《枯葉》&《同情》
かつて、枯葉、と呼ばれた探偵がいた。
*
街の外れにある、殆ど廃屋と言っていいだろう和風な屋敷の前に月彦はいた。
「ここであってるのか……?」
噂に聞いた住所はここだが、まるで人の気配がしない。
恐る恐る戸を叩こうと手を伸ばしたとき、肩を叩かれた。
月彦は弾かれたように振り返る。
「やぁ、僕になにか用ですかい」
そこには、乾いた瞳でこちらを見つめる男がいた。
着物を着崩し無造作に伸ばされた髪には潤いがない。だが、不自然に不潔さは感じられない男だった。
口振りからするに、この屋敷の主だろうか。
「貴方が『枯葉』さんですか?」
「渾名にさん付けたァ可笑しなことをするもんで」
そう言って男は——枯葉は笑って答えた。
取り敢えず中で茶でも飲みながら、と月彦が案内されたのは屋敷の応接間だった。
外見に反し中は綺麗で、庭の荒れようには目を覆うほどだったことが寧ろ異質だ。
彼の他には誰もいないのか、枯葉は月彦に座って待つように言うと部屋を出て、茶を片手に戻って来た。
「で、なにか用かな」
「いきなり押しかけてすみません。枯葉さんのお力を貸して頂けませんか」
「もうさん付けでいいけどねェ、まずは名乗るのが通りってもんだろう、月彦君や」
「……!! どうして、私の名前を」
当然、枯葉とは初対面の筈である。
「なァに細かいことは置いておいて、本題に入ろうじゃないか」
「あ、ええっと、はい。……枯葉さんにお願いがありまして、」
「君の主たる、西園寺優華についてだね。どんな依頼か話してご覧?」
どこまでもわかっているのだろうか、枯葉という男は。
驚愕に目を見開く月彦に、彼は簡単な種明かしをする。
「西園寺家の所有する呉服屋の服なんざ、あの家の使用人でもなけりゃおいそれと着れんよ。護衛もないし、所作から見ても立場のある人って訳でもなさそうだからなァ」
ならば何故名前までわかったのか、と聞きたい気持ちもあるが、それどころではない。
「実は、十日後のお嬢様の誕生日にパーティが開かれるのですが、そこでお嬢様の命を狙われると……今朝手紙が来たんです」
「わざわざ犯行予告を送ったのか、悠長なことだね。抵抗してほしいのか、或いは」
ふぅーむ、と口に手を当てて考え込む枯葉に、月彦は続ける。
「誰が送ったのかはわからず、手紙の文字も活版印刷されたものでしたから……。そこで、犯人を見つけ付け出してくれませんか」
「報酬を弾んでくれるのなら……と言いたいところだが、特別に通常料金で受けますよ」
「本当ですか!! ありがとうございます!」
月彦は漸く不安な表情を和らげて、立ち上がってお辞儀をした。
使用人という職業柄からか、全くもって綺麗なものである。
「ほら顔上げて、今から西園寺邸に案内してもらえますかねェ」
「も、もちろんです!」
慌てて顔を上げた月彦は、枯葉を連れて西園寺邸へ戻った。
西園寺邸、使用人部屋にて。
「言われた通り使用人を集めましたが……なにをするんですか?」
「まァ見てなさいな、月彦君、焦らずに」
使用人達も月彦が知らないことは知らないのだ、不思議そうな顔をしている。
「お集まり頂いたのは他でもない、優華お嬢様についてですよ」
枯葉のそれを聞いても、反応は薄かった。
つまり、使用人達には犯行予告は知らされていないのだろう。
今更だが秘された事実の発覚に焦ったのか月彦に腕を引かれ、枯葉は面倒そうに払う。
「優華お嬢様の——お話を聞かせて貰えますかねェ? 例えば、最近あった可愛らしい話とか、自慢出来るところとか」
月彦の予想していた言葉とは違ったようで、横で安堵の息を吐く。
そんな彼を置いて枯葉は使用人達の話に耳を傾けた。
意気揚々と主の素晴らしさについて語り始めたのは、ご婦人達だ。
「お嬢様は大変可愛らしいお方ですよ、ええ」
「この間も、お酒を一口飲まれただけでお顔が真っ赤になって……」
「庭に綺麗に薔薇が咲いていたからと、そこで昼食を取られたりしていましたし」
「新しいお洋服を旦那様が贈られた時は、それを来て外出されて!」
「あたくし達使用人にも良くして下さいますからね」
最早、言い出したら止まらない。
枯葉の「ヘェ」「ほォ」「はァ」という適当な相打ちも、聞こえていないのだろうか。
結局代わる代わる話を聞いて、昼過ぎから日が暮れるまで聞き尽くす羽目になった。
枯葉に付き合って聞き続けた月彦の真面目さには、尊敬まである。
「……すみません、話長くって」
「いや、十分。一回で済んだのは僥倖だからなァ。お疲れ様、月彦君」
「本当にすみません、お疲れ様です」
このままではどこまでも謝り続ける気がした枯葉は、早々に西園寺邸を後にした。
*
三日空いて、また枯葉は西園寺邸を訪れた。
月彦の案内で邸内を進むと、声を掛けられる。
話を聞きに来たのかとご婦人達に囲まれたが、今日はそれが理由ではなかった。
