《時計の針》
兄はとても優れた人だ。
双子なのに、デビッドとは大きく違うのだった。
「セドリック殿下がいらしたわ!」
「ごきげんよう!」
兄が通り掛かると皆笑顔で声を掛ける。
「デビッド殿下……ご、ごきげんよう」
だが、弟であり背格好に大きな差がない筈のデビッドには、皆気まずそうに挨拶をするのだ。
それも仕方の無いことだった。
セドリックとデビッドが二人きりで紅茶を楽しんでいたとき、途端にセドリックが苦しみ出した。
後にわかったことだが、毒を盛られていたのだ。
紅茶自体に毒が盛られていたならば兄弟のどちらもが倒れていておかしくない。
なのに、セドリックだけが毒を飲んだ。
状況から鑑みて、デビッドが毒を持ったのではないかと噂されたのだ。
当時十二歳だった彼は犯行する理由もなく、また、被害者であったセドリックも弟を庇った。
しかし、庇い続けているのが悪手だったのか噂は広がり続けた。
事態を収める為にデビッドは幼いながらにも思考し、王位継承権の破棄を申し出た。
だが、毒を盛ったと一人の使用人が告白したことと、国王が王位継承権の破棄を認めなかったことにより噂は収束へと向かった。
それが今から二年前だ、まだデビッドを快く思わない者も少なからずいるだろう。
それでも兄は変わらず接したし、弟も兄と過ごすことを選んだ。
それでまた、元通りの筈だったのだ。
「……はッ……っ……なんで……?」
だというのに、またセドリックに毒が盛られた。
しかもその毒を口にしたのはセドリックではなく、一歳の妹だった。
たった一口、口にしただけだ。
紅茶が美味しいからと、兄が優しさのつもりで世話係が見ていない内に一口スプーンで飲ませた。
その瞬間、妹の口からは笑い声でなく、泣き声ですらなく、血が零れた。
「……嘘だよ、なんで、こんな……!!」
「ごめん、ごめんなさい……俺のせいだ、俺が……」
顔面蒼白になった兄を見たのは、初めてだった。
後は大人が処理をした。
血塗れの妹に、兄弟は言葉を失い、泣いた。
けれどもデビッドはやはり、疑われたのだった。
二年前に引き続きまたそこにいた、それが大きな理由だったらしい。
「あんなにもセドリック殿下は庇って下さったのに」
誰も彼もが、セドリックを可哀想だと言う。
「この恥知らずが、妹まで殺めるなんて」
誰も彼もが、妹の死を悼みデビッドを罵倒する。
「ああなんて恐ろしく醜い子なんでしょう」
誰も彼もが、デビッドの声を聞かずに蔑む。
「「「「「「また犯人はデビッド殿下か」」」」」」
誰も彼もが、セドリックの庇う声も、デビッドの弁明の声も聞かず、犯人として頭ごなしに決めつける。
そしてその主張は国王の耳にも入り、デビッドは謁見の間に呼ばれた。
「……用件はわかっているな、デビッドよ」
「はい。ですのでまず、王位継承権の破棄を申し上げます。その上でなんなりと、罰を」
弱冠十四にして、デビッドは醒めた瞳をしていた。
全てわかっているのだろう、父としてではなく国王としての命を下される。
「……東の塔にて暫く謹慎せよ。世が再び命ずるまでは、塔を出ることを禁ず。また、世話係以外の者が塔に近付くことを禁ず」
「……はっ! ……陛下、恐れながら申し上げたいことがございます」
「なんだ」
「……僕の所為で迷惑掛けてごめんなさい、父さん。妹を殺してしまったかも知れない僕を、生かしてくれてありがとうございます」
それを告げると、デビッドは謁見の間を後にした。父の無言は、もう用が済んだいう証だ。
本来なら王族であっても王族殺しは重罪で、良くて極刑といったところだろう。
謹慎程度、父としての手心がなければ実現しない。
民の混乱を防ぐ為に一時的な処置として、謹慎を言い渡したのだろう。
デビッドは父に感謝をしながら、塔へと向かう。
「……デーヴ! なんでお前が謹慎なんて……!」
「兄さん! 心配しないで、また戻ってくるから」
「でも、だからって王位継承権まで奪うなんて!」
「いいんだ。だってどうせ僕に権利があったって、王になるのはセディ兄さんだ。だって僕より強くて、賢くて、かっこいいんだから」
なおも縋りつこうとした兄を使用人に渡し、デビッドは東の塔へと入った。
