《この世界は》
女が一人、上も下もわからぬ場所で唄っていた。
つと、こちらに視線向けたかと思うと、和装に身を包んだ女は気が付けば眼前にいた。
のう、お主【迷い子】であろう? 何をしておったのじゃ、ここに来るなんぞ。
何も覚えておらんのか? まあ、そうであろうな。皆同じことを言う。
わらわもむかーしのことなんぞ覚えとらんからのう、仕方のないことじゃな。
して、帰らせてやろう。
感覚でわかるじゃろう、お主どこから来たのじゃ?
女は自身の周囲を巡っていた、石の欠片の一つを掴んで見せる。
これかの? ……そうかそうか、ここから来たのか、お主。災難じゃったなぁ。
なに、帰り道を作ることなど造作もないことじゃ、気にするでない。
……じゃが、わらわと共にここに残るというのもどうじゃ? すぐに帰ってしまっては、ちぃとわらわがつまらんからのう。
わらわが誰か? 久々に会話をして、名乗りを忘れておったようじゃの。すまぬ。
わらわは、時として【運命】や【宿命】と呼ばれるモノ。中には【未来】などと呼ぶのもおったかの。とにかくまぁ、そんな存在じゃ。
わからんというのもまた、運命よ。
ここ? ここは……そうじゃの。万物の祖であり終焉を描く【時空】じゃ。全ての世界はここから生まれ、この遥か下方にある混沌に堕ちて征く。それが理と呼ばれておるのう。
ひとしきり説明すると、女は再度石の欠片を差し出す。
この世界は、既に灰色に染まっておる。本当にここに帰るのか?
わらわはどちらでも良い。【迷い子】の選ぶ道だけは、お主が直人であろうと定まらん。
じゃからお主の好きにせい、【迷い子】よ。
……己が道を決め、わらわの手を取るが良い。さすれば、お主の道に相応しき場に、お主は立っているであろうよ。
躊躇いは感じられなかった。
これ、待たぬか!
決断が早いのは良いことじゃが、まだお主にはやらぬとならんことがある。
お主、どちらじゃ?
何者か、わかっておるのか?
お主の決断次第で、世界は白にも黒にも染まり切るぞ。
……わかったわかった、幾度も問うたわらわが悪かった!
決まったのじゃな?
よい、ではわらわの手を取れ。
何も、起こらなかった。
確かにその手は、女に触れたというのに。
……まさかとは思うがお主、ここを選んだのか。
はぁー、そうか。そうなるのかのぉ……。
決まってしまったものを覆す力はわらわにない。
責任は取ってやる、わらわの眷属となれ。
眷属も知らんのかお主……まあ、わらわと共に暇を潰す役よな、つまり。
女は改まって、向き直る。
【希望】と【絶望】の間に生まれ堕ちし者よ。汝に眷属としての名をやろう。
汝は——【奇跡】じゃ。
この世界で唯一、わらわの知る運命から外れることのできる存在。
それが、わらわの眷属たるお主の真名であることを努努忘れるな。
わらわはお主を……そうじゃな、「お主」としか呼ばんからな。じゃが、忘るなよ。
この世界は、二柱の間に生まれ堕ちたお主を否定せん。
この世界を形作るわらわも、お主を【希望】と【絶望】の子とは思わん。
わらわの眷属であり、【奇跡】を司る者として扱う。
彼の世界のようには……どちらにも染まりきれぬ異物としては、扱わんよ……決して、わらわは。
女はそう独り言ちると、その手を引いて歩み出す。
【時空】を統べる孤高の存在たる女は——時空神たる彼女は、孤独を嫌っている。
《どうして》
身分の差を、理解していた筈なのに。
この叫びは止まらなかった。
待ってくれ、と考えた時には既に放ってはならない音が口を衝いていた。体が動いていた。
愛だの恋だのとかいう感情ではない。だが、その女は俺の幼馴染なのだ。
だから、その想いを踏みにじって漸く成される未来など、存在してはならない。
俺が、絶対に赦さない。
「——その薄汚い手で触らないで貰えますか、シュレイト男爵」
強引に横から掴んだその腕は、奴隷商人として裏で栄えたばかりか男爵の位まで授かった男の腕だ。
富は莫大で、一代でここまで商業を発展させた者はなかったという。
だから、そんな男と幼馴染の婚約が金で成立した——してしまったのだ。
「アーノルド、やめなさい。この方は私の婚約者として正式に認められた。彼に無礼を働くということは、あなたの主たる私に無礼を働くことと同義よ」