「お嬢様の誕生日が近いと聞いて。当日にお邪魔する資格はありませんがねェ、知ってしまったもんはなにか贈り物をと思いまして」
婚約者候補の五家の者のみが集められるパーティというから、枯葉はそこにいることが出来ない。
手にした花束は、優華の好みに合わせたのか薔薇が主役の花束だった。
「まぁ、そうだったのですね!」
「お嬢様もきっと、喜ばれることでしょう」
嬉しそうに語る月彦に連れられて、枯葉は優華の部屋の前まで来た。
護衛対象の本人に一度合わせてほしい、そう頼んだのである。
「お嬢様、客人をお連れしました」
「ええ、いいわよ。入って頂戴」
先に打診していたのが良かったのか、すんなりと通してくれた。
枯葉が一言断って入ると、中は白を基調とした空間だった。
矢張り薔薇が好きなのだろう、所々に赤が彩っている。壁紙やカーテンには、白で薔薇の模様が描かれていてお洒落なものだ。
部屋の奥には大きな天蓋付きのベッドが置かれており、その裕福さが伺える。
中央に置かれたテーブルの右側にあるソファに彼女はいた。
「お初にお目に掛かります、西園寺優華様」
「……初めまして。どうぞ掛けて下さい」
勧められるまま枯葉は優華の対面に座り、月彦の淹れてくれた紅茶を飲んだ。
「月彦君って紅茶淹れるの慣れてるね」
「……ええまぁ、それが役割ですから」
「そうかい、不思議なもんだねェ」
その言葉が不思議なのだろう、月彦は首を傾げる。
「普通紅茶は客人に出すときもそうだが、主に注ぐ回数の方が多いだろう? 見たところご婦人方が得意そうでねェ、月彦君がお嬢様に紅茶を淹れてるのが不思議で」
「……お嬢様が、練習として私に紅茶を淹れさせて下さるんです。あの人達は……今更練習するまでもなく、慣れてますから」
主人の目を気にしながらそう答えた月彦は、はは、と少し笑った。
そこで漸く枯葉は優華の方を向く。
「さて、お嬢様。贈り物として薔薇の花束を持って来たのですが、お気に召されますかな」
「……薔薇は好きです。ありがたく飾らせてもらいますわ。けれど、わたしを無視して先に月彦と話すというのは如何なものでしょうね」
「そりゃ失敬。……お嬢様とお呼びしても?」
「好きに呼んでもらって構いませんわ」
本気で怒っている訳ではないらしく、寧ろ枯葉のその反応を楽しんでいるようだ。
「ではそんなお嬢様に伺いたいことがありまして、パーティについてなんですが」
「丁度一週間後に開かれる、わたしの誕生日パーティですね。犯行予告については知っています。わたしを殺してお父様の代で西園寺を潰すつもりでしょうね」
西園寺は、血筋を重んじる。
それだけの歴史があったのだ、今更養子をとって当主の座に据えることはないだろう。
「ええ、同じ見立てですんで間違いないかと。護衛は付けられるんです?」
「はい。けれど客人を招いている以上、主役であるわたしが不安を見せるつもりはないです。護衛はお父様が選ぶと聞いているから、心配いらないでしょうし」
「一人ですか?」
「そうです。多くては不安を煽るだけですから」
「そりゃァ確かにそうですねェ」
何が楽しいのか、枯葉はそう笑うと席を立った。
「もう行かれるのですか?」
思わず、といった風に月彦が呼び止めるが、枯葉はそのまま優華の部屋を出ていく。
「これで十分です、お嬢様。ご協力感謝致します」
最後にお辞儀をすると、枯葉は去ってしまった。
月彦は唖然とするが、彼らしいのかも知れない。
「あの人、あれでも頼れるんですよ! ……多分」
「月彦、それは頼れる人とは呼べないわ」
残された主従には、不信感しか抱けなかった。
*
そしてあれやこれやと準備をする内に、その日はやって来た。
緊張する月彦を嘲笑うかのように、パーティは滞りなく進んでいく。
給仕をしながら月彦は展開される様を見ていた。
優華の父であり現当主たる、源蔵の挨拶から始まり各方への挨拶。
定型文と化したそれらが終わって漸く、主役の登場である。
スーツ姿の護衛を一人連れて、優華が現れたのだ。
「……美しい」
誰がそう言ったのか、わざわざ辿る必要もない。皆同じ感想を抱いていたからだ。
身に纏うは真紅のドレスで、所々にあしらわれたフリルが大人びたそれに幼さを残す。結い上げられた艶のある黒髪を彩るのは、庭で育てられた薔薇の生花だ。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
全身に薔薇を纏った彼女に贈る言葉として相応しいかはわからないが、月彦はその言葉以上に今の優華を示す言葉など知らなかった。
一瞬にして場の空気を自分のものにした優華は、護衛の手からグラスを受け取る。
「お集まり頂きました皆様、本日はどうぞよろしくお願い致しますわ」
受け取ったグラスを一口含んで、嚥下した途端——優華は倒れた。
