望月

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8/23/2024, 9:23:20 AM

《裏返し》

「おや、私のブローチは焦がれるあまり貴女に染まってしまいましたか」
 そう囁くあいつの目は細められてはいるものの、随分と乾いている。
 知っている。
 嫌いだろう、憎んでいるだろう。
 女性という生き物が苦手だろう。
「あら? とうとう見境がなくなってしまったのかしら。私まで口説こうとするなんて流石ね」
 わかっている。
 振り払う手が熱くなっているのも。
 頬だって、少し赤いだろうけど。
「まぁなんて素敵な口説き文句なんでしょう。貴方の言葉一つで不快になれたわ」
「これはこれは手厳しい……相変わらず俺が嫌いだな、アニー」
「ええ。だから気安く呼ばないで頂戴、ルクシオン侯爵?」
 嘘だ。
 いつもその声で名前を呼ばれると、心臓が煩くなる。
 嬉しくて、それだけで満たされる。
「はいはい……それではアンジェラ嬢、壁で佇む貴女に是非ダンスの誘いを受けて頂きたいのですが」
「あらなんて優しいのかしらね。わざわざ私が今壁の花になっていると教えて下さるなんて」
「おっと、失礼。麗しき茨姫、宜しければ一曲踊って頂けますか?」
「……ええまぁ」
 侯爵からの誘いを、子爵令嬢が断れる筈もない。
 周りからは、彼からはそう映っただろう。
 それでいい。
 そうでなくては、彼の傍にはいられない。
「では、参りましょうか」
「えぇ、素敵にエスコートして下さいね」
「アニー、君はダンスが得意だと記憶しているんだが」
「あらご存知ですか。……何度言えばいいのかわかりませんが、二度と愛称で呼ばないで下さるかしら。エドワード」
「これは失敬……本当に君は俺が嫌いだな」
 そんなわけが、ないだろう。
「……大嫌いよ。エドワード」
 大好きに決まってるでしょう、エドワード。

8/21/2024, 10:48:26 AM

《さよならを言う前に》

 人々の罵る声がする。
「……せ! あの悪女を殺せ!」
 何をしたのか。
 何故そんなふうに叫ばれるのか。
 全くわからない、わけではない。
「早く!」
 急くように死を望まれるのは、無知だったから。
「殺せ!」
 いや、悪政を見て見ぬふりをしていたから。
「悪女を!」
 殿下を誑かしてしまった、からだろうか。
 冷たい石畳の上を裸足で歩いたことはなかった。
 その凍えるような痛みを初めて知った。
 あたたかな街の人々が、これ程冷たく残酷な目で悲鳴をあげることができたとは知らなかった。
「悪女に制裁を!」
 それでも石を投げるのは一部の人だけで、良心が感じられて可笑しかった。
 こんなときでも、心優しい人達なのか。
 そんな人達を苦しめてしまっていたのか。
「殺せ!」
 謝罪は口にしない。
 それで良心が痛む人が、きっと、いると思うから。
 せめてと、小さく口の中で別れを告げる。
「……さような」
「——その前に、貴女には言うべき言葉があるわ」
 断頭台の前に立つ彼女は。
 まさか。
「……マー、ガレット?」
「ええ、貴女のマーガレットよ。侯爵令嬢たる貴女がここで何をしているのかしら?」
「なにって、わたくし、は……」
 気が付けば周囲は彼女の家の紋章を掲げた兵らによって、空けられていた。
 無理もない。
 この場を仕切っていたのは侯爵家で、彼女は公爵令嬢。階級で勝るマーガレットが多少無理を通しても、誰も止められやしないのだ。
 あのマーガレットなのだから。
「ねぇ、今、なにをしてほしいか言ってごらんなさいよ。大切な友人として聞いてあげるから」
「……なら、そこを退いてちょうだい。わたくしは裁かれるべきなの、だから、兵も退かせて」
「あら……残念だわ、アン。私に聞けないお願いをするだなんて」
 くすくすと笑ったマーガレットは、そっとアンの手を取った。
 そして、
「さあ、なにを言っても周りには聞こえないわよ」
「……マーガレット」
「私、貴女が泣くのを許せないのよ」
「……けて」
「アン、私に願って」
「……たす、けて……!」
「そうよね。アン、行きましょう?」
 二人で立ち上がって、断頭台から背を向けて歩き出す。
 不思議と、心はあたたまった。
 責任から逃れる苦しさに目を瞑って。
 閉じ込めていた、理不尽だと嘆く自分に手を差し出して。
 そうして、足は動くのだ。
「……それでは皆様、ごきげんよう」
「さよなら」
 公爵令嬢による誘拐は真昼に行われたにも関わらず——誰の記憶にも留まらずして世界に溶けた。
 マーガレットは、魔女である。