「この男との婚約、エレオノーレ様が望んだことであれば心よりお祝い申し上げます。ですが、そうではない。その御心が踏みにじられない為ならば、私は幾らでも無礼を働きます」
いつもの通り、会話は平行線だ。
彼女の表情は焦っている。なにせ、昨晩寝る間も惜しんで俺にこの婚約を納得させようとしたのだから。
俺も一時は納得した。
だが、今朝方彼女の父親の話を聞いて、腸が煮えくり返った。
父親は、娘との婚約を条件に、莫大な資金と奴隷を手にしたのだ。それだけでなく、今後シュレイトに商いの売上の一割を永続的に貰うのだとか。
つまるところ、彼女は父親に売られたのだ。それも自身の知らぬ間に。
生憎と、それを知ってもなお、黙っていられる程のかわいい性格はしていない。
これは、仕方のないことだ。
そう割り切れたら良かった。
「おい、誰か! この不届き者を連れて行け!!」
「待って! 待って下さい、彼は悪くないの」
「大丈夫、躾られてないコイツが悪いんだ」
「彼は私の幼馴染よ!? お願いっ……」
恐らく、連れて行け、とは額縁通りの意味じゃない。率直に、殺せ、か。
薄く笑って、俺は彼女に傅く。
「貴女様の御心をお聞かせ下さい」
「アーニー……?」
「俺と二人で逃げないか、エレナ」
愛称で呼び合っている時点で主従関係としては問題だろう。隣で守銭奴が怒っているがどうでもいい。
「……アーニー」
「お前の答えが、俺は知りたいんだ」
手を取って真っ直ぐ目を見ると、
「私は——貴方の隣が、一番好きよ。昔から」
聞きたかった言葉が彼女の口から零れた。
それでいい、十分だ。
返事も何もなく、俺は彼女の手を引き屋敷を飛び出て、裏門へと走る。
「……これ、もしかして計画の内なのっ?」
「どうだろうな。エレナ、馬乗れるか?」
「乗れる! ……みんなも知ってたの」
追っ手が来ないのは当然、この屋敷の主以外全員が彼女の味方だからだ。
それぞれ馬に乗り、開かれた門を駆け、森に出る。
「ねえっ……どうしてここまでしてくれるの?」
「言わせんなよ、恥ずかしい」
「どうせ貴方のことだから、あたしが好きとかそういうことじゃないんでしょ」
「なんでわかんだよ」
「幼馴染、何年やってると思ってるのよ」
懐かしい会話だ。久しぶりの「あたし」だな。
「なんとなく、だな」
「なんとなくでお父様に逆らわないで……勢いで飛び出したのなら兎も角、計画がありそうじゃない」
「……幼馴染だからな」
それが最初の質問に対する答えなの、と呆れるエレナは、次の瞬間破顔した。
「照れてるし!」
「照れてないっつーの! ほらほら早く行くぞ、待たせてんだから」
「やっぱり計画あるのね。ずっと考えてくれてたんだ……! アーニー」
「ん?」
「本当に、ありがとう」
「幼馴染のよしみだよ、気にするな。エレナ」
《夢を見てたい》
辺り一面を曼珠沙華が埋め尽くしていた。
金魚は、僅かな水滴を纏い宙を泳ぎ去る。
手を伸ばせば、全てが蒼き光の粒子となって空に溶けて消えていった。
此れは夢だ。
考えるまでもなく、頭が其れを告げた。
物理法則がまるで存在していない世界でただ一人、不自然に花の咲いていない空気を踏み歩いて行く。
頭上にも花が咲き誇っている所為で、此処が正しく地面なのかすら分からない。
曼珠沙華——彼岸花。
とどのつまり、此処は、幽世と現世の境のようなものなのだろうか。
だが、三途の川らしき水源はなく、紅で彩られた世界にそれ以外のものは殆どない。
なら、異世界のようなものか。
現実世界ではないのだ、不思議な世界観の夢を見たとて不自然はない。
何故此処に己が存在しているのか、全く心当たりがない。
其れに、夢だと解れば目が覚めてもいい筈が、その様子がないのである。
不可思議なものだ。
違和感は覚えるものの、所詮は夢の中だ、特に気にする程の事でもないだろう。
幾ら歩けど見える世界に変化はなく、飽きを感じた頃だった。
誰か、いる。
遠くに立つ人影を見つけた。
それが人と解ったのは、此方に向けて声を放っていたからだ。
上手く聞き取れないが、名前を呼ばれているのだ、と思った。
懐かしい声だった、とても。
泣いている。
それが解った。
そして、その涙を止める為の術も。
だからこそ。
嫌だ。でも、仕方ない。
最初から夢だと知っていたのだから、諦めはつく。
この泡沫の夢から逃れることも、容易い。
目を覚ますと、傍らで泣いていた。