護衛がそれを危なげなく支える。ご丁寧に、グラスまでもワインを一滴も零すことなく、だ。
「なっ……お嬢様!?」
慌てて彼女に駆け寄ろうとした月彦を制するように、護衛の声が響く。
「皆さん絶対に動きませんように!!」
この状況で何を言っているのか、と月彦が表情を曇らせると、
「これから愉しい時間の始まりなんでねェ、邪魔してくれるなよ、月彦君」
その言葉遣いにを、知っていた。
「枯葉さんだったんですか!? どうして護衛に、というかどうやって!!」
どう見ても今の彼は、別人にしか見えない。
濡れ羽色の髪を短く切って、着物からスーツに変えただけではこれほどまでの変化はない。
先程声を出したとて気が付かなかったのだ、声も仕草も、まるで違っていた。
「探偵が変装の一つも出来ないようじゃァ、半人前も半人前よ」
カラカラと笑う枯葉に、月彦は詰め寄る。
「どういうつもりですか、枯葉さん!! これでは、貴方に頼んだ意味がない!」
「まァ、そう怒らずに」
月彦を適当に宥めたかと思うと、枯葉は大広間内に目を走らせた。
「皆さんこの場で少々お待ちを。お嬢様を寝かしてくるんでねェ。あぁ、生きてますからご心配なく」
未だ何一つ飲み込めていない彼らを前にして、護衛の男は——枯葉はそう言った。
いつもの容姿に戻った枯葉は、大広間で待つ彼らの元へ戻って来た。
そのまま壁側に置かれた椅子に座る。
「枯葉さん、どうしてお嬢様が倒れてしまったのか説明して下さい!」
混乱の中、月彦がそう切り出すと枯葉は笑った。
手首に巻いていたらしい紅い紐を解き、無造作に髪を束ねる。
乾いた瞳に、光が映り、輝く。
「——さァさァ、皆様お揃いで。今日の幕引きと行きましょうや」
*
「この事件の始まりは、これより二ヶ月前のこと。旦那様が娘さんの誕生日に、婚約者を決めると宣言したことですよ」
会場は静まり返り、使用人を含め二十人程度の呼吸が唯一の音だ。
そこを枯葉の声が響く。
「そっから皆さん僕のところに来ましてねェ、やれ口説き落とすにはどうすればいいか、取り入るにはどうすればいいかと、色々相談やら依頼やらされました」
「……それは、別に悪いことではないだろう!?」
「好みを調べてくれと言っただけだ!」
「ええ、そうですよ。三家はね」
初めの三人は過激ではなかったと、彼は言う。
「一際おっかないのは岡崎さんと倉下さんでさァ、お二人さんともお嬢様を殺しちまって外から喰っちまう依頼をしてきましたんで」
「なんだと!?」
言葉の示すまま両家を見ると、顔が蒼醒めている。
「だから岡崎さんにゃァ、毒の入った瓶を渡しまして。倉下さんにゃァ、お嬢様の護衛を僕に替えてもらったんですわ」
「で、デタラメを言うな!!」
「そうだ、証拠もないのに我々を犯人と言うなど!」
不敬だなんだと叫ぶ彼らに、枯葉は、
「いんやばっちり、わざわざ書面にした甲斐が有るってもんで。皆さんの分持って来てますよ」
ほら、と見せた五枚の紙には、依頼内容と署名がされていた。
「それだけじゃない、あんたらから金を貰って西園寺に手紙を届けたって奴も見付けました。今頃ご婦人方の話し相手にでもなってるでしょうねェ」
二日前に探し出し、使用人だと説明してご婦人達の前に置いて来たのだ。若い女だったから、恐らく良い話し相手だろう。
「という訳で先に、岡崎さんと倉下さんを捕らえることをお勧めしますよ旦那ァ」
枯葉の言葉に従って、当主の命により西園寺の私兵が彼らを捕らえる。
「あー、連れて行くのはお待ちを。こっからも面白いんでさァ」
枯葉は、ふと、彼らに背を向けたかと思うと扉を見据えた。
「そこにいるんでしょう、お嬢様」
「……よくわかったわね。『枯葉さん』?」
枯葉以外が驚く中、優華は扉を開けて部屋へ入り父親の隣に立つ。
「渾名にさん付けたァ、三人目ともなると諦めが着くもんだ。そう警戒しなさんな、お嬢様。なにもしませんよ、今の僕は」
それで警戒心の解ける人はいるのか、優華は枯葉に懐疑的な視線を向けた。
「何も聞かされないで、驚いたことでしょうなァ。僕が安全を保障してたんでご心配なく」
「私に何を飲ませたんですか!」
「そうだ、今毒の入った瓶を渡したって……」
まさかの月彦の表情まで懐疑的である。
余程信頼がないのか、と枯葉は呆れる。
「毒とは言っても、強めの酒を渡したんです。酒も多けりゃ毒なんで、嘘は言っちゃいねェ。まぁ、お嬢様はどうも一口で酔っちまいましたがね」
話を聞いて酒に弱いのは知っていたが、あそこまでとは枯葉も思わなかった。
「とまァこんなものが真相です。これ以上新事実ってのはないんで客人も帰られて結構ですよ」
「……依頼内容をばらさないと言っただろう! こよ裏切り者め!」
「最初から犯人も犯行も知ってやしたがねェ、探偵として個人情報を明かすのは頂けない。だから口でばらしはしなかったんでさァ」
探偵としての信念はあると、彼は言う。
