病室
地元にある古い病院には奇妙な噂があった。
入院すると絶対に退院できない
そんな曰く付きの部屋があるという。
そして運の悪い事に、今俺が入院してるのが
その部屋らしい。
昔からの友人に、そんな情報を聞いて、
ただでさえ憂鬱な入院生活に陰りが見えた夜
俺は恐ろしい体験をした。
俺が入った病室は、
入口から左手にトイレ、奥にベッドがある
普通の個室で、入口のドアには廊下から
中の様子が覗える小さな窓が付いている。
夜になると廊下の非常灯の緑色が薄っすらと射し
ベッドの横にあるはめ殺しの窓の外は、
打ちっぱなしの壁ばかりで
非常灯の明かるさから
室内が反射して見える。
時折、看護師か誰かの足音が聴こえる以外
何も無い静かな環境が不気味に思えたが、
なんとか眠りにつく事が出来た。
夜中にふと目覚めた俺は、友人から聞いた話を
思い出し、年甲斐もなくビクビクしていた。
自分の鼓動ですら聴こえてきそうな、
そんな環境もあって気付く。
微かに聴こえる、自分以外の呼吸音。
隣の部屋からか?と思い耳を澄ます。
ひゅー、ごぽぽぽ、こっ。
ひゅー、ごぽぽぽ、こっ。
コレは大丈夫なんだろうか?
明らかに普通ではない息遣いで
例えるなら、水責めされているような‥‥
俺は悩んだ末、ナースコールを押すことにしたが
確かにあったはずのボタンは
どこにも見当たらなかった。
しばらく探していると、呼吸音は
どんどん大きくなっていった。
ひゅっごぼぼぼっ、ひゅこぼっ。
ひゅっごぼぼぼっ、ひゅこぼっ。
これは、絶対に不味い
早いとこ看護師を呼ばなければ、
焦るばかりだったが、呼吸音に紛れて
足音がする。
一瞬、看護師の見回りだ、
良かった、と思ったが
呼吸音と足音が
一緒に大きくなっている事に気付いた。
背中にヒヤリとしたものを感じ
咄嗟に布団を被り、
窓の方に身体を向けた。
窓の反射で入口のドアを
薄目で見ていたが
やがて、何もないまま
呼吸音と足音は止んでいた。
窓にも何も映らず
音も消えた事で、難を逃れた、
と寝返りをうつと
ひゅ、おこぼぼぼひゅっ、ごぽっ
全身びしょ濡れで、頭や手足が緑色に
異常に肥大した看護師らしき女が
こちらを見下ろし、立っていた。
その後
どうやら気絶してた俺は、
逃げるように退院した。
あの夜の事はまだ話せてなかったが
友人は、結局噂は噂だったな、と
笑っていた。
それはどうだろうな
最近、喉が腫れて
身体が浮腫んできた
何より、暗い部屋にいると
あの呼吸音が自分からする事に気付く
そして。
誰かの視線を感じるんだ。
お前の後ろから。
明日もし、晴れたら
久しぶりに近所の漫画喫茶でも行こうかな
こう暑くちゃ外に出たってすぐ引っ込みたくなるし
かと言ってずっと居れるほど心地の良い
家じゃないからね。
バイクがあったら港まで釣りに行くのも
良かったかもな。
車があったら登山に向かうのもありだったな。
彼女がいたら、デートするのも悪くない。
全部、今は無くしてしまった
一生大事にしようと思ってたのにな。
もしかしたら、ないとは思うけど
明日もし、晴れたら
なんて事も無くなってしまうのかな
家から出られなくなるかもしれないし
晴れの日が一生来なくなるかもしれない。
そんなわけ、とは思うけど
無くしてきたものの中にもそう思ってたもの
あるからな。
なんでも大事にしなきゃ。
漫画喫茶も潰れるかもしれないし
やっぱり行くか。
明日もし、晴れたら。
いつも こんなはずじゃなかったのに
両親、恋人、友人
人並みに関係値を築いた事もある。
しかし、今は誰もそばに居やしない。
俺が何かしたかと問われれば
したかもしれないが
所詮は他人みたいなものだと
諦めてきた。
人付き合いってのは厄介なもので
本人が居なくてもそこかしこに
思い出ってやつが残っている。
今じゃどこに行くにも
いちいち過去が蘇る
