴をあげることができたとは知らなかった。
「悪女に制裁を!」
それでも石を投げるのは一部の人だけで、良心が感じられて可笑しかった。
こんなときでも、心優しい人達なのか。
そんな人達を苦しめてしまっていたのか。
「殺せ!」
謝罪は口にしない。
それで良心が痛む人が、きっと、いると思うから。
せめてと、小さく口の中で別れを告げる。
「……さような」
「——その前に、貴女には言うべき言葉があるわ」
断頭台の前に立つ彼女は。
まさか。
「……マー、ガレット?」
「ええ、貴女のマーガレットよ。侯爵令嬢たる貴女がここで何をしているのかしら?」
「なにって、わたくし、は……」
気が付けば周囲は彼女の家の紋章を掲げた兵らによって、空けられていた。
無理もない。
この場を仕切っていたのは侯爵家で、彼女は公爵令嬢。階級で勝るマーガレットが多少無理を通しても、誰も止められやしないのだ。
あのマーガレットなのだから。
「ねぇ、今、なにをしてほしいか言ってごらんなさいよ。大切な友人として聞いてあげるから」
「……なら、そこを退いてちょうだい。わたくしは裁かれるべきなの、だから、兵も退かせて」
「あら……残念だわ、アン。私に聞けないお願いをするだなんて」
くすくすと笑ったマーガレットは、そっとアンの手を取った。
そして、
「さあ、なにを言っても周りには聞こえないわよ」
「……マーガレット」
「私、貴女が泣くのを許せないのよ」
「……けて」
「アン、私に願って」
「……たす、けて……!」
「そうよね。アン、行きましょう?」
二人で立ち上がって、断頭台から背を向けて歩き出す。
不思議と、心はあたたまった。
責任から逃れる苦しさに目を瞑って。
閉じ込めていた、理不尽だと嘆く自分に手を差し出して。
そうして、足は動くのだ。
「……それでは皆様、ごきげんよう」
「さよなら」
公爵令嬢による誘拐は真昼に行われたにも関わらず——誰の記憶にも留まらずして世界に溶けた。
マーガレットは、魔女である。