「ただ偶然、最短時間で答えに辿り着いただけで。こりゃあ僕の所為でない」
一人納得したようにそう言うと、枯葉は護衛に連れて行かれる彼らを見送った。
金に目が眩んだ結果だ、自業自得である。
それでも、少し。
月彦は、彼らに同情してしまう部分もあった。
「……殺すなんて考えずに、お嬢様を愛せば、愛されれば良かったのに」
「そりゃァ無理だろうな、お坊ちゃんには」
独り言を聞かれていたことを恥じる月彦だが、枯葉の言葉に疑問を持つ。
「利用価値の重みが今まで人を判断する基準だったんだ、仕方ないさ。それにあのお嬢様は風変わりときた、落とすのも容易じゃねェ」
それに先んじて枯葉は言う。
「そうやって月彦君が同情できるのは、なにかを持っていない状況を知ってるからさ。失ったことではなく、得る前のことを」
価値観の違いだと、枯葉は笑う。
「ただ、どんな相手であっても、『思う』ことは大切だからなァ……その心掛けは嫌いじゃない」
そうか、と月彦は思う。
「思うことは、悪いとこではない、か……」
*
「色々と思うところはありましたが、お嬢様を助けて下さってありがとうございました!」
「私からも、不本意ですが礼を言います。ありがとうございました」
正直で、お辞儀の綺麗な主従に枯葉は笑みを零す。
「そうだ、月彦君や。もう依頼料は貰っといたよ」
「え? まだなにも」
「わたしの方から渡しておきました。主に黙って個人的に探偵を雇おうとするからよ、月彦」
「え、いや、あれは旦那様の計らいでっ」
「お父様はそんなに演技派ではないの。お母様の方が上手よ。だから枯葉さんの登場をすんなり受け入れられていなかったでしょう」
「あっ……」
「漸く気付いたのね? いいこと、わたしのことを考えてくれたのは嬉しかったわ。でも、貴方のお金がなくなるでしょ!」
「そんなことない……筈ですよ、多分、きっと」
「だからその言葉のどこを信じろって言うのよ!」
どこまでも鈍感な、彼らの掛け合いはまだまだ続きそうだ。
邪魔者は退散するか、と枯葉が背を向けると、
「あっ、枯葉さん! 聞きたいことが!」
「なんだい、月彦君や。これで最後だよ?」
振り返って聞く。
「あの、どうして渾名が、枯葉、なんですか?」
今聞くのか、と枯葉は思ったが、最後なのだから答えてやろうと思う。
「枯葉ってのは、木にぶら下がってりゃ邪魔になる。地面に落ちても邪魔になる」
月彦らに背を向けた。
「けど、踏んだ音が気に入る奴もいる。柔らかい地面に助かる奴もいる」
一歩歩き出した。
「ある奴にとっては邪魔者で、ある奴にとっては必要なのさ。それが僕の渾名の意味よ」
彼はそのまま歩みを止めず去った。
*
かつて、枯葉、と呼ばれた探偵がいた。
《お気に入り》&《今日にさよなら》
おかあさんのくれる、
「おやすみなさい」
その言葉が、大すきだ。
寝る前の部屋のうす暗さに、少しの怖さを感じていたころ。
お母さんの言葉が、わたしをあたたかく包んでくれるような気がして。
眠るとき、いつも不安になる。
もしこのまま目覚めなかったらどうしよう。
そんな、ありもしない不安だ。
わたしの体はずっと元気で、急に体調が悪くなることもない。風邪だってそんなに引かないくらいだ。
それに、なにか悪いことをしてもいない。
だからこのまま眠ってしまっても、もう二度と目が覚めない、なんてことはない。
だけど、少し怖いから。
「おやすみなさい」
その言葉を聞くだけで、不安なんてどこかに行ってしまう。
わたしの隣にはお母さんがいる、そう感じながら眠れるから。
そしてそれは、わたしにとってすごく幸せなことだから。
だからわたしにとって一番のお気に入りの言葉は。
「おやすみなさい」
誰もいない空間に向かって呟くことの、なんと虚しいことか。
小さい頃は気にもならなかったし、お母さんがその存在を口にすることもなかった。
私には父親の存在が、産まれた時からなかったのだ。
私を産んだときお母さんは、十九歳だったという。そしてお父さんは同じ大学で出会った同い年の人だった。
つまり父親が責任を放棄したのか、と思われがちだがそういう訳ではない。
お父さんは、交通事故で命を落とした。
そして彼の遺した大切な存在としてお母さんは私を産み、両親の手を借りながら私を育てた。
母子家庭だ、そんなにお金に余裕はない。
お母さんは留年したものの何とか大学を卒業して、二十四歳の頃から働き始めた。
それから、私の隣にお母さんが眠っていることが減ったように思う。
忙しいのだ、仕方がない。
こんな意味のないことを考えてしまうのは、夜、寝る前だからか。
どうにもならないことを考えるより睡眠時間を確保して、学校で寝ないようにしないと。
目を瞑ると、闇が全てを覆う。
そしてそれが、不安を煽るのだ。
私の記憶の片隅に、いつか誰かが言っていた言葉がある。
