《夜の海》
短針は十一を、長針は六を少し過ぎたところ。
リビングにある洒落たデザインの時計は要(かなめ)の父親の趣味だった。
その時計に合わせてシックな基調のリビングは、誰でも落ち着きを感じられるだろう。
そんなリビングで格闘ゲームの真っ只中、
「——今から海行きたい」
突然友人がこんなことを言い出したとき、どう答えるのが正解なのか。
「……は?」
一瞬で答えが出る訳もなく、困惑が口を突いて出る。
いや今一緒にゲームしてるだろ、とか。
昼間ならまだしもこんな夜に行ってなにするんだ、とか。
そもそもこの時期ならクラゲに刺されるかも知れないだろ、とか。
額縁通りに受け取ればそんな言葉しか返せないだろう。
「……はあ、いいけど」
どうせ一度言い出したら聞かない、既に立ち上がった友人——圭(けい)の手を取ってソファから立ち上がる。
プレイ中のゲームが格闘ゲーでよかったと思う要は、一時中断して電源も落としておく。
「ここからバイクで十五分! 運転よろしく〜」
「夏とはいえ、一応上着羽織っとけよ」
夜に海に行くことなどなかった為、潮風が暑いのか涼しいのかはわからない。
この冷房の効いた部屋から出たくない体は、のろのろとスマホと財布とをポケットに入れる。
「ねぇ、まだぁ? 要くん、早くしてよ〜」
「はいはい。待てって」
適当に黒のパーカーを羽織って玄関へ向かうと、タオルを手にした圭は準備を終えていた。
戸棚にあったヘルメットも二つ抱えている。
「……あれ、俺場所とか教えたことあったっけ」
「この前おばさんが教えてくれたよ?」
「ああ、そう」
スニーカーを履きながらの会話でわかったことは、要の知らぬ間に圭と母親が仲良くなっていたことだ。息子の友人なのに、その息子が知らなかったとは。
世話好きの母親らしいと呆れながら、要は家の鍵を閉めた。
「……んじゃ、行くかぁ」
「れっつごー」
だらだらしている内に圭の気が変わらないかと期待してはいたが、その気配は全くない。
要は漸く諦めが付いて、海へとバイクを走らせた。
天気がよく、星もちらほらと見える中。
「……流石に暑ぃな、こりゃ」
「要くーん? 上着やっぱ要らないじゃん」
「だったな」
二人して、着いた瞬間これである。情緒は何処。
道中は風もあってか比較的涼しいと思っていたのだが、実際は微風で潮風も温い。どちらかと言えばじとじととした空気だ。
砂浜近くでバイクを停め、上着を置いて海へと近付く。念の為スマホと財布も置いて行くことにした。盗られる心配もなくはないが、濡れる心配の方が多くこの時間に人通りは多くないと見越してのそれである。
「ね、夜の海ってさ、結構深いよね」
「色か? あー……そうだな」
近くで見ると尚更だ、と要は思う。
月明かりで余計に闇が深く見えるのか、どこまでも昏い海に引きずり込まれそうだった。
「これはこれでキレイかもな……って、おい!」
要が水面に魅入っている内に、圭は砂浜に靴を脱ぎ捨てて浅瀬ではしゃいでいた。
足首まで浸かった圭は、この後のことを考えているのかいないのか。
「あんま遠くまで行くなよー、服、濡れんぞ」
「わかってるって。心配症だなぁ、要くんったら」
「わかってないだろ」
現に膝までを浸からせた圭には、真の意味では言葉が届いていない。
遠くから眺めていた要だが、このままでは泳ごうとすらするのでは、と焦り海へ近づいて行く。
「圭! もう腰まで浸かってるぞ」
「……要くん、オレを捕まえてみてよ」
その言葉に要は足を止める。
「変なこと言ってないで上がってこい。風邪引いても知らねーぞ」
「要くん、いいの? オレどんどん離れるよ?」
宣言通り一歩、また一歩と圭は距離を取っていく。
しかも要に顔を向けたままだ、いつ深みに足が嵌ってしまうかと気が気でない。
「せめて前見ろ」
