《無垢》《梅雨》
澄み切った瞳だ。
そう思った。
こんなにも世界は穢れているというのに、そのどれにも染まっていないと感じたのだ。
お世辞にも澄んでいるとは言い難い、灰色の雨の振る中で。
美しいだとか、綺麗だとか、陳腐な表現しか思い浮かばない。
然れど、ただ当たり前のことでもなく特別な瞳だと思えるのだ。
現象に反して、言葉はありきたりなもの。
それは往々にしてあることであろうが、この瞬間においては外れるべきことだった。
同時に生まれた衝動——情動と呼ぶべきものも、この瞬間においては在らざるべきだ。
『穢したい。汚したい。堕としたい』
無垢なものを見て思ったのは、それが初めてだった。
今までは苦手なものだと避けてきた。だと言うのに、近付き、穢そうとしている。
それは不可思議なことだったが、矛盾している訳ではない。
穢してしまうのもまた、一種の、自分のモノにして苦手な存在でなくしてしまおうという、独占欲やら支配欲やらに起因すると考えられるからだ。
だからと言って、この衝動を肯定する訳にも行かないだろう。
嗚呼、どうか。雨よ、情動を洗い流してくれ。
などと不毛なことを願うのも、可笑しい話しだ。哂えてきてしまう。
いや、声は漏れていたのか。
ふと、見遣れば、澄み切った瞳の瞳孔が開いている。
それでもなお、その瞳の清らかさは減りもしない。寧ろ、黒を多く伴ってその色彩を隠す様は月食の如く。
その魅力に拍車が掛かっただけである。
衝動にも。
『殺したい』
灰色の雨が世界を包む。
世界が始まりを知って、終わりを知って以来、降り止まぬ雨が。
平たく言えば、梅雨の開け切らぬ世界で。
少し別に捉えるならば、灰色の雨に閉ざされた世界だろうか、に。
無垢な瞳は、ただ、そこに在った。
それを護りたかった筈の青年も、また。
けれどその願いは潰える。
何故か?
青年が、望んだからだ。
『殺してくれ』
無垢な瞳は、何も知らず。
青年に導かれるがまま引鉄を引いた。
そうして口から、胸から血を吐いた青年は地に伏した。
どうして願ったのかさえも、吐かぬまま。
『 』
澄んだ瞳は青年を捉える。
最期の言葉に、笑って頷いた。
そうして世界に光が差し込んだ。
世界が灰に濡れる時。
ヒトは生を受けられず、世界に死は訪れない。
世界がヒトを殺す時。
世界は灰を淘汰して、青に包まれヒトは生ゆ。
ヒトが世界を殺す時。
世界はヒトを殺せず、ヒトに死は訪れない。
そんな世界の起こりで結ばれた約束を知る者は、青年と無垢な瞳の持ち主だけだ。
それを思い出したからだろう。
心做しか、青年も晴れやかな表情をしていた。
ありがとう、これで二人きりじゃないね
寂しかったのは、世界かヒトか。
6/2/2024, 2:46:49 AM