壁に沿うように、ずっと上まで続く螺旋階段。その階段をお構いなしに壁に埋め込まれた本棚には、所狭しと本が並べられていた。
一階が居住可能で、ベッドやテーブルなんかは扉を開いてすぐ正面にあった。
「……本は好きなだけ読んでいいらしいから、また今度兄さんに面白い話、教えてあげるね」
「絶対会いに来るから! またな、デビッド!」
涙を押し殺した笑顔で、使用人に連れられてセドリックは去った。
デビッドの中の時計の針は、ここで止まってしまったのだ。
それからというもの、セドリックは毎晩護衛の目を盗んで塔の前にやって来て、扉越しに会話をした。
重い扉は鍵が掛かっていて、開けられなかったのだ。顔を合わせられないのは残念だが仕方ない。
「兄さん、今日も来てくれてありがとう。おやすみなさい、また今度」
「ああ、おやすみ、デーヴ。またな」
そんな会話をして、少し経つとセドリックが訪れる日に間隔が空くようになった。
抜け出していることがばれて、護衛が増えたのだと言う。
二日に一回となり、五日に一回となり、二十日に一回となり——やがてぱったりと現れなくなった。
それから、どれだけの時間が経ったのだろう。
日は沢山昇ったし沢山暮れたように思う。
生活は全て塔の中で完結しているものの、与えられている食事も服も、セドリックが働き掛けたのか兄とと比べても遜色ないものが与えられている。
清潔さも保たれているし、特に苦はない生活だった。それ故に、時の流れが淀み止まっているような日々だったのだ。
扉の開く音がして、また食事かとデビッドは階段を下りる。
「……デーヴ、迎えに来たよ」
しかし、そこにいたのは、セドリックだった。
すっかり背も伸びて声変わりもしていたけれど、セドリックだと、兄だとわかった。
第一デビッドを愛称で呼ぶのも、わかり易い。
「……セドリック……陛下」
その指に嵌められた押印を認めて、デビッドは苦く笑った。
それが、時計の針を動かすきっかけだと知って。
「昔みたいに、呼んでくれないのか。俺のワガママだけど『セディ兄さん』って、呼んでくれよ、デーヴ」
悲しげに目を伏せる兄に、デビッドは、
「……セディ兄さん」
「……ああ」
「来てくれてありがとう。……父さんは?」
「十日前、暗殺されたよ……それで、祭事も終わって漸く来れたんだ。遅くなってごめんな、デーヴ」
「ううん、来てくれただけで嬉しいよ。ありがとう」
父の死を悼み、デビッドは目を伏せた。
そんな弟を兄は抱き締める。
「……さあ、帰ろう。歩けるか?」
「……歩けるけど、力が上手くはいらな、」
デビッドが言い終わらないうちにセドリックは弟を抱き上げる。
「安心して、腰抜けちゃった?」
「……わかってることは言わなくていいの!」
にやりと笑ったセドリックの表情は、デビッドにとって初めて見るものだ。
「デーヴ、もう強がらなくていい。俺がいるから、もう安心していいぞ」
唯一無二の、デビッドの味方となってくれる兄。
その兄の腕の中にいるだけで、どれほどの安堵感が広がることだろうか。
自然と感情を抑えてしまっていたのか、その言葉で止まらなくなってしまった。
大好きな兄の首に抱き着き、デビッドは泣く。
「……た、助けてくれてっ……ありがとう、セディ兄さん……! 僕、兄さんが大好きだよ……ずっと、離れないでねっ……!!」
「……ああ、俺も大好きだ。愛してるよ、デーヴ。安心して。ずっと、ずーっと——離さないから」
セドリックは仄かに薄暗い、愉悦に染まった笑みを浮かべていたが弟は気が付かなかった。
時計の針は、まだ、動かない。きっとこれからも。
《溢れる気持ち》
うるさい。黙れ。いなくなれ。何も知らないくせに。消えろ。頼むから死んでくれ。死ね。もう嫌だ。めんどうくさい。死にたいけど、死にたいわけじゃないのに。逃げたい。生きたくない。無理。黙れよ。死ぬか。壊れる。死ね死ね死ね。終わった。マジでくそが。ふざけるな。やめろ。バカ。うるさいうるさい。ねぇわかってよ。誰か助けて。疲れた。やっぱ無理だよ。できやしない。死んでしまえ。失せろ。壊れる。好きなことしてんじゃなくて、嫌いなことから逃げてんだ。嫌いだ。死んでくれ、頼むから。カス。
溢れそうな気持ちは全部、物語の中に隠す。