眠る度に、私達は死んでいるのだと。
次目が覚める保証もないのに、一時的とはいえ意識を失うということは。
目が覚めることは、蘇っていることだと。
「おやすみなさい」
一人でもそれを口に出して、私は目を瞑る。
今日にさよならを、告げる言葉を。
十七年間変わらぬ、お気に入りの言葉を。
《誰よりも》
昼下がりの午後。
誰かと一緒に勉強するには、最適と言えよう。
「ねぇ、優」
「なに、結衣姉」
不意に名前を呼ばれた優は顔を上げた。
部屋の中央に据えられたテーブルにパソコンを広げ、優の対面に座っているのは、長い黒髪をかきあげた女子大生である。
「なんでみんな初めてがほしいんだろうね。不思議に思わない? 私は思う」
「何を言い出すかと思えば」
結衣姉は黙っていれば美女なので、友人からは残念美人と呼ばれている。
こうして脈絡もなく話を振るのも、いつものことだった。本人の頭の中では導入があっての会話なのだろうが、それは長年傍に居る優でも時折読めない。
「……ええっと、初めてって、ファーストキスとかそういう話……であってる?」
最近読んだ本が恋愛モノで、あまり面白く感じなかったと結衣姉が言っていた。
無言でタイピングをしているので、それを肯定と捉えて話を進める。
「……俺は、初めてがほしいってのはわかるかな。本当に初めてのことって、記憶に強く残るから。それに、今まで体験したことないことが身に起こるんでしょ? そしたら新しい感覚とか感情が出てくるだろうし……その原因が自分になるなら嬉しいんじゃないかな。だから、独占欲とかも関係してそう」
「ふぅーん……」
優なりに頭を捻っての回答だったが、結衣姉には響かなかったみたいだ。
「じゃあ結衣姉は、違う考えなの?」
「そうね。寧ろ逆の考えだわ」
ふふん、と自慢げに言う結衣姉の手は止まっていた。
「レポート進めながらなら、理由聞くけど」
「やるわよ、提出期限明日だし。……私はね、初めてよりも最後がほしいの。終わりの方がほしい」
「不思議なこと言う……」
「本当にそうかしら? 優、考えてご覧なさいな。例えば、恋人のファーストキスが幼稚園の頃だとしたらどう思う?」
「……微笑ましい?」
「本当に? 相手の下心なんてわからないのにそう思えるの、変でしょう。寧ろ幼稚園児だからって、大人が見てないと思ってうっかり子供達の前でキスくらいするかもしれないでしょ! どちらかが愛情表現だと思ってれば、立派にアウトよ」
「うっ……それは、ごもっともだけど」
結衣姉の言うことは極端な話だが、それでも、間違っているとも思えない。
「だから私は最後がほしいのよ。最初の記憶を薄れさせるくらい私で塗り替えてやるし、それに……初めてって混乱もするでしょう? 二回目三回目は慣れてきて……でもその慣れが、最後だったら意味が変わってくると思うの」
「わかんなくなってきた。えーっと」
「初めてが小さい頃なら、記憶は薄れるでしょ。でも最後だったら記憶が薄れるのが一番遅いし、それはそれで思い入れがあるでしょ。そういうことよ」
「はぁ……そうなんだ」
特別、が結衣姉にとっては最後なのか。
「っていうか、俺に振らないでよ、そういう話」
「ここには私とあんたしか居ないでしょうが」
「でもなんか、こう……姉代わりの結衣ちゃんと話す内容じゃないなって」
そう、結衣姉は実の姉ではなく、同じマンションのお隣さんの大学生だ。とはいえ二歳しか変わらないので、姉弟に近い。
「『結衣ちゃん』とか久しぶりに呼ばれたわね。どんな話も弟みたいな優になら良いでしょ」
そう適当に言うと、結衣姉はレポートに集中したいのか無言になった。
それに倣って、優も古文に集中することにした。
結衣姉の家は少し複雑だが、当人でなければよくある話だと言えてしまうものだ。
約四年前に父親の浮気が発覚し、離婚。半年も浮気していたそうだ。
そして結衣姉はそれを機に一人暮らしを決意した。
浮気をされたのだ、元夫の面影のある娘を快くは思えなかった結衣姉の母親は、同じマンション内であれば一部屋借りて良いことということにしたらしい。
結果、優のお隣さんになり、ご近所さんから少し近付いた。
両親が共働きの優も、よく遊び相手になってくれた結衣姉がお隣さんなのは嬉しい。
休日は、できるだけ一緒に課題をする。
それが日課になっていた優は、今日もまた結衣姉の家——マンションの隣の部屋に行く。
「あっ、優! ごめん、もうそんな時間だっけ」
時間をはっきりと決めていた訳ではないが、大体昼過ぎに行くようにしていた。
「……結衣姉、どっか出かけるの?」
急いで出てきた服装が、いつもとは違っているのを見て優は聞く。
「そう。お父さんと話してこようと思って」
「話……? なんでわざわざ」
「私、夢を追いたいの。それにはお父さんの許可が必要なのよ。必ず両親からのサインがいるみたいで」
