《あなたがいたから》
彼女が死んだ。
自殺だったそうだ。
知らせてくれたのは彼女の母親で、何度も面識があった。
遺書が傍に置かれていたようで、両親への感謝から始まっていたそうだ。
そして俺にも触れていたらしく、最後の一文。
『あなたがいたから、私は』
その続きは、血で判別できなくなっていたそうだ。
きっと、自殺を選んだ理由でも書かれているのだろう。
そう思っての、電話だそうだ。
「……彼女の自殺の理由に、思い当たることは、あります」
そう答えた途端、弱々しかった彼女の母親の声色は非難の色を帯びた。
きっと俺が彼女を追い詰めたと思ったのだろう。
何があったのか、なにかしたのか。
そう問われたとて、答えなど俺には無い。
だからといって納得はされないか。
「すみません、すみません、すみません……」
ひたすらに謝罪をして、暫く、二時間ほど経って。
「あなたがいるから、娘は幸せだったのに! そのあなたがっ、娘を……あの子を、殺すなんて!! もう二度と現れないでッ」
絶縁の叫びと共に電話は切れた。
彼女の母親からすれば俺は、娘を自殺に追い込んだ——殺した犯人だ。
怒りはもっとも。
「……俺は、これでいいんだよな」
彼女の意思はもうわからない。
けれど遺書にすら書かなかった事実を、俺が言う訳にも行かない。
しっかりと遺体を調べれば、彼女が、文字通り墓場まで持って行くつもりの真実も明かされるだろうが。
俺は、これでいい。
例え彼女の両親に恨まれようとも、彼女の遺志を尊重できるのなら本望だ。
だから、お義母さん、お義父さん、本当にすみません。ごめんなさい。
「……あなたがいたから、私は、病気に勝ったんだよ」
そう言いたかったんだろ、君は。
病気じゃなくて、自殺を選んだ理由は。
俺にだけ打ち明けていた入院生活。
それを両親に隠していたのは、そこに血の繋がりがなかったからだろう。
心配を掛けたくなかったからだろう。
足が悪く滅多に家から出ることの叶わない両親が、大好きで仕方なかったからだろう。
なんて、これ以上はわからないが。
「……なぁ。言わないって約束、守ったからさ。これからも守るからさ」
俺にも、実は生きてましたって、嘘くらい吐いてくれよ。
それで、病死よりも先に自殺を選んだ理由を、口にしてくれよ。
それだけは、きっと。
恨まれなきゃいけないはずだ。
「俺が罪悪感に呑まれないうちに、死ぬためだったんだろ」
俺のために、自殺した。
それは、きっと、自惚れじゃない。
《あじさい》
「ねぇ、知ってる? 『あじさい』ってさ、紫色の太陽の花って書いて『紫陽花』なんだよ」
唐突に漢字の話をしだしたのは、きっと課題という名の手の作業に飽きたからだろう。
一瞬止めてしまった手を動かし、視線も落としたまま「へぇー」と生返事をする。
「不思議だよね! 六月とかさ、雨が多い時期に咲くお花なのに太陽の漢字が入ってるなんて」
それに気を悪くすることもなく続けているからして、特に返事を期待していた訳でもなさそうだ。
昨日にでも、ネットか何かで読んだのか。
「漢字の由来って、あれじゃないの。唐の詩人の何とかって人が書いた詩で、名前はわからない色や香りの描写された花を、日本人が間違えてあじさいって捉えたとか……そんな感じの」
「え、そうなの!? ってなんだー、知ってたのか。しかも私より詳しいじゃんか!」
「前にネットの記事で読んだんだよ、というか詳しくはないだろ」
明らかに「ずるーい」と言う君の方が狡くないだろうか。君もネット情報だろ。
「ん、あれなんだって。『アジ』は『集まる』の『あつ』から来てて『サイ』は藍色を示す『真藍』を意味してるんだってさ。……読んでもあんまりわかんないね!」
いや、スマホで調べといてわかんないのかよ。
「……それはもうわかったから、いい加減課題やったらどうなの?」
「えー、だってわかんないんだもん」
「いや他人の答え写してるだけだろ」
「……それはそうなんだけどぉ」