「見てるじゃん」
「じゃあ後ろだ」
軽口を叩く暇などない筈なのに、いつものように返してしまう。
要の足は波が時折攫う砂浜で止まった。
「……っ、なんで急にこんな」
「なんで? わかってないと思ってんの、オレが」
要の疑問に苛立ったのか、圭は声を荒らげる。
「あのさぁ、いい加減にしてほしいんだけど。オレに気を使ってもなんの意味もないことくらい知ってるよね? わかっててやってんの? 意味わかんない」
「なに言って、」
「わかんないなら言ってあげようか、代わりに」
圭の目が冷たく感じ、ふいに要は手を伸ばした。
きっと、口を塞ぎたかったのだろう。
「今日ずっと上の空だったじゃん。なんか言いたいことあったんでしょ? 水嫌いの要くん」
それは呆れも混じっていて。
ただ、それだけではなかった。
「…………今日、プールがあって」
観念した訳ではないが、要は、つと話し始めた。
「ふざけてるヤツらがいて。俺は腹痛いからって、見学してたんだけど。なんかノリで、水掛けられて。顔に掛かんなかったんだけど。そしたら、また掛けてきて。顔に当たって動揺しちまって。一瞬パニックになって、足踏み外して……中に落ちかけて」
話している内に顔が下がっていくのを感じながら、それでも見られたくないからと要は俯く。
「ふざけてたヤツらが助けてくれたんだけど、片足濡れて。それでまぁ、なんだ。ちょっと……パニクったってだけなんだけど。その場で取り繕えるくらいだったから大したアレじゃなくて」
「……それでも頭に残ってたから、オレに話そうと思ってたワケ?」
「いや、まぁ……なんつーか、そうだわ」
「ふぅーん?」
若干の気恥しさを覚えながら要が顔を上げると、圭は更に遠ざかっていた。
胸の辺りまで浸かっている。
「ちょっ、はぁ!? なにしてんだよ、聞いてなかったろ俺の話!」
「聞いてた聞いてたー! ……そんな要くんにオレは捕まえてって言ってたんだけど、聞いてた?」
「聞きたくなかったわ!」
冗談かと思えば、その目は確実に本気だ。
片足をプールに突っ込んだだけであの動揺具合だった要に、海に飛び込んでこいと言うのか。
嫌々ながらも要は深呼吸をして、スニーカーを脱いで靴下も脱ぐ。
「お? 来てくれんの、要くん」
「そこまでは行ってやんねぇからな……!」
舌打ちをして、要は海に足を踏み入れた。
その瞬間ぞわりとする。
同時に怖く思うが、構わず足を進めた。
「圭、さっさと戻ってこい」
「やだよー、オレは水好きだもん」
「好きとかあんのかよ……」
「要くんはどうせ来れないんだし、待ってたら?」
「るっせぇな、テメェ」
「あは、意地になってんじゃん。うける」
「舐めんなよ、俺の負けず嫌い」
「ガキじゃん」
「はあ? 圭に言われるとか終わりだわ」
「はい? そっちこそ舐めてない、オレのこと」
「合ってるだろ」
「間違ってるんですけどー?」
「はっ! おら、手ぇ出せこの馬鹿」
「なに——馬鹿じゃん」
恐怖心を会話で紛らわせながら、要は圭に手を伸ばす。
海に腰程まで浸からせた要の手は、震えていた。
手だけでない。足も、体全てだ。
「あっはは! ホントに来たの!?」
「馬鹿、これ以上は無理だっての」
「はー……面白いね、要くん」
こっちはそれどころでない、と要が圭を睨むと、その手を取るべく圭は動いた。
「要くんに免じて帰ってきてあげる」
「早くこい」
その手を圭が握ると、余計にその震えが伝わる。
よくよく見れば顔色も悪い。
「意地悪してごめんね、要くん」
「……マジでふざけんなテメェ」
素直でかわいい友人に圭は笑う。
水嫌いのくせに、頑張ってここまで来るとは。
「要くんがなんか隠したまんまなの、悲しいし寂しいんだからね。今後は直ぐに言ってよ?」
「……善処するわ」