例えばそれは主人公の気持ちに。
例えばそれは登場人物の言葉に。
全てはリアルを求めるため、そう思えば。
気持ちが溢れたってしまえるんだ。
《Kiss》
“キス、口付け、接吻、口吸、ベーゼ……と、様々な言い方のある。
それらを思い浮かべるとき、人は何か特別なこととして捉えているのではないか。
例えばそれは恋人同士。
好きな人とすること、といった認識をしている者は多いだろう、愛情表現の一つとして用いられている。
例えばそれは友達同士。
お巫山戯や、本心を隠しての葛藤の中かも知れない。それでも、信頼という前提があるからこそ成り立つ。
そんな風に、多くの人が、キスは特別だという認識をしているだろう。”
「開口一番すごい話になってる……やっぱ読むのやめようかなぁ……」
友人から借りた小説を閉じ、独り言ちる。
結構面白いから読んでみて、と言われたが最初からキスの話題が来るとは想定外だ。この手の話は縁がなく、苦手だった。
「まあでも、アイツに悪いし……や、帰りに読むのはやめるか」
自転車通学だが、疲れたときは一旦公園に停めて本を読む。
それが、修斗の日課だった。
しかし、ここで読み止めるのはだめか、と再び本を開く。プロローグというやつが、あと数文だけ残っているのだ。
“これは、神々にとっても同じことである。
特別な、契りを交わす術の一つとして捉えられているのだ。
それがこの行動の指す意味であった。”
導入部分を読み終えたところで、修斗は本を閉じた。
別にこの先が気にならないでもない。
それでも、一度本を読むのを止めたからには、これ以上読み進めるのは良くない、そんな風に思ったのだ。
だが、このままではいつもより三十分も早く家に着いてしまう。通りで小説を三日もあれば読んでしまう訳だ、帰りにしか読んでいないのに。
家が嫌いという訳ではないが、弟妹が多く騒がしい。修斗にとってはこの下校時間が唯一、静かに一人でいられる時間なのだ。
だから、その時間を削ってしまうのは惜しい。
友人から借りた小説を鞄にしまって、自転車に跨る。
「遠回りして帰れば、多少は時間潰れるかな。……なんか面白い場所とかあったらいいんだけどなぁ」
この町は狭い。それはもう、隣の隣の隣の家の人の娘の飼い犬が子供を産んだ、ということが一夜にして町中に広まったくらいだ。遠くて、余りにも狭い話題なのに。
呆れるほど狭くて、見知った顔ばかりで、コンビニが二軒あることが唯一誇れる町。
修斗は時折、辟易してしまうのだ。
誰も彼も知っていて、酷くつまらない。
本当の意味で一人になんてなれやしなくて、今、この瞬間ですら通りすがりの酒井さんに「修斗君、おかえり」と挨拶される。
箱庭で飼われている気分になって、息が詰まるのだった。
こうして遠回りをして帰ったとて、目新しいものはなにもない。
瓦屋根の佐藤さんの家があって、杉下のばあちゃんの菓子屋があって——
「……あれ? こんなとこに神社なんてあったっけ……?」
修斗の記憶では、雑木林が広がっていた筈の場所に鳥居が建っていた。いや、鳥居の周りは雑木林だから、正しくは雑木林の中に鳥居が建っていたのだ。
とにかく、修斗の知らない場所があった。
「まあ、時間潰しにも良さそうだし……神社をちょっと見るだけなら……」
今の修斗には好奇心、それだけだ。
鳥居の傍に自転車を停め、お辞儀をしてから鳥居を潜る。
修斗にとって全く想像していなかったのは、石段の多さだった。
毎日往復一時間掛けて自転車で通学しているし、体力もある方だ。それでも、息が荒くなる多さだった。途中で休めば良かったけど、気になってそれどころではなかった。
「……はぁー……ふぅ。よし、お邪魔しまーす」
息を整えてからお辞儀をして二つ目の鳥居を潜り、修斗は境内を見回した。
思いの外広く、大きな神社だ。
広い参道。右手には手水舎。そして正面には御社殿が構えてあった。その手前両脇には狛犬もある。
しっかりとした神社にしては、宮司も巫女もいない。そもそもそういう人達の為の社務所もない。お守りや札、おみくじや絵馬もない神社だ。
どこかちぐはぐな印象を受ける神社だった。
「けど普通に御社殿なんだよなぁ……」