飽きたのと、そもそもやる気がないのと。
結局そのまま片付け始める。
「明日出すんでしょ、いいの?」
「よくない! けど、また寝る前にやるよ、うん。最悪明日学校でやればいいんだし」
「間に合うかどうか知らないからね……」
さあ、ここまで来たら、こちらも気持ちが引っ張られるというもの。
10分も経たずに机の上は綺麗になった。
「せっかくあじさいの話したんだし、近くの公園に咲いてたから見に行こうよ」
「え! 本当? 咲いてたんだ、知らなかった」
「君の通学路でしょ? マジか」
特に明確な話題もなしに部屋を出て、靴を履いて外へ出る。
「うーん、段差要らないんだよなぁ、玄関前の」
「君の家だろ、文句言わないの」
「あ、あじさい!」
「……雨降ってないけど、綺麗なもんだね」
「確かに、青空でも綺麗ー!」
「曇りだけどね」
「……そこはさぁ、君の方が綺麗だよ、くらい言ってくれないと。ノリ悪いよ?」
「無理だろ。あー……一応、ごめん?」
君に言えると思うなよ。本気で。
「酷いなぁ……まぁ、いいんだけどさ」
「あじさいって色んな色あるんだね」
「ね! 紫っぽいのはそうだけど、青とかピンクとかね」
「……君に似合うのは、白のあじさいかな」
「勇気出して言ってくれたね、及第点をやろう」
「はいはい。ありがとうございまーす」
合格点って何点なんだよ。
君の前にはどんな色のあじさいも霞んでしまうね、くらい言えばよかったのか。
土台無理な話を考えながら、並んで歩く。
「ね」
「ん」
「花言葉って知ってる?」
「あじさいの? 知ってるけど、うん」
「そうなんだ、へぇ〜」
知ってたって別にいいだろ。
「じゃあ、敢えて私に似合うのは白のあじさいだって、言ってくれたんだ?」
「……うっさいな」
「さっき調べた時に読んだんだよね」
ニヤける君を置いて、走り出す。
「あっこら! 逃げないでよー!」
無理だって。
白いあじさいの花言葉は。
『一途な愛情』
《好き嫌い》
人の好き嫌いというものは、とても曖昧で感覚的なものだと聞いたことがある。
例えば、嫌いな人がいたとして。
いや、回りくどい言い方をしたか、誰にだって嫌いな人くらいいるだろう。
苦手な人だと認識しているやも知れないが。
さて、嫌いな人をなぜ嫌いなのかと人は問われると何かしらの理由をあげる。
考え方が合わないだとか、趣味が理解できないだとか、ウザイだとか、キモイだとか。
最初は何かと明確な理由をあげて、最後には簡単な感情のみが言葉として残されていく。
そんな風に答える人は、多いのではないだろうか。
だって、そうだろう。
なぜ嫌いなのか。
考えが合わないから。
他にはあるのか。
理解できないから。
他にはあるのか。
うるさいから。
他にはあるのか——。
ずっと問答を続けているうちに、嫌いなところをあげる方が面倒になって答えは簡素なものになっていく。
それはたしかに面倒だからという理由だろう。
果たして、それだけなのだろうか。
いや、そうではないのだろう。
なぜって人は、嫌いだから嫌いなのだ。
理由も何もない。
理屈より先に感情が、嫌いだと認定する。
その後に、嫌いだから、何となく、だとかで返事をしたくないから人は理由を付けていくのだという。
後付でなお理由を求めたがるのは、人に知性があって、しかも集団に認められたいという欲求を秘めているからではないかと時々思う。
知性があるからこそ、理由を求める。
元は言葉など存在せず、意味など必要もなかった筈の日々を送っていたであろう生物が。
発展を続け、進化を遂げたが故に縛られるようになった概念や意識によるものか。
また、集団に認められたいが為に理由をつくるのは、自己を否定されることを恐れているからだ。
認められたい、嫌いだと感じる自分の方が正しいと思ってもらいたい。
そうした欲求が編み出したものではないかと、そう考えてしまうのだ。
真実など、なくてそれでいいのだ。
あったところで、人が認識を拒めばそれば真実でなく偽りとして記憶される。