海から上がると、服は重いうえ肌はベタベタとしていて最悪だった。
潮風も温く乾かす気などなさそうな弱さだ。
「気持ち悪ぃ……入るんじゃなかった」
「あははー、これはこれで醍醐味だよ」
「なんのだよ」
「……着衣水泳?」
「どっちも泳いでねぇわ」
靴を履くとバイクまで戻ってTシャツを脱ぐ。上着だけ羽織ると、まだ不快感はマシだった。
「ねぇ、要くん」
「あんだよ」
「ありがとね」
「なにが」
「……さぁて、帰ろっかー!」
要の言葉には答えないまま、圭は歩き出す。
いつもと変わらぬその声に要は、
「誰のせいで濡れたと思ってんだ。後で俺になんか奢れよ」
ため息混じりの声で応えた。
「ジュースでいい?」
「んー、却下」
「アイス?」
「高級なやつな、よろしくー」
「……いいけど、まずは家帰って風呂でしょ」
「だな。先入って、そんで俺が風呂入ってる間に買ってきといて」
「バニラ?」
「聞くまでもねぇだろ」
「だねー」
夜の海に、二人の声は響かないだろう。
波の音が総てを、攫ってしまうから。
《終点》
君と俺の人生が交わった、あの湖。
俺の入水自殺を止めて、最期は君から一緒に死のうと叫んだあの湖。
そして、結局俺だけが世界に取り残されて慟哭したあの湖。
嗚呼、それから。
これから俺が沈むあの湖だ。
それがきっと、終点。
君と俺の人生か。
俺の生と君の生が。
君の死と俺の生が。
君の死と俺の死が。
交わる場所だ。
《明日、もし晴れたら》
『結婚式を挙げるんだ』
兄からの便りにはそう在って、挙式の日付は明日だった。
唐突で、驚いた余り目を何度擦っても同じ文字が並んでいた。
恋人がいるという素振りすらなかったというのに。
「結婚かぁ……相手、どんな方なんだろう」
弟として知っておきたい。
この先、慕うべき存在となるのだから。
「兄さんも話してくれたらいいのに」
その時ニュースで、明日の天気予報は大雨です、と聞こえた。
「雨……雨ね」
明日は洗濯物ができないな、とか。
出掛ける時は傘を持っていかないと、とか。
「明日、もし晴れたら——それでも雨が降っていたらきっと、兄さんは結婚式を挙げているんだろうなぁ」
そう呟いて弟は、自慢の黄金色の尻尾でクッションを叩いた。
叩いてから、化けの皮が剥がれていることに気付いた弟は尻尾を隠す。
幸い今は一人だが、外でやってしまわなくてよかった。
「兄さん、おめでとう」
零した祝福の言葉は、遠い山里にいる兄にも届いただろうか。
きっと、狐の兄弟の絆が伝えてくれるだろう。
《だから、一人でいたい。》
みんな殺された。
家族も、友達も、知らない人も。
一方的な虐殺としか思えなかった。
こんなものは戦争とは呼べない。
そう思う程だった。
残されたのは何人だったか。
生き残ったのは誰だったか。
誰もが泣いていたから、誰かわからない。
悲しい。
苦しい。
辛い。
寂しい。
どうすればいいのかわからない。
助けてほしい。
哀しい。
淋しい。
痛い。
感情は、解る筈なのに。
どうしてか涙は出なかった。
どんなに気分は沈んでも、泣けなかった。
気持ち悪い。
心がないのか。
冷たい人。
そんな風に、みんなに蔑まれた。
でも、どうしたら涙が出るのかわからない。
涙が出ない奴は可笑しい。
異常で、狂っていて、壊れている。
そんな言葉に蓋をした。
みんなが後ろ指を指すから。
みんな誰かを喪っている大事な時なのに。
そう思わせてしまうのが申し訳なかった。
ごめんなさい。
泣けなくてごめんなさい。
悲しめなくてごめんなさい。
苦しめなくてごめんなさい。
寂しがれなくてごめんなさい。
心の痛みがわからなくてごめんなさい。
だから、一人でいたい。
みんなが悲しめるように。
涙の流せない今の感情を、わかりたくて。
《鳥かご》
祐希と怜斗はいつも二人だった。
