「お前とまた飯が食えればそれで良かった。でも俺は、もう箸も持てねぇんだ」
手があったはずの場所を見つめ、ははっと笑った。初めてあいつの涙を見た。
世界を守るためとかいう大義名分のもと、孤児院から拾い過酷な戦闘訓練を積ませ侵略者と戦わせる。自分たちはただの駒に過ぎないことは気付いていた。多くの仲間を失いながらもあいつと2人、なんとか生き延びてきた。貧相な飯を並んで食うのが唯一の楽しみだった。本当は世界なんか知ったこっちゃない。ただ、あいつと飯が食えればそれで良かったんだ。そんな細やかな日常だけで良かったのに。
一番古い記憶は幼馴染家族と行った近所の小さなお祭り。3歳位だっただろうか。人混みで親とはぐれて泣きそうになりながら、2歳年上の彼と手を繋いで探し歩いた。
職場に母が倒れたと連絡が入り、同僚に謝り倒して病院に向かった。すでに手術を終えていた母はたくさんの管に繋がれたまま穏やかに寝息を立てていた。久々に見た母の顔はシワやシミが増え、痩けている。しばらく帰省していなかったことに気付いた。
「久しぶり」
ぼんやりと痩せ細った母の手を撫でていると、聞き慣れない声が聞こえた。小学生以来ろくに話もしていなかったはずなのに、顔を見ると何故か安心した。
「ありがとう」
無意識に目頭が熱くなる。静かに隣に座ると、するっと手を繋がれる。こんなゴツゴツした手は知らないはずなのに、懐かしい温かさに涙が溢れた。
彼女はいつも綺麗だった。彼女の周りにはいつも人が集まっていた。その真ん中で誰よりよく笑うのが彼女だった。いつも楽しそうだった。教室の片隅で空ばかり見ている私とは違う生き物だと思っていた。
あの日、特に理由はなかったがいつもより早くに教室に着いた。しんとした教室で、彼女は独り空を見ていた。足音に気付いて振り返った彼女はすぐにいつもの笑顔を見せた。目が赤くなっていることに気付かないわけはなかった。
「……バレた?みんなには内緒ね」
いたずらっぽくまた笑った。私は何も答えられなかった。どうしたの、なんて聞けるほどの距離じゃない。ただ頷くのが精一杯で、席に着いた。
「聞かないの?」
彼女は私の隣の席に座った。正解が分からずに曖昧に首を傾げた。
「私ね、好きな人がいるの」
聞いてもいないのに彼女は一方的に話し始めた。好きな人がいるけれど、その人に気持ちを告げるわけにはいかない。そんなことをつらつらと語っていた。
廊下から生徒の声が近づいて来て、ようやく彼女は話を切り上げた。
「私、あなたの事好きよ」
いつもの笑顔を残し、自分の席に帰っていった。
それから、時々人のいない教室で彼女は私に秘密の話をするようになった。私はいつも相槌を打つだけだったが、彼女の話は嫌いじゃなかった。
彼女が死んだのは突然だった。いや、本当は気付いていた。彼女の秘密の話はSOSだったと。本当は騒がしいのは苦手で、独りで本を読むのが好きで、男性を好きにはなれなくて。周囲のイメージに合わせて完璧な自分を作り上げてきた彼女は疲れていた。彼女は話し終えると決まって「つまらない話ばっかりでごめんね、ありがとう」とまた完璧な笑顔を見せた。
「部屋の片隅で」
この6畳のボロ家。隙間風に凍えて薄っぺらい布団に包まり、邪魔にならないよう部屋の隅に縮こまって母の帰宅を待つ。大抵は雑にドアを開けて、そのまま布団に倒れ込む。すぐにいびきが聞こえてきて、ようやく隣に寝転ぶ。たまに機嫌がいいときは塩っぱい焼きそばを作ってくれる。知らない男がやってくることもある。慣れた男は私のことなんて見やしない。初めての男は汚らわしいものを見るように睨む。仕事の顔の母と女の顔の母。この狭い部屋の片隅から見える薄っぺらい母の人生。それにすがるしかない私。ここから出ていく術を知らない
「逆さま」
愛してるなんて言ったくせに、
クリスマスも誕生日も隣にはいなかった。
今年はいるんだね。
好きだとすらもう言わないのに。