手を伸ばし、その頬を撫ぜる。
ごめん。辛いんだ、もう。
その辛い現実に、君はいる。
だから、生きなければならないのだろう。
《ずっとこのまま》
俺は、変わることができないのだろうか。
変わる為の理由は幾つもあるのに、肝心の気持ちが追い付いていない。
いや、ただ逃げてるだけなんだろう。
責任から、期待から。
絶対に失いたくないから、失望させたくないから。
だから、頑張らないことを選んだ僕は間違っているのだろうか。
だって、頑張っていなくて結果がこれなら、頑張ればもっと凄いんだろうなって期待してくれる。それに、頑張っていないんだからこの程度の結果だった、と言えばいい。
そうして、一度逃げてしまったから。
あたしは二度と、変われないのだろう。
だけど、もう、壊れたフリをするのにも疲れた。一部は壊れているだろうが、全部までとは思えない。
壊れる方がきっと楽だけど、それは選んじゃいけない。
だってあたしはまだ、生きていけるんだから。その道しか選べない人が、選ぶべきだ。
何度も涙が溢れた。涙が止まらなくて困ったりした。虚脱感に襲われることもあった。全てがどうでもよくて、何も感じなくなった。ご飯も何も美味しく感じられなくて、生きるための行動が酷く億劫だった。好きなものに対する興味が薄れた。何もしたくなくて、何も考えていないのに何故か涙が出た。過去を懐かしんで、あの頃に戻りたいと思った。
それでも、私はまだ大丈夫。
きっといつかは、変わることができる。
ずっとこのままは嫌なんだ。
だって俺は。俺には、頑張る為の理由があるから。手段だって友達が一緒に探してくれる。目的はとうの昔からある。
ほんの少し、精神的に疲れているんだろうと、客観的に考えても思う。
僕は変われるかどうか、わからないけれど。
だけど、この背中は沢山の人が押してしてくれた。
——いつか、ずっとこのままでいたい、と思える日が来ますように。
誰かの言っていた、大丈夫、なんとかなるよ、を口に出して歩み続ける。
《寒さが身に染みて》
君は、とても冷たい人だった。
私はすぐに凍えてしまって、あなたをも凍えさせてしまうに違いない。
だから、決して素肌では触れないでほしい、と言われた。
僕は、わかった、と言って決して君に素肌では触れなかった。
それでも、彼女の傍を離れることは一度もなかった。
薄い手袋越しでも、きっと、僕の熱は彼女に伝わっているのだろう。
ずっと、二人きりの世界だ。
雪は全てを覆い隠してくれる、包み込んでくれる。
その世界の終わりを知ったのは、幾年もの時が経ち、木々がすっかり枯れた頃だ。
冷たい。
厚い手袋越しに僕の手を取って、つと、君はそう呟いた。
ああ、もう熱がなくなってしまったのか。君に長く触れすぎたね、ごめん、少し待ってくれるかな。温かくするから。待ってね。
不安がる君を宥めようと、僕は頭を撫でて少しの距離を取った。
それでも、なんとなく体感でわかる。
僕の手は、熱を失っていくようだった。
考えるまでもなく、高い熱を長すぎる時間発し続けたからだ。
仕方のないことだった。
僕は、不安がる彼女の傍らに座った。
手袋を外して、その手を握る。
振り払おうとしたのだろう彼女は、涙を浮かべて、嫌だ、と叫ぶ。
僕はそれを聞かなかったことにして、更に強く握ろうとした。
が、だめだった。肌が触れたそばから凍り付いている。
やめて、と懇願する君には申し訳ないけれど、もう時間がないんだ。
君の手から、寒さが身体中に伝わってくる。
痛い、と声が漏れてしまう程、凍てつく体の崩壊は早い。すぐに感覚なんてなくなった。
もう引き返せないと悟ったのだろう、君は僕をそっと抱き締めてくれた。
体の芯から冷え、寒さが身に染みる。
泣かないでいいんだ。
泣かないでくれ、頼むから。
僕はどうやら君の涙に弱いみたいだ、どうやら。
お願い、独りにしないで。嫌だ。
君の声が、ぼんやりとした脳に響く。
一緒にいこうか、と誘う僕に君は頷いた。
だから僕は、君に僕の力をあげる。
今まで口にすることのなかった想いを最期に告げて、僕はそっと彼女に口付けた。
そうして僕の中の熱は消え失せ、彼女の中で、熱と冷気が中和された。
そうして、この寒さに耐えきれなくなった君はきっと……凍えきってしまうだろう。
これで僕らは、ずっと、ずっと二人きりだ。
——好きだよ。君を愛してる。