修斗は昔祖母に聞いたことがあったが、確か小さな町の社とは、他の大きな神社の管理下にあるという。だから、小さな神社には境内社や末社、と呼ばれるものがあるのだ。
だが、目の前のこれはどう見ても大きい。
賽銭箱もあるし、やはり御社殿だろう。
「大きな神様が祀られてる……にしては、知らなかったんだよなぁ」
有名どころでもないし、ますますわからない。
取り敢えず参拝でもするか、と手水舎に向かう。正しい手順も、祖母に教わった。
柄杓を右手で持って水を汲み、左手、右手、口、左手、取っ手の順に清める。
ポケットに手を突っ込むと、いつかの五円玉が出てきた。
賽銭箱の前に立ち、滑らせる。
二礼二拍手一礼。目を閉じて祈る。
初めまして、神様。お邪魔してます。金いっぱい欲しいです。かわいい女の子に会えますように。この町にせめてカラオケができますように。バスとか電車とかが通りますように。……なにか面白い、初めてのことに出会えますように。
最後の一文を強調して、修斗は目を開く。
さて戻るか、と踵を返してふと思う。
「……うーん、欲張りだったかな」
『——多い多い。それにここはそういう場所では無い。感謝を捧げるだけの社だぞ』
「なんだそれ、ケチ臭くない?」
『なにを言うか! 充分普段から恩恵を与えているというのに……』
「たとえば?」
『……そろそろ帰っていいか、阿呆』
「大人ってすぐそうやって逃げるよなー……え? ……は? 誰?」
なぜ今漸く気付いたのか、修斗は目を白黒させて周囲を見る。当然誰もいない。
今自分は誰と会話をしていたのか、修斗は背筋が凍った。
『……そう身を固くさせる必要はないぞ、修斗。後ろを見てみよ』
「さっきも見たって…………見た、のに」
声に従って振り返ると、そこには男がいた。
金の瞳は澄んで、整った顔立ちも相まって神々しい。長い白髪を揺らして、白い着物に身を包んでいる。なにより目を引くのは、犬の耳としっぽが付いていることだ。
脳が追い付かず、修斗は混乱した頭で、どこかおかしいと思いつつ理解する。
「……えっと、神様?」
『まあそうだな。私はここに祀られている神だ。……して、修斗。なぜこんなものを持っていた』
こんなものと言って神様が手にしていたのは、修斗の鞄にあった筈の小説だ。
あっさりと神だ、と言われたところでどうすればいいのかわからない。
一先ず修斗は噛み砕いていくことにした。
「……それは俺っじゃなくてわたくし? の友人から借りたもので、して……なんで、なぜ神様が俺、わたくしの小説を持ってん……いらっしゃるんでしょう……か?」
修斗の隠し切れない変な敬語がおかしかったのだろう、神様は笑いを堪える。
『……っ……よいよい、畏まるな。好きに話せ、修斗。私はそれで怒らん』
「はぁ……なら神様、遠慮なく。その小説、俺の友達から借りたんだ、面白いぞって」
敬語は諦めて、修斗は先程の問いに返す。
『ふぅん……トモダチか』
「別にそいつに変なとこはないけどな? その本も、たしか家の本棚にあったから読んだみたいだし。それを、こんなものって……」
なにが気になるのか、神様はそれを手にしたまま御社殿の石段に座る。
手で示されたので、修斗もその隣に並んだ。
『……これは、神にとって大切な書物だ。特に土地神たる私にとっては』
「土地神だったの!? ……へぇ、そうなのか」
『そうだぞ、修斗。だから私に望むのではなく感謝しろ』
「うっ……それは知らなかったから……すんません。いつもありがとうございます」
『よいよい』
神様は機嫌が良さそうだ。
というかなぜ修斗の名前を知っているのか気になるが、まあ、神だからか。
「それで、その本なにが書いてあるんだ?」
『大事な所は読んだだろう、ここだ』
神様が示したのは冒頭の部分。
“これは、神々にとっても同じことである。
特別な、契りを交わす術の一つとして捉えられているのだ。
それがこの行動の指す意味であった。”
「これがなにか?」
『これが重要なのだ。そのままの意味だぞ』
そのままの意味。
つまり、神と契り——契約をする為の方法としてキスをすることがある、ということか。
『正解だ、修斗。正しく捉えられておる』
「口に出さなくてもわかるのか……流石神様」