8/16/2024, 10:48:20 AM

《夜の海》

 短針は十一を、長針は六を少し過ぎたところ。
 リビングにある洒落たデザインの時計は要(かなめ)の父親の趣味だった。
 その時計に合わせてシックな基調のリビングは、誰でも落ち着きを感じられるだろう。
 そんなリビングで格闘ゲームの真っ只中、
「——今から海行きたい」
 突然友人がこんなことを言い出したとき、どう答えるのが正解なのか。
「……は?」
 一瞬で答えが出る訳もなく、困惑が口を突いて出る。
 いや今一緒にゲームしてるだろ、とか。
 昼間ならまだしもこんな夜に行ってなにするんだ、とか。
 そもそもこの時期ならクラゲに刺されるかも知れないだろ、とか。
 額縁通りに受け取ればそんな言葉しか返せないだろう。
「……はあ、いいけど」
 どうせ一度言い出したら聞かない、既に立ち上がった友人——圭(けい)の手を取ってソファから立ち上がる。
 プレイ中のゲームが格闘ゲーでよかったと思う要は、一時中断して電源も落としておく。
「ここからバイクで十五分! 運転よろしく〜」
「夏とはいえ、一応上着羽織っとけよ」
 夜に海に行くことなどなかった為、潮風が暑いのか涼しいのかはわからない。
 この冷房の効いた部屋から出たくない体は、のろのろとスマホと財布とをポケットに入れる。
「ねぇ、まだぁ? 要くん、早くしてよ〜」
「はいはい。待てって」
 適当に黒のパーカーを羽織って玄関へ向かうと、タオルを手にした圭は準備を終えていた。
 戸棚にあったヘルメットも二つ抱えている。
「……あれ、俺場所とか教えたことあったっけ」
「この前おばさんが教えてくれたよ?」
「ああ、そう」
 スニーカーを履きながらの会話でわかったことは、要の知らぬ間に圭と母親が仲良くなっていたことだ。息子の友人なのに、その息子が知らなかったとは。
 世話好きの母親らしいと呆れながら、要は家の鍵を閉めた。
「……んじゃ、行くかぁ」
「れっつごー」
 だらだらしている内に圭の気が変わらないかと期待してはいたが、その気配は全くない。
 要は漸く諦めが付いて、海へとバイクを走らせた。