離婚しているとはいえ、親が死んでいないならサインを貰う必要があると言う。
それにやや引っかかるものの、優は、
「わかった。気を付けて、行ってらっしゃい」
笑顔で送ることにした。
結衣姉にとっても、父親の存在はあまりいい存在とは思えないだろう。それでも会いに行くと言うから、せめて応援したいと思ったのだ。
結衣姉もまた、優に笑顔を返す。
靴を履き荷物を持って扉を閉めた結衣姉は、鍵を優に渡した。
「え……なんで俺に」
「優、ごめんね、許して」
混乱している内に耳元で囁かれたと思うと、その唇で優のそれに口付けた。
呆気に取られた優を置いて、結衣姉は去って行く。
「…………あれ、俺の、ファーストキスなんだけど」
優の呟きは、きっと届かなかったろう。
それから四日経っても、音沙汰なしだった。
かなり優としては衝撃を受けたし、会えないことも寂しかった。
「あれ絶対俺じゃなかったら犯罪なんだけど!」
こうして悶えても、
「へぇ? 優にならいいんだ?」
だとか、そんな言葉は返ってこない。
鬱々とした気分で課題に向き合う気力もなく、机につっ伏する——と、インターホンが鳴った。
まだ土曜の昼前で両親は帰って来ない筈だ。
「はい……はい?」
誰か、と思って開けるとそこには、結衣姉の母親がいた。
「なんで……あの、娘さんの家は隣ですよ……?」
「あなたが、優君ね」
「……はい、そうですけど」
「……娘が死んだの。四日前の夜に」
それからの言葉を優は、覚えているが、全くどれも理解できなかった。
結衣姉が父親に会いに行ったこと。
父親は実は浮気相手も既婚者で、振られたばかりだったこと。
父親が結衣姉に母親の面影を感じ、その苛立ちを結衣姉にぶつけたこと。
そして、結衣姉が滅多刺しにして殺されたことを。
きっと、苦しく、悲しく死んだのだろう。
よくわからないが、優は今お葬式に来ていた。
棺桶の中には、父親に何度も刺されて失血死した結衣姉が眠っているのだろうか。
「俺にとっての初めては結衣姉だ。……結衣姉にとっての終わりって、最後のキスって俺との、かな」
こんな時に考える内容ではない。
優はそんな己を自嘲し、声を漏らす。
「……誰よりも、今。俺は最低だ」
※作者的には、作品内で登場人物の性別を指定していないつもりで書きました。宜しければお好きな性別を二人に当て嵌めて読んでみて下さい( *´꒳`*)
《バレンタイン》
騎士団の規律として、団内での恋愛は断固として禁止されている。
男女問わず能力のみで登用されているが故の規律らしいが、理由は単純、恋人を優先して貴族を守らない馬鹿が過去にいたせいだ。
皆そう嘲るが、私は少し不満だった。
愛する人の為に、貴族よりも優先して身を呈して庇うことは悪なのか。
それがずっと胸の奥で燻っていた。
それなのに、バレンタインデーとかいう日がやってくると、男女関係なく皆チョコを渡したりしている。それも、本命だってあるのだろう。
つまり、表向きはそうされているだけ、ということなのかも知れない。
それならそれでいいが、
「……あの、これ……受け取って貰えませんか!」
「……ありがとう。美味しそうだね、嬉しいよ」
にっこりと甘い笑顔を浮かべる先輩を見るのは、今日で何十回目だろうか。
色素の薄い髪に同色の瞳、端正な顔立ち。高身長に、出自は侯爵家の四姉兄の末っ子と来た。騎士団の制服も全員同じ制服な筈なのに、どう見ても先輩の着ている方がお洒落に見え、スタイルの良さも感じるのだ。おまけにそれらを鼻に掛けずに、誰でも影日向なく接する。
これでモテない筈がない。
その手の話にてんで興味がない私でも、時折はっとさせられてしまう人物だった。
「……待たせてごめんね。これ、一旦部屋に置いてくるから……もう少しだけ待っててくれないかな?」
「私のことはお気になさらず。任務の時間まで余裕はありますから」
騎士団では先輩と後輩の二人でバディを組んで、共に任務を行う。
本来であれば大人気な先輩とバディを組めることを歓喜し、周囲はそれに嫉妬するのかも知れない。
だが、生憎と私は先輩に尊敬こそすれ恋慕はしていないし、特殊な環境もあって嫉妬に晒されているということもない。
つまり、色々と事情はあれど、一番バディとなっても問題ないと私は認識されているのだ。私を緩衝材か何かと勘違いしてないか。
「争いが起こらないように私と組むって……本当に、人間なのか怪しい……」
人々を惑わす悪魔か何かかと、私は溜息を吐いた。
足音が聞こえ振り返ると先輩がいた。
「お待たせ! 結構ギリギリになっちゃってごめんね。悪いけど急ごうか」
「いえ、大丈夫です。行きましょう」
私は頷きを返し、任務場所へと向かった。
任務内容は見回りだ。
昼を少し過ぎたこの時間からは、余り犯罪は起きない。それでも警戒は必要だった。
