《プレゼント》
緊張した面持ちで扉の前に立つ青年——真矢の手の中にあるのは、真新しい鍵だ。
つい先日作ったばかりの、家の合鍵である。
ややあって、真矢は鍵を握り締め深呼吸をして扉を開く。
「おはようございまーす。先輩いますか?」
挨拶と共に室内を見ると、まだ誰も来ていないようだった。
この部署は組織の中でも、特に優秀な者が集まっていると言っても過言では無い。ただ意図的にそうされたのではなく、自然とここに集ったのだ。
その理由は上司にある。
強く、恐ろしく、冷徹で、裏社会においても音に聞く存在。誰もが恐怖の対象とする男。
それが、真矢たちの上司だ。
ともあれそんな上司もおらず、ただ一人デスクに着いた真矢は安堵の息を吐いた。
「……いやいや、今更緊張なんて……私は……」
そう独りごちる真矢は、気配を察知し扉を見やる。
果たして、扉を開いたのは、
「……おはようございます、先輩」
「お、朝から早いじゃん。おはよー」
来てほしかったような来てほしくなかったような、そんな曖昧な視線で真矢は彼を見た。
「なんだよ、ちょっと嫌そうな顔して」
「いえ、なんでもないですよ。それより、珍しいですね? 先輩いつも遅いのに」
「たまにはいいじゃん。偉いだろ?」
「はいはい、偉い偉い」
「適当! もっと褒めて真矢ー!」
「わかりましたって……」
頭を撫でてやりながら、真矢は内心焦っていた。
二人きりの方が都合がいいが、これはこれで困る。
そう思っていたからか、彼の行動に気が付かなかった。
「なあ、真矢。これって?」
「……はい? なんです?」
仕事のことかと顔を向ければ、差し出された彼の手にあったのは、鍵だった。
それも、真矢の手にあったはずの、家の合鍵だ。
「あ、それは……えーっと……」
手にあったのを忘れていたからか、落としていたようだ。それを拾って、聞かれたのだろう。
「家の鍵? こんなとこに落とすなよ、はいこれ」
「あぁ、いや……すみません——」
このまま話を流してしまえば、また鍵のことを話題にあげることは無いだろう。
それでは、せっかく合鍵を作った意味が無い。
「……あの、先輩」
「ん? 受け取らないの?」
不思議そうにこちらに差し出された手を、真矢は両手で包んだ。
「この鍵は、先輩が持っていてくれませんか」
「……俺が? 真矢の家のじゃ、」
「私の家の合鍵で、合ってます」
「……ならなんで」
当然だろう、困惑する彼の目を見れず真矢は俯いたまま続ける。
「だって、先輩この前も仕事ばっかりして家に帰るの忘れてたでしょう? それで家賃払うのも忘れて、電気もガスも水道も止められたとか。そろそろ三ヶ月経つのにまた組織で寝泊まりしてるし」
「……それは」
「なので、私が住んでる家に来ればいいと思うんですよ。電気代とか諸々折半にすれば安いですし、仕事で忙しいときも私の家の方がここから近いのでまだ帰る気になるでしょう?」
「……たしかに」
「だから、その、……俺と一緒に住めば楽だと思うので! 家事とかしますし……先輩が嫌でなければ、」
「——俺の方こそいいの!?」
「え」
思わず顔を上げると、嬉しそうな彼の顔がそこにあった。
「俺の方こそお願いしたい! 真矢となら楽しそうだし、よろしくなー!」
「……はい」
予想に反して、いい反応の彼に動揺を隠せない真矢は呆然として、
「……緊張してた俺が馬鹿でしたねぇ。先輩、」
「んぁ?」
鍵を持ってご機嫌になった彼が、振り返る。
「それ、俺からのプレゼントです」
「ありがとう、真矢!」
最高のプレゼントだよ、と言った彼の表情は、
——とても眩しかった。
勇気を出して、よかったと思う。
《ゆずの香り》
あたしはこの香りが好きだ。
小さい頃、両親に連れられてスケートリンクに行ったことがある。
初めてで、上手く滑れなかった。
結局、滑るよりも歩く方が上達してスケートリンク上で走って遊んだ。
二、三時間経って寒さと疲れを覚えたあたしは、スケートリンクからでて近くのベンチに座った。
そんなあたしを見た両親が、買ってくれたのだ。
温かくて、ほんの少しゆずが苦くて、はちみつの甘さが沁みたのを覚えている。
だからか、大人になった今でも冬の時期はこれを飲むのだ。
思い出を懐かしむように、また行きたいなと思いながら。
大人になったからか、苦みはあまり感じなくて甘みだけが広がった。けれど、後味はさっぱりしていた。
《大空》
『あなたは、あの空に憧れてるって言うの……!?』
その言葉に、なんと返したのだったか。
今こうして遥か上空から大地を眺めているのだから、きっとこう答えたのだろう。
『そうだよ。空に憧れてるんだ』
それになんと返されたのかも、覚えていない。ただなんとなく、止められたような気がする。
なぜだったか、その理由すら思い出せない。
けれど今、僕はとても満たされている。
だって、こんなにも自由に空を舞えるのだ、楽しくない筈がない。