 天気がよく、星もちらほらと見える中。
「……流石に暑ぃな、こりゃ」
「要くーん? 上着やっぱ要らないじゃん」
「だったな」
 二人して、着いた瞬間これである。情緒は何処。
 道中は風もあってか比較的涼しいと思っていたのだが、実際は微風で潮風も温い。どちらかと言えばじとじととした空気だ。
 砂浜近くでバイクを停め、上着を置いて海へと近付く。念の為スマホと財布も置いて行くことにした。盗られる心配もなくはないが、濡れる心配の方が多くこの時間に人通りは多くないと見越してのそれである。
「ね、夜の海ってさ、結構深いよね」
「色か? あー……そうだな」
 近くで見ると尚更だ、と要は思う。
 月明かりで余計に闇が深く見えるのか、どこまでも昏い海に引きずり込まれそうだった。
「これはこれでキレイかもな……って、おい!」
 要が水面に魅入っている内に、圭は砂浜に靴を脱ぎ捨てて浅瀬ではしゃいでいた。
 足首まで浸かった圭は、この後のことを考えているのかいないのか。
「あんま遠くまで行くなよー、服、濡れんぞ」
「わかってるって。心配症だなぁ、要くんったら」
「わかってないだろ」
 現に膝までを浸からせた圭には、真の意味では言葉が届いていない。
 遠くから眺めていた要だが、このままでは泳ごうとすらするのでは、と焦り海へ近づいて行く。
「圭! もう腰まで浸かってるぞ」
「……要くん、オレを捕まえてみてよ」
 その言葉に要は足を止める。
「変なこと言ってないで上がってこい。風邪引いても知らねーぞ」
「要くん、いいの? オレどんどん離れるよ?」
 宣言通り一歩、また一歩と圭は距離を取っていく。
 しかも要に顔を向けたままだ、いつ深みに足が嵌ってしまうかと気が気でない。
「せめて前見ろ」
「見てるじゃん」
「じゃあ後ろだ」
 軽口を叩く暇などない筈なのに、いつものように返してしまう。
 要の足は波が時折攫う砂浜で止まった。
「……っ、なんで急にこんな」
「なんで? わかってないと思ってんの、オレが」
 要の疑問に苛立ったのか、圭は声を荒らげる。
「あのさぁ、いい加減にしてほしいんだけど。オレに気を使ってもなんの意味もないことくらい知ってるよね? わかっててやってんの? 意味わかんない」
「なに言って、」
「わかんないなら言ってあげようか、代わりに」
 圭の目が冷たく感じ、ふいに要は手を伸ばした。
 きっと、口を塞ぎたかったのだろう。
「今日ずっと上の空だったじゃん。なんか言いたいことあったんでしょ? 水嫌いの要くん」
 それは呆れも混じっていて。
 ただ、それだけではなかった。
「…………今日、プールがあって」
 観念した訳ではないが、要は、つと話し始めた。
「ふざけてるヤツらがいて。俺は腹痛いからって、見学してたんだけど。なんかノリで、水掛けられて。顔に掛かんなかったんだけど。そしたら、また掛けてきて。顔に当たって動揺しちまって。一瞬パニックになって、足踏み外して……中に落ちかけて」
 話している内に顔が下がっていくのを感じながら、それでも見られたくないからと要は俯く。
「ふざけてたヤツらが助けてくれたんだけど、片足濡れて。それでまぁ、なんだ。ちょっと……パニクったってだけなんだけど。その場で取り繕えるくらいだったから大したアレじゃなくて」
「……それでも頭に残ってたから、オレに話そうと思ってたワケ?」
「いや、まぁ……なんつーか、そうだわ」
「ふぅーん?」
 若干の気恥しさを覚えながら要が顔を上げると、圭は更に遠ざかっていた。
 胸の辺りまで浸かっている。
「ちょっ、はぁ!? なにしてんだよ、聞いてなかったろ俺の話!」
「聞いてた聞いてたー! ……そんな要くんにオレは捕まえてって言ってたんだけど、聞いてた?」
「聞きたくなかったわ!」
 冗談かと思えば、その目は確実に本気だ。
 片足をプールに突っ込んだだけであの動揺具合だった要に、海に飛び込んでこいと言うのか。
 嫌々ながらも要は深呼吸をして、スニーカーを脱いで靴下も脱ぐ。
「お? 来てくれんの、要くん」
「そこまでは行ってやんねぇからな……!」
 舌打ちをして、要は海に足を踏み入れた。
 その瞬間ぞわりとする。
 同時に怖く思うが、構わず足を進めた。
「圭、さっさと戻ってこい」
「やだよー、オレは水好きだもん」
「好きとかあんのかよ……」
「要くんはどうせ来れないんだし、待ってたら?」
「るっせぇな、テメェ」
「あは、意地になってんじゃん。うける」
「舐めんなよ、俺の負けず嫌い」
「ガキじゃん」
「はあ? 圭に言われるとか終わりだわ」
「はい? そっちこそ舐めてない、オレのこと」
「合ってるだろ」
「間違ってるんですけどー?」
「はっ! おら、手ぇ出せこの馬鹿」
「なに——馬鹿じゃん」
 恐怖心を会話で紛らわせながら、要は圭に手を伸ばす。
 海に腰程まで浸からせた要の手は、震えていた。
 手だけでない。足も、体全てだ。
「あっはは! ホントに来たの!?」
「馬鹿、これ以上は無理だっての」
「はー……面白いね、要くん」
 こっちはそれどころでない、と要が圭を睨むと、その手を取るべく圭は動いた。
「要くんに免じて帰ってきてあげる」
「早くこい」
 その手を圭が握ると、余計にその震えが伝わる。
 よくよく見れば顔色も悪い。
「意地悪してごめんね、要くん」
「……マジでふざけんなテメェ」
 素直でかわいい友人に圭は笑う。
 水嫌いのくせに、頑張ってここまで来るとは。
「要くんがなんか隠したまんまなの、悲しいし寂しいんだからね。今後は直ぐに言ってよ?」
「……善処するわ」
 海から上がると、服は重いうえ肌はベタベタとしていて最悪だった。
 潮風も温く乾かす気などなさそうな弱さだ。
「気持ち悪ぃ……入るんじゃなかった」
「あははー、これはこれで醍醐味だよ」
「なんのだよ」
「……着衣水泳?」
「どっちも泳いでねぇわ」
 靴を履くとバイクまで戻ってTシャツを脱ぐ。上着だけ羽織ると、まだ不快感はマシだった。
「ねぇ、要くん」
「あんだよ」
「ありがとね」
「なにが」
「……さぁて、帰ろっかー!」
 要の言葉には答えないまま、圭は歩き出す。
 いつもと変わらぬその声に要は、
「誰のせいで濡れたと思ってんだ。後で俺になんか奢れよ」
 ため息混じりの声で応えた。
「ジュースでいい?」
「んー、却下」
「アイス?」
「高級なやつな、よろしくー」
「……いいけど、まずは家帰って風呂でしょ」
「だな。先入って、そんで俺が風呂入ってる間に買ってきといて」
「バニラ?」
「聞くまでもねぇだろ」
「だねー」
 夜の海に、二人の声は響かないだろう。
 波の音が総てを、攫ってしまうから。

