望月

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《誰よりも》

 昼下がりの午後。
 誰かと一緒に勉強するには、最適と言えよう。
「ねぇ、優」
「なに、結衣姉」
 不意に名前を呼ばれた優は顔を上げた。
 部屋の中央に据えられたテーブルにパソコンを広げ、優の対面に座っているのは、長い黒髪をかきあげた女子大生である。
「なんでみんな初めてがほしいんだろうね。不思議に思わない? 私は思う」
「何を言い出すかと思えば」
 結衣姉は黙っていれば美女なので、友人からは残念美人と呼ばれている。
 こうして脈絡もなく話を振るのも、いつものことだった。本人の頭の中では導入があっての会話なのだろうが、それは長年傍に居る優でも時折読めない。
「……ええっと、初めてって、ファーストキスとかそういう話……であってる?」
 最近読んだ本が恋愛モノで、あまり面白く感じなかったと結衣姉が言っていた。
 無言でタイピングをしているので、それを肯定と捉えて話を進める。
「……俺は、初めてがほしいってのはわかるかな。本当に初めてのことって、記憶に強く残るから。それに、今まで体験したことないことが身に起こるんでしょ? そしたら新しい感覚とか感情が出てくるだろうし……その原因が自分になるなら嬉しいんじゃないかな。だから、独占欲とかも関係してそう」
「ふぅーん……」
 優なりに頭を捻っての回答だったが、結衣姉には響かなかったみたいだ。
「じゃあ結衣姉は、違う考えなの?」
「そうね。寧ろ逆の考えだわ」
 ふふん、と自慢げに言う結衣姉の手は止まっていた。
「レポート進めながらなら、理由聞くけど」
「やるわよ、提出期限明日だし。……私はね、初めてよりも最後がほしいの。終わりの方がほしい」
「不思議なこと言う……」
「本当にそうかしら? 優、考えてご覧なさいな。例えば、恋人のファーストキスが幼稚園の頃だとしたらどう思う?」
「……微笑ましい?」
「本当に? 相手の下心なんてわからないのにそう思えるの、変でしょう。寧ろ幼稚園児だからって、大人が見てないと思ってうっかり子供達の前でキスくらいするかもしれないでしょ! どちらかが愛情表現だと思ってれば、立派にアウトよ」
「うっ……それは、ごもっともだけど」
 結衣姉の言うことは極端な話だが、それでも、間違っているとも思えない。
「だから私は最後がほしいのよ。最初の記憶を薄れさせるくらい私で塗り替えてやるし、それに……初めてって混乱もするでしょう? 二回目三回目は慣れてきて……でもその慣れが、最後だったら意味が変わってくると思うの」
「わかんなくなってきた。えーっと」
「初めてが小さい頃なら、記憶は薄れるでしょ。でも最後だったら記憶が薄れるのが一番遅いし、それはそれで思い入れがあるでしょ。そういうことよ」
「はぁ……そうなんだ」
 特別、が結衣姉にとっては最後なのか。
「っていうか、俺に振らないでよ、そういう話」
「ここには私とあんたしか居ないでしょうが」
「でもなんか、こう……姉代わりの結衣ちゃんと話す内容じゃないなって」
 そう、結衣姉は実の姉ではなく、同じマンションのお隣さんの大学生だ。とはいえ二歳しか変わらないので、姉弟に近い。
「『結衣ちゃん』とか久しぶりに呼ばれたわね。どんな話も弟みたいな優になら良いでしょ」
 そう適当に言うと、結衣姉はレポートに集中したいのか無言になった。
 それに倣って、優も古文に集中することにした。

 結衣姉の家は少し複雑だが、当人でなければよくある話だと言えてしまうものだ。
 約四年前に父親の浮気が発覚し、離婚。半年も浮気していたそうだ。
 そして結衣姉はそれを機に一人暮らしを決意した。
 浮気をされたのだ、元夫の面影のある娘を快くは思えなかった結衣姉の母親は、同じマンション内であれば一部屋借りて良いことということにしたらしい。
 結果、優のお隣さんになり、ご近所さんから少し近付いた。
 両親が共働きの優も、よく遊び相手になってくれた結衣姉がお隣さんなのは嬉しい。

 休日は、できるだけ一緒に課題をする。
 それが日課になっていた優は、今日もまた結衣姉の家——マンションの隣の部屋に行く。
「あっ、優! ごめん、もうそんな時間だっけ」
 時間をはっきりと決めていた訳ではないが、大体昼過ぎに行くようにしていた。
「……結衣姉、どっか出かけるの?」
 急いで出てきた服装が、いつもとは違っているのを見て優は聞く。
「そう。お父さんと話してこようと思って」
「話……? なんでわざわざ」
「私、夢を追いたいの。それにはお父さんの許可が必要なのよ。必ず両親からのサインがいるみたいで」
 離婚しているとはいえ、親が死んでいないならサインを貰う必要があると言う。
 それにやや引っかかるものの、優は、
「わかった。気を付けて、行ってらっしゃい」
 笑顔で送ることにした。
 結衣姉にとっても、父親の存在はあまりいい存在とは思えないだろう。それでも会いに行くと言うから、せめて応援したいと思ったのだ。
 結衣姉もまた、優に笑顔を返す。
 靴を履き荷物を持って扉を閉めた結衣姉は、鍵を優に渡した。
「え……なんで俺に」
「優、ごめんね、許して」
 混乱している内に耳元で囁かれたと思うと、その唇で優のそれに口付けた。
 呆気に取られた優を置いて、結衣姉は去って行く。
「…………あれ、俺の、ファーストキスなんだけど」
 優の呟きは、きっと届かなかったろう。

 それから四日経っても、音沙汰なしだった。
 かなり優としては衝撃を受けたし、会えないことも寂しかった。
「あれ絶対俺じゃなかったら犯罪なんだけど!」
 こうして悶えても、
「へぇ? 優にならいいんだ?」
 だとか、そんな言葉は返ってこない。
 鬱々とした気分で課題に向き合う気力もなく、机につっ伏する——と、インターホンが鳴った。
 まだ土曜の昼前で両親は帰って来ない筈だ。
「はい……はい?」
 誰か、と思って開けるとそこには、結衣姉の母親がいた。
「なんで……あの、娘さんの家は隣ですよ……?」
「あなたが、優君ね」
「……はい、そうですけど」
「……娘が死んだの。四日前の夜に」
 それからの言葉を優は、覚えているが、全くどれも理解できなかった。

 結衣姉が父親に会いに行ったこと。
 父親は実は浮気相手も既婚者で、振られたばかりだったこと。
 父親が結衣姉に母親の面影を感じ、その苛立ちを結衣姉にぶつけたこと。
 そして、結衣姉が滅多刺しにして殺されたことを。

 きっと、苦しく、悲しく死んだのだろう。

 よくわからないが、優は今お葬式に来ていた。
 棺桶の中には、父親に何度も刺されて失血死した結衣姉が眠っているのだろうか。
「俺にとっての初めては結衣姉だ。……結衣姉にとっての終わりって、最後のキスって俺との、かな」
 こんな時に考える内容ではない。
 優はそんな己を自嘲し、声を漏らす。
「……誰よりも、今。俺は最低だ」

2/17/2024, 3:09:28 PM