『褒めてくれるな。……契りを交わすとな、人は契った相手たる神の力を扱うことができるのだ。それがあれば、神の神格にもよるが多くのことができるようになる』
「それ、神様が契約する利点ないじゃん」
『そうでもない。神の力とは、神格とは信仰による影響が大きい。つまり、人を介して力を示すことで信仰を集めやすくするのだ。……神が直接この世に干渉することは認められておらず、世の理に反する。それ故に、人を介することでしか力を顕現させられぬのだ』
互いに利益はあるのか。
納得したところで、この丁寧に説明してくれている神様に今更ながらの疑問を投げる。
「契りは多分わかった。で、俺なんで今神様と話してるんでしょう?」
『……そうだな。修斗や、この社がいつからあったかわかるか?』
「……さぁ」
『そうであろう。だがな、ずっとあったのだよ』
ずっとあった。修斗には雑木林しか見えていなかったここに。
『驚くのも無理はない。この社に来るのは老人ばかりだったから、恐らく私の存在が消えかかっていたのだろう』
「……神様って、忘れられたら消えるのか」
『そうだ。だから、今修斗の目にこの社見えるようになったのは奇跡的なことだな』
どうせすぐに消えるが、と口にした神様は手にした小説を修斗に寄越す。
「……神様、」
『さて修斗や、そろそろ日も暮れるぞ。弟妹の待つ家に帰るが良い。今から帰ればいつもと変わらぬ時間に着くだろう』
別れの挨拶を切り出したかと思うと、神様は立ち上がって歩き出す。
修斗は慌ててその背を追う。
「なあ、神様! 名前聞いてなかった、教えてくれ」
『……書物を読む前でそれか、空恐ろしい奴め。教えてやるが、次ここに来るまでに小説を読み切っていたら私の名を呼んでも良い』
神にここまで言わせる奴なんぞ、修斗以外にはいないだろう。
神様は呆れて、去り際に名を告げる。
『⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎』
人が神の名を呼ぶことの、罪深さは小説の中で語られているだろう。
それを知った上で再びこの社に現れたときは、神も容赦はしないつもりだった。
「うん? わかった、絶対読むよ!」
なにも知らない修斗は神様に誓って、神社を後にした。
一週間後————
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎!」
それらの音が神社に響いて、そっとキスは交わされた。
真名を呼んでキスをする、それが契りだ。
《勿忘草》
拝啓 大切な君へ
こんな形で、急にいなくなって、ごめんなさい。
本当は先に言っておこうかと思ってたんだけど、それだったら決心が揺らぐ気がしたんだ。
だから今、行こうと思って。
でも手紙くらいは書いとかないと、心配するかなって思ったから書いてます。
初めて会ったとき、こんなにも綺麗な存在がいるのかってびっくりしました。
話し掛けてみても反応されなかったから、死んでるのかと思った。
でも違くて、お腹すいて動けないだけだったから、俺と同じだと思ったんだ。
なのに、俺を助けてくれた。
俺がお腹いっぱいになるようにって、君の血を全部くれようとした。
その優しさが、嬉しかった。
あのとき出会ってなかったら、俺はきっと後悔していたと思います。
だから、ありがとう。
君はお腹いっぱいになると思いの外元気で、一緒にいて楽しかった。
久しぶりに、こんなに沢山笑った気がする。
君がいてくれて良かったし、君がいないときっと退屈で死にそうだったんだろうなって思います。
本当にありがとう。
だからこそ、今別れないと駄目だなって思った。
一生一緒にはいられないから。
俺にそんな勇気はないから、だから、さよなら。
なんて、本当は俺が逃げただけなんだ。
君がいなくなる、そのいつかが怖くて。
責任なんて取れないから、逃げただけなんだよ。
ごめん、悪いとは思ってる。
友達って言ったのに、ずっと一緒って誓ったのに。
裏切ってごめんなさい、逃げてごめんなさい。
約束破って、ごめんなさい。
こんな酷いことしちゃったから、もう友達じゃないよな、俺たちは。
だから、もう、俺の事なんか忘れて下さい。
最低な奴のことなんか、覚えてなくていいから。