8/11/2024, 6:54:01 AM

《終点》

 君と俺の人生が交わった、あの湖。
 俺の入水自殺を止めて、最期は君から一緒に死のうと叫んだあの湖。
 そして、結局俺だけが世界に取り残されて慟哭したあの湖。
 嗚呼、それから。
 これから俺が沈むあの湖だ。
 それがきっと、終点。
 君と俺の人生か。
 俺の生と君の生が。
 君の死と俺の生が。
 君の死と俺の死が。
 交わる場所だ。

8/2/2024, 4:56:44 AM

《明日、もし晴れたら》

 『結婚式を挙げるんだ』
 兄からの便りにはそう在って、挙式の日付は明日だった。
 唐突で、驚いた余り目を何度擦っても同じ文字が並んでいた。
 恋人がいるという素振りすらなかったというのに。
「結婚かぁ……相手、どんな方なんだろう」
 弟として知っておきたい。
 この先、慕うべき存在となるのだから。
「兄さんも話してくれたらいいのに」
 その時ニュースで、明日の天気予報は大雨です、と聞こえた。
「雨……雨ね」
 明日は洗濯物ができないな、とか。
 出掛ける時は傘を持っていかないと、とか。
「明日、もし晴れたら——それでも雨が降っていたらきっと、兄さんは結婚式を挙げているんだろうなぁ」
 そう呟いて弟は、自慢の黄金色の尻尾でクッションを叩いた。
 叩いてから、化けの皮が剥がれていることに気付いた弟は尻尾を隠す。
 幸い今は一人だが、外でやってしまわなくてよかった。
「兄さん、おめでとう」
 零した祝福の言葉は、遠い山里にいる兄にも届いただろうか。
 きっと、狐の兄弟の絆が伝えてくれるだろう。

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