母親同士が高校生の頃からの親友とあって、同じ病院で一日違いで産まれた二人は産まれる前から一緒だった。
幼馴染というより、殆ど家族に近かったのもそれが理由だろう。
人見知りの怜斗が輪に入れず寂しい思いをしないようにと、祐希が傍から離れなかった為でもある。
誰にでも優しく穏やかな態度を取り、老若男女問わず好かれる祐希は友達が多い。
人見知りなうえ口数も少ない方で、初対面の人など緊張して上手く言葉も紡げなくなる怜斗は友達がそう多くはなかった。
本来であれば、幼稚園、小学校、中学校で友達の一人もできなかったのではないか。
怜斗がそう思うのは、一重に祐希が傍にい続けてくれたからだ。
誰からも好かれる祐希と仲が良いからこそ、他のクラスメイトも怜斗に話し掛けやすくなっているのだろうと。
一人であれば、きっと、もう少し静かな学校生活になっていたのではないかと。
そうして、高校生活までもを共にできると知ったのは一ヶ月前の話だ。
二人はまた、クラスメートとして新生活を開けたのだった。
いつものように、怜斗は祐希の家のドア前で彼を待つ。
今日は起きるのが遅かったのか、隣の部屋からは慌ただしい音がしていた。
当然、祐希がドアを開けて出てくるのもいつもより少し遅い。
「待たせてごめん! おはよう、怜斗」
「気にしてない。……祐希、おはよう」
「あっ、そうだ! 今日あるらしい数学の小テストの勉強ってやった?」
「うん」
「どう、難しかった?」
「そこまで。祐希なら余裕」
「なんだよそれ〜! でもまぁ、怜斗がそう言うならそうなんだろうね」
家は変わらず隣同士、適当に会話を続けながら徒歩十分のところにある最寄りの駅へ向かう。
毎日顔を合わせていて話すことはなくならないのか、と母親から聞かれたことがある。
話すことがなくても、祐希となら無言の時間すら心地良いから問題ない。
そう答えた時、呆れているのかわからない笑い声を返された。
「祐希」
「ん? どした、怜斗」
「いや、なんでもない」
「……そっかー。なんかあったらいつでもなんでも言ってね!」
無邪気に笑う祐希に、怜斗の心は苦しくなる。
果たして祐希と怜斗の心は、同じなのだろうか。
そう疑問に思っても、祐希に聞くことなどできない。
違っていたとき、どうすればいいのかわからないだろうから。
この友情の先を、まだ、見たくないのだ。
かけがえのない唯一と言っていいだろう友達を、心友を、親友を、幼馴染と離れるなど考えたくもない。
***
いつも静かで、隣にいることが心地好い。
冷静に物事を捉えられて、誰よりも先を見ている。
冷たい印象を受ける彼の瞳が、嬉しそうに、楽しそうに細められると心が踊る。
白くキレイな彼の手はややひんやりとしていて、意外と骨張った大きな手で驚く。
落ち着いた声が、心を蕩けさせる。
数センチ高い彼の膝に乗ったときは、いつもより至近距離で見つめられて心が早鐘を打った。
時折一緒になってふざけて、時折縋るように甘えて、時折泣き虫になって。
堪らなく愛おしくて、大好きで、かっこいい。
それでいて、誰よりもかわいい大切なトモダチ。
「唯一無二の存在」
それが祐希にとっての、怜斗だった。
だから、これでいい。
物心着いたときから傍にいてくれたから、怜斗は祐希の一部のような存在なのだ。
幼稚園では常に二人きりで、殆ど誰かと関わりを持つことがなかった。
小学校や中学校では、クラスが違っても毎日顔を合わせて話すことも容易だった。
高校の志望校を合わせることも、祐希にはわけなかった。
同じクラスになって、運命だと信じた。
そうして、強く想うようになった。
これからもずっと、怜斗と二人きりがいい。
祐希は二人ぼっちの、カゴの中を望んでいる。
それが一方的なものであっても、優しい彼のことだ、最後には必ず赦してくれるだろうから。