望月

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《Kiss》

 “キス、口付け、接吻、口吸、ベーゼ……と、様々な言い方のある。
 それらを思い浮かべるとき、人は何か特別なこととして捉えているのではないか。
 例えばそれは恋人同士。
 好きな人とすること、といった認識をしている者は多いだろう、愛情表現の一つとして用いられている。
 例えばそれは友達同士。
 お巫山戯や、本心を隠しての葛藤の中かも知れない。それでも、信頼という前提があるからこそ成り立つ。
 そんな風に、多くの人が、キスは特別だという認識をしているだろう。”

「開口一番すごい話になってる……やっぱ読むのやめようかなぁ……」
 友人から借りた小説を閉じ、独り言ちる。
 結構面白いから読んでみて、と言われたが最初からキスの話題が来るとは想定外だ。この手の話は縁がなく、苦手だった。
「まあでも、アイツに悪いし……や、帰りに読むのはやめるか」
 自転車通学だが、疲れたときは一旦公園に停めて本を読む。
 それが、修斗の日課だった。
 しかし、ここで読み止めるのはだめか、と再び本を開く。プロローグというやつが、あと数文だけ残っているのだ。
 
 “これは、神々にとっても同じことである。
 特別な、契りを交わす術の一つとして捉えられているのだ。
 それがこの行動の指す意味であった。”

 導入部分を読み終えたところで、修斗は本を閉じた。
 別にこの先が気にならないでもない。
 それでも、一度本を読むのを止めたからには、これ以上読み進めるのは良くない、そんな風に思ったのだ。
 だが、このままではいつもより三十分も早く家に着いてしまう。通りで小説を三日もあれば読んでしまう訳だ、帰りにしか読んでいないのに。
 家が嫌いという訳ではないが、弟妹が多く騒がしい。修斗にとってはこの下校時間が唯一、静かに一人でいられる時間なのだ。
 だから、その時間を削ってしまうのは惜しい。
 友人から借りた小説を鞄にしまって、自転車に跨る。
「遠回りして帰れば、多少は時間潰れるかな。……なんか面白い場所とかあったらいいんだけどなぁ」
 この町は狭い。それはもう、隣の隣の隣の家の人の娘の飼い犬が子供を産んだ、ということが一夜にして町中に広まったくらいだ。遠くて、余りにも狭い話題なのに。
 呆れるほど狭くて、見知った顔ばかりで、コンビニが二軒あることが唯一誇れる町。
 修斗は時折、辟易してしまうのだ。
 誰も彼も知っていて、酷くつまらない。
 本当の意味で一人になんてなれやしなくて、今、この瞬間ですら通りすがりの酒井さんに「修斗君、おかえり」と挨拶される。
 箱庭で飼われている気分になって、息が詰まるのだった。
 こうして遠回りをして帰ったとて、目新しいものはなにもない。
 瓦屋根の佐藤さんの家があって、杉下のばあちゃんの菓子屋があって——
「……あれ? こんなとこに神社なんてあったっけ……?」
 修斗の記憶では、雑木林が広がっていた筈の場所に鳥居が建っていた。いや、鳥居の周りは雑木林だから、正しくは雑木林の中に鳥居が建っていたのだ。
 とにかく、修斗の知らない場所があった。
「まあ、時間潰しにも良さそうだし……神社をちょっと見るだけなら……」
 今の修斗には好奇心、それだけだ。
 鳥居の傍に自転車を停め、お辞儀をしてから鳥居を潜る。
 修斗にとって全く想像していなかったのは、石段の多さだった。
 毎日往復一時間掛けて自転車で通学しているし、体力もある方だ。それでも、息が荒くなる多さだった。途中で休めば良かったけど、気になってそれどころではなかった。
「……はぁー……ふぅ。よし、お邪魔しまーす」
 息を整えてからお辞儀をして二つ目の鳥居を潜り、修斗は境内を見回した。
 思いの外広く、大きな神社だ。
 広い参道。右手には手水舎。そして正面には御社殿が構えてあった。その手前両脇には狛犬もある。
 しっかりとした神社にしては、宮司も巫女もいない。そもそもそういう人達の為の社務所もない。お守りや札、おみくじや絵馬もない神社だ。
 どこかちぐはぐな印象を受ける神社だった。
「けど普通に御社殿なんだよなぁ……」
 修斗は昔祖母に聞いたことがあったが、確か小さな町の社とは、他の大きな神社の管理下にあるという。だから、小さな神社には境内社や末社、と呼ばれるものがあるのだ。
 だが、目の前のこれはどう見ても大きい。
 賽銭箱もあるし、やはり御社殿だろう。
「大きな神様が祀られてる……にしては、知らなかったんだよなぁ」
 有名どころでもないし、ますますわからない。
 取り敢えず参拝でもするか、と手水舎に向かう。正しい手順も、祖母に教わった。
 柄杓を右手で持って水を汲み、左手、右手、口、左手、取っ手の順に清める。
 ポケットに手を突っ込むと、いつかの五円玉が出てきた。
 賽銭箱の前に立ち、滑らせる。
 二礼二拍手一礼。目を閉じて祈る。
 初めまして、神様。お邪魔してます。金いっぱい欲しいです。かわいい女の子に会えますように。この町にせめてカラオケができますように。バスとか電車とかが通りますように。……なにか面白い、初めてのことに出会えますように。
 最後の一文を強調して、修斗は目を開く。
 さて戻るか、と踵を返してふと思う。
「……うーん、欲張りだったかな」
『——多い多い。それにここはそういう場所では無い。感謝を捧げるだけの社だぞ』
「なんだそれ、ケチ臭くない?」
『なにを言うか! 充分普段から恩恵を与えているというのに……』
「たとえば?」
『……そろそろ帰っていいか、阿呆』
「大人ってすぐそうやって逃げるよなー……え? ……は? 誰?」
 なぜ今漸く気付いたのか、修斗は目を白黒させて周囲を見る。当然誰もいない。
 今自分は誰と会話をしていたのか、修斗は背筋が凍った。
『……そう身を固くさせる必要はないぞ、修斗。後ろを見てみよ』
「さっきも見たって…………見た、のに」
 声に従って振り返ると、そこには男がいた。
 金の瞳は澄んで、整った顔立ちも相まって神々しい。長い白髪を揺らして、白い着物に身を包んでいる。なにより目を引くのは、犬の耳としっぽが付いていることだ。
 脳が追い付かず、修斗は混乱した頭で、どこかおかしいと思いつつ理解する。
「……えっと、神様?」
『まあそうだな。私はここに祀られている神だ。……して、修斗。なぜこんなものを持っていた』
 こんなものと言って神様が手にしていたのは、修斗の鞄にあった筈の小説だ。
 あっさりと神だ、と言われたところでどうすればいいのかわからない。
 一先ず修斗は噛み砕いていくことにした。
「……それは俺っじゃなくてわたくし? の友人から借りたもので、して……なんで、なぜ神様が俺、わたくしの小説を持ってん……いらっしゃるんでしょう……か?」
 修斗の隠し切れない変な敬語がおかしかったのだろう、神様は笑いを堪える。
『……っ……よいよい、畏まるな。好きに話せ、修斗。私はそれで怒らん』
「はぁ……なら神様、遠慮なく。その小説、俺の友達から借りたんだ、面白いぞって」
 敬語は諦めて、修斗は先程の問いに返す。
『ふぅん……トモダチか』
「別にそいつに変なとこはないけどな? その本も、たしか家の本棚にあったから読んだみたいだし。それを、こんなものって……」
 なにが気になるのか、神様はそれを手にしたまま御社殿の石段に座る。
 手で示されたので、修斗もその隣に並んだ。
『……これは、神にとって大切な書物だ。特に土地神たる私にとっては』
「土地神だったの!? ……へぇ、そうなのか」
『そうだぞ、修斗。だから私に望むのではなく感謝しろ』
「うっ……それは知らなかったから……すんません。いつもありがとうございます」
『よいよい』
 神様は機嫌が良さそうだ。
 というかなぜ修斗の名前を知っているのか気になるが、まあ、神だからか。
「それで、その本なにが書いてあるんだ?」
『大事な所は読んだだろう、ここだ』
 神様が示したのは冒頭の部分。