見上げた視界に在るのは、空と雲だけの世界。
「綺麗だな……」
あいつにも見せてやりたいな。
そんな気持ちと共に、まだ駄目だ、と強く思う。
なぜ、まだ、なんて思うのだろうか。
自分自身でもわからなくなった想いを抱えて。
「……広いけど、独り……か」
大空は、まだまだ続くのだろう。
だというのに、俺の心はその広さを満足に感じれないでいた。
きっと、他の誰もいないからだ。
いつかの、あいつも。
「……泣き止ませて、やんないと」
ふと、思い出した景色がある。
あいつが泣いていて、俺の手を握っていた。酷く消毒液の匂いがした。真っ白な部屋であいつだけが色付いていた。
どこでだったか、いつだったか思い出せぬまま。
俺は空を舞おうと足を踏み出して、
『だめに決まってるでしょ! お空に行かないでっ』
少女の声に振り返った。
が、当然そこには誰もいない。
「……ああ、そうか」
ずっと、この空を自由に飛べたらいいのにと思っていたのだ。
だって、窓からはよく見えたから。
だから青空の支配するあの部屋で、口にしたのだ。
この体を早く終わらせて、大空を駆けたい。
どうりで少女の——あいつの、声がしたんだな。
俺が俺の存在意義を思い出す為に、あいつが必要不可欠だから。
俺はもう一度景色を眺め、目を瞑る。
風が唸った。
「……ぁ……待たせたな、悪い」
次に目を開いた時、俺の目に映ったのは、あいつの泣き笑いの表情だった。
俺が目を開いて自然と口にした言葉に、あいつはなんと答えたのだろうか。
いや、きっと、こうだ。
「『絶対、私を置いて遠くに行ったりしないでね』」
《ベルの音》
どこからか、季節を感じさせるかわいらしい音楽が流れてきた。時折混じるベルの音が耳に響く。
今年ももうそんな季節か。
そう思う彼女は家路を急いでいた。
正直、彼女にとってこの時期は、あまり好きでは無い。この駅前を流れる音楽も、ただなぜか虚しさを増すだけなのだ。
彼女は足元を見ていたが、少し顔を上げるとそこかしこに仲睦まじい二人が寄り添いあっている。
肩がぶつかる距離で、手を彷わせる両者の空気感の、なんと甘いことか。
自然に組まれた恋人繋ぎも、なにもかも。
彼女にとっては、無意味に虚しさを募らせる要因になり得るだけだ。
暗い気持ちでは来年も物事が上手くいかなくなりそうだ、と思った彼女は足を止める。
目的は、最近できた、駅前の雑貨屋だ。
凍える手を動かし、赤と緑の装飾された置物を手に取り購入する。
十分とかからずに再び家路についた彼女は、そのままの勢いでバスに乗った。
それから少しして、バスからおり、マンションの一室に入る。
彼女の部屋だろうその部屋には、不要なものがなかった。ほとんど白に統一されていて生活感もない。
いつまでも暗い訳じゃないし、別に恋人がいなくたって何とも思わない。
誰に宣言するでもなく心中でそう言って、彼女は買ったばかりの置物を玄関に置いた。
彼女以外立ち入ることもない為飾る必要もなく、実用性のないもの。
ほら、あたしだって人並みに浮かれてるのよ。こうして不要なものを衝動で買って置くくらい。
架空の誰かに、恋人らに対抗するように。
一人笑って、彼女は置物に手を伸ばす。
つん、と触れた手から微かに、けれども確かに、金属音が響いた。
《寂しさ》
なにをしても、埋まらない。
別に、友達がいない訳じゃない。
親友と呼べる子だっている。
勉強だって、最近はわかるようになってきた。
部活動も、少しずつ上達してきた。
新しい生活にも、漸く慣れてきたのだ。
なのに、なのに——どうしてだろう?
「……寂しいっ……」
気が付けば夜、涙が溢れるようになった。
ふと、一年前の日々を思い返すようになった。
あの頃のままでいられたらよかったのに、と強く願うようになってしまったのだ。
苦しい、辛い、悲しい。
そしてなにより、寂しくて堪らない。
こうして空白のページを文字で埋めつくしたって、きっと、いつまでも心は満たされない。
どれだけ本を読んでも。ゲームをしても。音楽を聴いても。アニメを見ても。漫画を読んでも。
満たされることはなく、余計にその乾きを感じる。
大好きで、家族のように身近で信頼できる親友。
時に頼られ、頼らせてくれる女友達。
馬鹿を言い合って一緒に笑う男友達。
少しくらいふざけても、乗ってくれる先生。
それから。
僕を安心させてくれて、誰よりも一緒にいる時間が楽しいと思えて、軽口を言いつつもずっと側にいてくれて、会えただけで嬉しくて、大好きで堪らない、
そんな君が、僕の見る景色のどこにもいないのだ。
それが、酷く寂しかった。
「……会いたい」
いや、違う。
「……声が聞きたい」
贅沢なことは言わないから。
「……せめて、顔が見たい」
君がどこにもいないということ。
それが、僕にとっての『寂しさ』なのだ。
今日も、埋まらない心に他の誰かの温もりを。
そうして積もる寂しさに、目を背けるように。