結局四時間ほど街を回って、けれど町は平和そのものだった。
「……何事もなく終わりましたね」
「君の日頃の行いがいいからかな、何も起きてなくて良かったよね」
さらっと人を上げる発言をする。
そういうのが最早癖になっているのだろうか、先輩の対人スキルを感じつつ騎士団の駐屯場へと帰る。
「そういえば先輩、街でも貰ってましたね、バレンタインだって」
「皆さん優しいからね。ありがたい限りだよ、全く」
流石に、パン屋の娘さんからパンを一袋貰ったときは驚いた。
思い出話をしながら、時間が経つのが早いと思った。
「そうだ、ねぇ、君」
「……なんですか、先輩」
「君からもバレンタインのお菓子くれたっていいんだよ? 受け取るよ?」
「そういうのは他の人にやって下さいよ」
何を言い出すんだこの人。
「えぇー、バディなんだからこう、日頃の感謝です! ……とかないの」
「ないですよ」
そう答えてから、たしかに何か送るべきかもしれないと気付く。
「……先輩、私からバレンタイン渡しますよ」
「お、何くれるの?」
「夕方って鍛錬後は任務入ってないですよね。もし時間があったら私と街に行きませんか」
「…………いいよ、行こうか」
暫し考えた後、先輩は頷いてくれた。
そうと決まれば準備をしなくては。
「……大胆だなぁ」
先輩の呟きの意味は、わからなかった。
そして迎えた三時間後。
騎士団の制服ではなく私服に着替えた私は、正門の前で先輩を待っていた。
ちなみに、騎士団が任務外で外出をする際は外出届を提出する必要がある。一応、目的地だけは把握しておかないと有事の時に招集できないからだ。
それも提出済で、準備万端である。
「……今日だけで何回も君を待たせちゃってるよね。珍しい体験をしてる気がするよ、遅くなってごめんね」
「気にしていませんし、まだ約束の時間より二十分も早いですから。気にせず行きましょう」
遅くなった原因というのも、団員同士の言い合いを仲裁していたからだと知っている。
というかそんなことよりも。
私服姿の先輩を見るのは何気に初めてだった私は、そのかっこよさに改めて思う。
こんなの見たら誰でも惚れるんだろうな。
「……私は馬鹿か」
小声でも口にしてしまうほど、思考回路がおかしい。きっと、いつもと服装が違うから、混乱しているんだろう。
そう結論付けた私は、
「あっ、すみません。こっちです」
真逆の道を歩みかけた先輩を引き止めた。
目的地知らないんだから、私より前に行かないで貰えますかね。
なんて、流石に気まず過ぎて言えない。
日がすっかり暮れる頃、私は目的の店の前で立ち止まる。
「……ここは?」
「見ての通りです」
先輩が面白そうな表情をしているのを気にせず、私は店員さんを呼んで席を指定する。
「どうして……バレンタインなのにわざわざディナーに招待してくれたの?」
話しかけながら椅子を引いてくれる先輩ってなんなの、とスマートさに驚きながら私は大人しく座る。
「おかしなことしましたか? だって先輩……甘い物、苦手でしょう」
「……一言も言ってないけどね、そんなこと。というか、寧ろ皆から沢山受け取ってるし、見てたでしょ」
「そうですけど……受け取るときに毎回、困った表情してましたし」
まあ、無駄に本人の顔がいいせいでそれも笑みの一部として成り立っていたが。
私が普通に返すと、先輩は不思議そうな、おかしそうな笑みを浮かべていた。
「よく見てるねぇ、君ってば。騎士として悪人と接するときに使える技術だね」
「普通に図星って言って下さいよ。甘い物はさておき、苦手な食材とかありますか?」
「そういうのは特にないよ。何でも好き」
先輩にぜひ食べて欲しいメニューがあるのだ、私はそれを注文した。
「ところで、なんで急にバレンタインくれようとしたの?」
「先輩にはお世話になっていますから。バディを組んでそろそろ一年経ちますし」
「そう言えばそうだったね。最初に比べたら、随分警戒心も解けたみたいで嬉しいよ」
「久しぶりに会った親戚みたいな反応しないで下さいよ。……あの頃は仕方がないでしょう」
過去は過去、今は今、だ。
なんて話をしていると、運ばれてくる。
「お待ちしました。こちらがご注文の品になります」
店主のこだわりスパゲティ。
それが、私が先輩に食べてほしいメニューだ。
熱々の内に食べて欲しくて、会話を中断してスパゲティを勧める。
「いただきます」
「……いただきます」
「……ん! 初めて食べたけど、何だか……あたたかい味がするね。なんて言うか……」
「よく知らないですけど、家族の作る味、って気がしますよね」
「そうそう、安心する……みたいな!」
ふわりと笑う先輩の表情は、甘い笑顔でもなく、初めて見るものだった。
それを見れただけでも、十分だったと言えよう。口に出さないけど。
「……最後の最後にいい贈り物貰っちゃったな」
「何言ってるんですか。最後じゃないですよ」
