望月

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《好き嫌い》

 人の好き嫌いというものは、とても曖昧で感覚的なものだと聞いたことがある。
 例えば、嫌いな人がいたとして。
 いや、回りくどい言い方をしたか、誰にだって嫌いな人くらいいるだろう。
 苦手な人だと認識しているやも知れないが。
 さて、嫌いな人をなぜ嫌いなのかと人は問われると何かしらの理由をあげる。
 考え方が合わないだとか、趣味が理解できないだとか、ウザイだとか、キモイだとか。
 最初は何かと明確な理由をあげて、最後には簡単な感情のみが言葉として残されていく。
 そんな風に答える人は、多いのではないだろうか。
 だって、そうだろう。
 なぜ嫌いなのか。
 考えが合わないから。
 他にはあるのか。
 理解できないから。
 他にはあるのか。
 うるさいから。
 他にはあるのか——。
 ずっと問答を続けているうちに、嫌いなところをあげる方が面倒になって答えは簡素なものになっていく。
 それはたしかに面倒だからという理由だろう。
 果たして、それだけなのだろうか。
 いや、そうではないのだろう。
 なぜって人は、嫌いだから嫌いなのだ。
 理由も何もない。
 理屈より先に感情が、嫌いだと認定する。
 その後に、嫌いだから、何となく、だとかで返事をしたくないから人は理由を付けていくのだという。
 後付でなお理由を求めたがるのは、人に知性があって、しかも集団に認められたいという欲求を秘めているからではないかと時々思う。
 知性があるからこそ、理由を求める。
 元は言葉など存在せず、意味など必要もなかった筈の日々を送っていたであろう生物が。
 発展を続け、進化を遂げたが故に縛られるようになった概念や意識によるものか。
 また、集団に認められたいが為に理由をつくるのは、自己を否定されることを恐れているからだ。
 認められたい、嫌いだと感じる自分の方が正しいと思ってもらいたい。
 そうした欲求が編み出したものではないかと、そう考えてしまうのだ。
 真実など、なくてそれでいいのだ。
 あったところで、人が認識を拒めばそれば真実でなく偽りとして記憶される。
 それ故に、人は好き嫌いなどの感情をありのまま受け入れる者と、歪ませて手にする者とで別れるのだろうか。
 好きと嫌いは、どちらにも理由などない。
 ただ、最初にそう感じたからこそ人は、後に対象を知ることで大好きになったり大嫌いになったりと感情に変化が訪れるのではないだろうか。
 好き嫌い。
 相反する言葉こそ、表裏一体とも思える。
 後に理由が必要になる感情。
 後に理由が生まれる感情。
 それが、好き嫌い、には含まれているように思えるのである。
 
 ここまで読んでくれた諸君は理解できただろう。
 適当を言いながら思考を続けていると、自分なりの答えには辿り着ける。
 まぁ、つまりは、そういうことである。

6/13/2024, 9:58:53 AM