それ故に、人は好き嫌いなどの感情をありのまま受け入れる者と、歪ませて手にする者とで別れるのだろうか。
好きと嫌いは、どちらにも理由などない。
ただ、最初にそう感じたからこそ人は、後に対象を知ることで大好きになったり大嫌いになったりと感情に変化が訪れるのではないだろうか。
好き嫌い。
相反する言葉こそ、表裏一体とも思える。
後に理由が必要になる感情。
後に理由が生まれる感情。
それが、好き嫌い、には含まれているように思えるのである。
ここまで読んでくれた諸君は理解できただろう。
適当を言いながら思考を続けていると、自分なりの答えには辿り着ける。
まぁ、つまりは、そういうことである。
《無垢》《梅雨》
澄み切った瞳だ。
そう思った。
こんなにも世界は穢れているというのに、そのどれにも染まっていないと感じたのだ。
お世辞にも澄んでいるとは言い難い、灰色の雨の振る中で。
美しいだとか、綺麗だとか、陳腐な表現しか思い浮かばない。
然れど、ただ当たり前のことでもなく特別な瞳だと思えるのだ。
現象に反して、言葉はありきたりなもの。
それは往々にしてあることであろうが、この瞬間においては外れるべきことだった。
同時に生まれた衝動——情動と呼ぶべきものも、この瞬間においては在らざるべきだ。
『穢したい。汚したい。堕としたい』
無垢なものを見て思ったのは、それが初めてだった。
今までは苦手なものだと避けてきた。だと言うのに、近付き、穢そうとしている。
それは不可思議なことだったが、矛盾している訳ではない。
穢してしまうのもまた、一種の、自分のモノにして苦手な存在でなくしてしまおうという、独占欲やら支配欲やらに起因すると考えられるからだ。
だからと言って、この衝動を肯定する訳にも行かないだろう。
嗚呼、どうか。雨よ、情動を洗い流してくれ。
などと不毛なことを願うのも、可笑しい話しだ。哂えてきてしまう。
いや、声は漏れていたのか。
ふと、見遣れば、澄み切った瞳の瞳孔が開いている。
それでもなお、その瞳の清らかさは減りもしない。寧ろ、黒を多く伴ってその色彩を隠す様は月食の如く。
その魅力に拍車が掛かっただけである。
衝動にも。
『殺したい』
灰色の雨が世界を包む。
世界が始まりを知って、終わりを知って以来、降り止まぬ雨が。
平たく言えば、梅雨の開け切らぬ世界で。
少し別に捉えるならば、灰色の雨に閉ざされた世界だろうか、に。
無垢な瞳は、ただ、そこに在った。
それを護りたかった筈の青年も、また。
けれどその願いは潰える。
何故か?
青年が、望んだからだ。
『殺してくれ』
無垢な瞳は、何も知らず。
青年に導かれるがまま引鉄を引いた。
そうして口から、胸から血を吐いた青年は地に伏した。
どうして願ったのかさえも、吐かぬまま。
『 』
澄んだ瞳は青年を捉える。
最期の言葉に、笑って頷いた。
そうして世界に光が差し込んだ。
世界が灰に濡れる時。
ヒトは生を受けられず、世界に死は訪れない。
世界がヒトを殺す時。
世界は灰を淘汰して、青に包まれヒトは生ゆ。
ヒトが世界を殺す時。
世界はヒトを殺せず、ヒトに死は訪れない。
そんな世界の起こりで結ばれた約束を知る者は、青年と無垢な瞳の持ち主だけだ。
それを思い出したからだろう。
心做しか、青年も晴れやかな表情をしていた。
ありがとう、これで二人きりじゃないね
寂しかったのは、世界かヒトか。
《また明日》
それは何気ない言葉のようで。 さよなら。
僕には祈りの言葉であった。 謝るからさ。
明日を信じられない世界。 己が為に告ぐ。
反して明日を願う言葉。 互いを殺すよう。
届かぬ想いも知って。 されど毒を喰らう。
されど祈り続ける。 言葉は届くばかりで。
互いの為でなく。 反して諦めに近い言葉。
己が為に祈る。 明日の消失に怯える世界。
神様どうか。 私には別れの言葉であった。
また明日。 それは何気ない言葉のようで。