忘れて、これからを生きてくれ。
吸血鬼と人は一緒にいられないんだよ。
ありがとう、大好きだったよ。愛してる。
敬具
「は……はは……馬鹿だよ……なんでっ……! 逃げないで……ッ……最期まで一緒がよかったよ……馬鹿ぁっ……!! わす、れてほしっ……なら……こんな花添えるなよぉっ……!」
追伸 君に似合うと思って、花、好きだったろ。
——勿忘草に、雫が一つ落ちた。
《ブランコ》
世界樹には、古びたブランコがある。
誰が何を思って作ったのか定かでは無いが、ずっと昔からあるものだ。
世界で一番大きな、世界樹を囲む森は、その根から生まれたとされている。
そんな世界樹の枝にぶら下がっているブランコは、遥か上空にあって霞んで見える程。
実際、どれ程の高さにあるのか調べようとした冒険家が、三十年間毎日登り続けてもわからなかったという。
ただ登っても登っても霞が晴れることすらなかったが、それでも確かにそこにあった遠いようで近い、そんな不思議なブランコらしい。
世界樹の上には土地があって、そこには高次元の存在が暮らしている、というのは世界中誰もが知っている御伽噺だ。
だからこそ、世界樹を見上げた者らは皆、その世界樹の上——上界に住まう者達が為のブランコなのだろうと、そう結論付けた。
果たして、それは正しかった。
「ねぇ、どうしてこの世界は真っ黒なの?」
世界樹を見上げる者には到底聞こえないが、しかし、上界の中で最も低い場所に作られた空中ブランコ。
そこに座る無邪気な声が、純粋な疑問をぶつける。
「それはね、彼らが生まれてしまったからさ。少し目を凝らしてご覧、見えるだろう?」
穏やかな声の示す先を少し目を凝らして見ると、そこには蠢く真っ黒な何かがいた。
「彼らって、あれのこと? なーんだ、ちっとも怖くないや。かわいいね!」
どす黒く澱んだ闇を纏い、どろどろと体の溶けた得体の知れないモノ。
見る者に恐怖を与えることなど容易い筈のそれを見て、可愛いなどと宣うのはこの少女だけだろう。
風が吹くままに髪を踊らせ、少女は笑う。
「あんなのに負けちゃったのね? あはっ、みーんな弱いのね!」
自身が嗤っていることに気が付いていない少女を見つめ、
「それでも、侮ってはいけない。彼らがいることでまた、私達が存在する理由にはなるのだから。そうだろう? アテナ」
きょとんとした表情の少女——アテナの頭を撫でた。
「それに、これは君の姉である先代様が手を貸したことで実現した世界だ。それを否定してはいけないよ。君の姉様が可哀想だ」
「悪く言ってないもん! ただかわいい子達の味方をしてあげられないのが悲しいだけ!」
梟の頭を撫でながらブランコを漕ぐアテナに、苦笑を漏らす。
「確かに彼女がそう決めたことだから、君は不満があるかも知れない。でも、やってくれるんだろう?」
「だってもう姉様はいないもの! だから私に任せて、兄様」
実の兄ではなく、世話を任されただけの彼によく懐いているのは何とも皮肉だ。
それだけ、男を近付かせないようにされているばかりか、その名の所為で人も寄って来ないのだろう。
工芸、学芸、知恵、戦いを司りし一柱。
処女神アテナというのは、音に聞く女神だ。
伴侶を持たぬが故に処女神と言われているが、当然だろう。まだ今のアテナは、十四歳程なのだから。
そんなアテナが唯一懐いているのが、彼だった。
「ああ。頼りにしてるよ、勿論。さあ、どこに行くのかはもう決めたかい?」
「うん! あの特に黒いところ!」
アテナはいつもブランコに乗って下界を見下ろし、導くべき場所を目標として決める。
そして、そこに神の奇跡を起こしに出向くことが日課であり、責務だった。
「ねぇ、兄様も一緒に行きましょう? まだ戦いは苦手なの……」
不安げに彼を見つめると、
「仕方ないな、いざとなったら力を貸すよ。でも、できるだけ自分で導くこと。いいね?」
「うん! じゃあ——行こっ!!」
アテナは彼の手を掴むと、ブランコから飛び降りた。耳元で風が唸る。
まだ幼いアテナのはしゃいだ声を聞きながら彼は——軍神マルスは、空へと共に身を投げたのだった。
こうして神々は奇跡を起こす。
時には手を携えて、代々受け継ぎながら。