いっそ引き籠もりにでも
なってやりたいが
これ以上センチメンタルな
自分に浸りたくない。
だから、一人がいい。
離れるぐらいなら一生一人で良い。
澄んだ瞳。
「子供の頃の純粋な眼差しは、何故大人になると
曇るのでしょうか?」
教育実習先で知り合った真面目そうな女が
たまたま一緒になってしまった電車の中で
僕に聞いてきた。
そんなの知らないよ。
そう答えたかったが
下手したら同僚になる相手に対して
そっけない態度と思われるのも都合が悪いだろう
だから僕は、真面目に答えることにしたんだ。
「僕が思うに、きっと物事に対して
裏や、其処に至る道を知らないからじゃないかな」
余計な事まで考えずに済むから、子供というのは
真っ直ぐに対象を捉えることが出来る。
夢なら夢
愛なら愛
シンプルだからこそ美しく思える
宝石の様な眼差しを向けることが出来るのだ。
「‥‥‥でも、憧れや夢は、それ自体が曇ってる訳じゃないですよね、大人になると
どうして真っ直ぐな目で見れないんですかね?」
強い眼差しを向けて
女は呆れるように言った。
いや、僕に聞かれてもな。
正直そう思った
ていうかこの女、何処に話を持っていきたいんだ?
子供はピュアで良いよねって話じゃないのか?
いや、そうか
子供の話じゃなくて、最初から大人になると
何故曇るのかって話か
いや待てよ、尚更僕に聞いてきた意味がわからない
「‥‥‥あの、もしかして僕の目って
曇ってる様に見えるんですかね?」
少し棘のある聞き方だったかもしれない
が、それも仕方ないだろう。
子供の話じゃないとしたら
それこそ意味がわからないからだ。
なんの脈絡もなしに
こんな話を振られたら
喧嘩を売ってると思われても
仕方がないだろう。
「昔は、澄んだ瞳で夢を聞かせてくれたり
してたじゃないですか?
でも
今の貴方は、電車で一緒になっても
話しかけてくるなってオーラを出して
つまらなさそうに、つまらないことを
喋ってるから
変わったなって思ってます。」
僕はそこまで言われて初めて
まじまじと女の顔を見た。
大人になって眼鏡をかけているが
よく見れば初恋の女の子だった。
「今気付いたのね、呆れた
昔は、あんなに澄んだ眼差しで
愛を語ってくれてたのにね」
僕は何も言えなくなっていた
確かに子供の頃、彼女に対して必死に
夢を語っていた
結婚しよう
一緒になろう
絶対に幸せにする
そんなようなことをアピールしていた
なのに今、僕は彼女に言われるまで
そんな事もすっかり忘れていた。
彼女は、冷めた瞳で窓から景色を眺めていた。
なんとか汚名返上しようと
あれこれ考えたが、それこそ曇りだと
彼女の、もう用が済んだ瞳を見つめる事しか
出来なかった。
彼は決して、その場を動くことはなかった。
北の地の八男として産まれた彼は、首都に住む
著名な教授に買われた。
似た境遇の先輩であるジョンとエスの世話になり
彼はとても幸せであった。
しかしそんな満たされた生活が長く続くことは
なく、教授は僅か1年足らずで急死してしまった。
彼は、多方に引き取られては問題を起こし
時折逃げ出しては、教授といつも行っていた場所で
教授を待っていた。
美しく白い彼は、そんな日々に身体を汚し
時には心無い人々に苛められもしたが
主人を待つその姿に心打たれた人に
愛されもした。
だが本当に愛されたかった人が
彼の前に現れることは決して無く
10年の月日が流れた。
彼はその身に病を患っていた。
寄生虫に蝕まれ、肺に水も溜まり
襲われた片耳はしなだれるように閉じていた。
ある日、彼はいつもの場所から離れた所で
事切れていた。
誰にも看取られず、本懐も果たせず
晩年周りに慕われるようになっていたが
最後は孤独な死を迎えた。
人々はそんな彼を想い
いつもの場所に銅像を建てた。
決して動かない忠犬ハチ公。
嵐が来ようとも。