 “これは、神々にとっても同じことである。
 特別な、契りを交わす術の一つとして捉えられているのだ。
 それがこの行動の指す意味であった。”

「これがなにか?」
『これが重要なのだ。そのままの意味だぞ』
 そのままの意味。
 つまり、神と契り——契約をする為の方法としてキスをすることがある、ということか。
『正解だ、修斗。正しく捉えられておる』
「口に出さなくてもわかるのか……流石神様」
『褒めてくれるな。……契りを交わすとな、人は契った相手たる神の力を扱うことができるのだ。それがあれば、神の神格にもよるが多くのことができるようになる』
「それ、神様が契約する利点ないじゃん」
『そうでもない。神の力とは、神格とは信仰による影響が大きい。つまり、人を介して力を示すことで信仰を集めやすくするのだ。……神が直接この世に干渉することは認められておらず、世の理に反する。それ故に、人を介することでしか力を顕現させられぬのだ』
 互いに利益はあるのか。
 納得したところで、この丁寧に説明してくれている神様に今更ながらの疑問を投げる。
「契りは多分わかった。で、俺なんで今神様と話してるんでしょう?」
『……そうだな。修斗や、この社がいつからあったかわかるか?』
「……さぁ」
『そうであろう。だがな、ずっとあったのだよ』
 ずっとあった。修斗には雑木林しか見えていなかったここに。
『驚くのも無理はない。この社に来るのは老人ばかりだったから、恐らく私の存在が消えかかっていたのだろう』
「……神様って、忘れられたら消えるのか」
『そうだ。だから、今修斗の目にこの社見えるようになったのは奇跡的なことだな』
 どうせすぐに消えるが、と口にした神様は手にした小説を修斗に寄越す。
「……神様、」
『さて修斗や、そろそろ日も暮れるぞ。弟妹の待つ家に帰るが良い。今から帰ればいつもと変わらぬ時間に着くだろう』
 別れの挨拶を切り出したかと思うと、神様は立ち上がって歩き出す。
 修斗は慌ててその背を追う。
「なあ、神様! 名前聞いてなかった、教えてくれ」
『……書物を読む前でそれか、空恐ろしい奴め。教えてやるが、次ここに来るまでに小説を読み切っていたら私の名を呼んでも良い』
 神にここまで言わせる奴なんぞ、修斗以外にはいないだろう。
 神様は呆れて、去り際に名を告げる。

『⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎』

 人が神の名を呼ぶことの、罪深さは小説の中で語られているだろう。
 それを知った上で再びこの社に現れたときは、神も容赦はしないつもりだった。
「うん? わかった、絶対読むよ!」
 なにも知らない修斗は神様に誓って、神社を後にした。

 一週間後————

「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎!」

 それらの音が神社に響いて、そっとキスは交わされた。
 真名を呼んでキスをする、それが契りだ。

2/5/2024, 9:49:18 AM