しみじみと言う先輩をぶった切って、私は先輩に箱を差し出す。
私は先輩に思い出をバレンタインに送るほど、ロマンチストではないのだ。
「へ?」
「これ、バレンタインです。よろしければどうぞ」
「お菓子……な訳ないか、この流れで」
ありがとう、と言いながら先輩は箱を開ける。
中から出てきたのは、ネックレスだ。
小さいけれどたしかに揺れる宝石は、偽物だろうが、蒼く美しい。
「……綺麗だね、これ」
ぽつりと呟く先輩に、
「そうでしょう? 先輩はいつも、私から見てこんな騎士なんですよ」
見るものを魅了し、けれど純に輝く色。
私にとっての先輩とは、そんな存在なのだ。
「……ありがとう。凄く嬉しい」
ふにゃりと笑うのは、本当に珍しい。
けれど。
「ホワイトデーの日。お返し、期待していいよ。ちゃんと待っててね」
にやりと笑った先輩の方が、もっとずっと珍しかった。
《待ってて》
それがどれほど苦しい時間であるか、彼も体験したことのあった。
遊びの約束をしていて、そのとき事情があって相手が約束していた場所に現れなかったときだったか。
一秒が長く、一息が重く感じるのだ。
微睡みながら移ろう時間ほどのろまなものはなく、時間は遅遅として進まない。
刻む秒針を錯覚するほど静寂は耳に痛く、心を闇へと誘い堕とす。
——来ないのではないか。
そう思ったら最後、期待と不安の入り交じった瞳を揺れ動かしながら呼吸をする他なくなるのだ。
一秒が勿体ぶって推し進められ、一息が胸を内側から抉るような鈍さを感じるのだ。
あれは終わりのない停滞した世界だった。
結局彼がその感情を持て余したまま、日が暮れ切ってしまった。
だから彼は早く行かなければならない、という強い思いがある。
足を止めるなどあってはならない、と。
全てを終わらせる為に、目的を果たす為に。
ひたすらに、自らを止めることを良しとしなかった彼は辿り着く。
「お前が……アンタの所為でッ……!!」
悲しみに満ちたその瞳は、今も相棒の姿を映しているのだろうか。
それとも。
『絶対に、まだ来んじゃねぇぞ。……相棒』
憎しみに満ちたその瞳は、今や仇の姿しか映していないのだろう。
「あ、あ……ああああああああああぁっッ!!」
渾身の一振が、開戦の一刀が彼を紅く染める。幸か不幸か初手でイイところに当たったのだろう、血液が激しく飛散した。
それをまるで気にしていない彼は、片腕を抑え口を動かす男に再び刀を振りかざす。
何かろくでもないことを喚いているのだろう、彼の表情は煩わしさで満ちていた。
「黙れ……黙れよッ! お前は!!」
上から重力に倣っての一撃は、剣術においてどんな攻撃よりも重く強い。
それをもろに足に喰らった男は、また何事か口を開いては閉じた。
「殺す価値もないさ! でもな、アンタを殺す理由はあるんだよッ……!」
未だの心の片隅に残った良心との呵責からか、苦しみながら彼は腕を振るう。
亡くした存在を想ってか、ふと、悲しげに目を伏せる。
「……待っててくれ。すぐに、終わらせるから」
誰に言ったのか天を仰いで呟くが、いや、きっとわかっている。
『待っててなんかやんねぇよ。なんで未だ俺が待ってると思ってんだよ。置いて行くに決まってんだろ』
また彼は振り上げて、今度は肩口に刃を落とした。
既に血を流しすぎたのか、男の反応は鈍かった。
彼はそれを見て、暗い光を湛えた瞳で悔しそうに、それでいて憎々しげに男を睨んだ。
「この程度で死ねると思うなよ、下郎」
骨に当たったのか、動きの悪い剣閃が男の腹を突いた。刃は紅で曇っていて、何も映さない。
それと似て、彼の瞳ももう何も映さない。
『なあ、もういいだろ。わかったから。……十分だ、二度と俺の傍に来るな。俺は逃げるから、一生追い掛けて来いよ。俺に触れたら、負けを認めてやルよ』
鳥肌の立つような冷笑を浮かべた彼は、刃で男の腹を真横に裂いた。
「……ふっ……は、はは……」
何が可笑しいのか、彼は嗤う。
『……頼む。これ以上はやめロ。俺は君にこっちに来て欲しくなんてネぇんだ。だから、これ以上俺が赦される理由を作るんじゃねぇよ』
それはそれは、愉しそうに哂うのだ。
「あっははは……ふはっ……あはは……」
狂ったように、刃を振り上げては下ろして。
『……なあ、もウ疲れたのか? もう、死にたイのカ? 早く消エて、いなクなりたいノカ?』
彼は血溜まりに座り込んだ。
『ワカッた。俺はもう、待ッてヤンネぇカラな』
つと、涙を零す。
「終わったよ……全部、全部っ……!」
『オつカレ様。サぁ、待チクタビれタンダよな』
罪を犯したばかりだというのに、晴れやかな笑みを浮かべ彼は目を覆う。
「早く向かえに来てよ——相棒」
『コレデ君ト一生一緒ニイラレルナ』
——怨霊というのは、生者を死に誘うモノらしい。
——霊は時間が経てば怨霊に堕ちやすくなるという。