『狭い部屋』
それは人間1人が、腰を下ろすスペースがあるだけの、正しく小部屋だった。
私はソソクサとその部屋に入り、鍵を閉める。
こういう部屋に長居する人もいるけど、私はサッサとおいとまするタイプだ。
用は足した。さて、行くか。
私は手近のペーパーホルダーに手を伸ばす。
でも、私の手は空を切った。
ホルダーに取り残された芯が、カラカラと虚しく回転している。
しまった。
でも諦めるのはまだ早い。
買い置きのペーパーは?
私は体を捻り、後ろのタンクの上を確認する。
でも、タンクの上は、薄く埃が積もっているだけだった。
バカな。詰みだと。
私は歯を食いしばって羞恥心を堪える。
そして、天を仰いで声を絞り出した。
「誰か、紙持ってきてくださいっっ!」
『失恋』
始めは確かに恋愛だった。
ちょっとウェーブのかかった彼女の長い黒髪に、彼の胸は高鳴っていた。
始めは確かに恋愛だった。
たくましくて広い彼の背中に、彼女の瞳は釘付けだった。
始めは確かに恋愛だった。
だけど、いつしか変化した。
彼の胸を高鳴らせた黒髪は、真っ白に。
彼女の瞳を釘付けにした背中は、丸まった。
始めは確かに恋愛だった。
だけど、いつしか変化した。
もう恋愛じゃなくなった。
始めは確かに恋愛だった。
それはいつしか、恋を失い「愛」に変化した。
今日も2人は、しわしわになった手をつなぐ。
『正直』
「正直な話は苦手だなぁ」
放課後の部室で先輩がボヤく。
「好きに書けばいいじゃないですか。私たち文芸部なんですから」
私の返事に、先輩が「違う違う」と手を振った。その手には、薄っぺらいプリントが一枚ある。
「これ、進路希望の用紙なんだよ。昨日が提出期限だったんだ」
ヘラヘラ笑いながら先輩が言う。
「先輩、期限切れてます」
「今日中に出さないとまた怒られる」
「先輩、もう放課後です」
「ヤバいよねー」
一人で笑っていた先輩は、私の顔を見てピタリと止まった。
「ごめん。キミは心配してくれたのにね。私がふざけてちゃダメだな」
先輩は苦笑いしながらボソボソ言い始めた。
「正直なところ、書きたいものはあるんだけどね、書いたところで、先生に何て言われるかが……怖い。……でも、嘘ついてごまかしても仕方ないし。
……さて、どうしたものかなぁ」
「……なんか、それ、創作と似てますね」
私はぼそりと呟いた。
パチクリ。
先輩はきょとんと瞬きした。
それからまた笑いだす。今度は何かが吹っ切れたような、豪快な笑い声だった。
「そうだね。じゃあ、文芸部らしく、好きに書くことにしよう」
先輩はシャーペンを握り、勢いよくプリントに向かった。
『梅雨』
しとしと、しとしと、雨が降る。
家路を急ぐ車の中で、ラジオが言った。
「梅雨入りですね、明日も雨になるでしょう」
ザーザー、ザーザー、雨が降る。
僕は小さくため息ついた。
まいったな。雨が降ると渋滞しちゃうんだ。
ポロポロ、ポロポロ、雨が降る。
「梅雨の空は泣いてるみたい。
泣いてるお空は悲しいの?」
チャイルドシートにちょこんと座る、幼い娘が問いかけた。
どうだろね。
存外、お空はうれしくて泣いてるかもよ。
僕は娘に語りかける。
ほら、幼稚園にあっただろ?
最近咲いた、ピンクのお花やチョウチョたち。
お空はもしか、「みんな立派に大きくなったなぁ。もっと大きくおなりよ」って泣いてるかもよ。
「うれしくっても泣いちゃうの?」
ルームミラーに映った娘は笑う。
そう言えば、娘は「幼稚園行きたくない」って泣かなくなったな。
しとしと、ポロポロ、雨が降る。
大きくなったな。うれしいよ。と雨が降る。
『天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、』
その日の放課後は、大粒の雨が降っていた。
学校から、やっとの思いで辿り着いたバス停の屋根の下にいたのは、僕の幼馴染だった。
そいつは、頭の先からつま先までびしょ濡れで、ベンチに一人座っていた。
「お前、どうしたんだよ」
幼馴染は僕の声に弾かれたように顔を上げる。
それから、小さなため息と一緒に呟いた。
「あぁ、キミか」
濡れてペチャンコになった幼馴染の前髪が揺れて、ぼたりと大きな雫がこぼれた。
「私、傘忘れちゃってさ。まいったね。酷い雨だな」
僕が何も言えないでいるうちに、幼馴染は「明日も雨なのかなぁ、梅雨だしね」なんて言いながら、真っ赤に腫れた目で力無く微笑んだ。
ツッコミどころは山ほどあった。
今日は朝からずっと雨だっただろ、とか。
雨に濡れただけで、目が赤く腫れるわけないだろ、とか。
でも、天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、お前が話していない話題なんだから。
しかし、僕らは幼馴染だ。お前が頑固で強がりなことは、長年の付き合いでわかってる。
だから、お前が話さないと決めたことを、僕が覆すことはできないだろう。
でも、僕だって決めてることがある。
僕はお前を一人ぼっちなんかにさせない。
これは、お前だって覆せないだろ。
だから、僕は何も言わずに、びしょ濡れの幼馴染の隣に座った。
とはいえ、僕には沈黙が重すぎた。
僕の口からポロリと出てしまったのは、どうでもよかったはずの話題。
「早く晴れるといいな」
幼馴染が頷いたのだろう。
僕の隣で雫が流れて小さく輝いた。