『麦わら帽子』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
麦わら帽子の少年は今も旅を続けていて、
どこぞの名探偵は未だ小さいまま。
それとは対照的に、僕は髭の生えた顔で迷子。
生きる事が仕事になっていた。
夏の朝早くから
畑で汗を流し
おいしい野菜を作ってくれた
父。
今でも
麦わら帽子をかぶって出かける
後ろ姿がうかびます。
ありがとう。
しあわせな時間。
あなたの娘でよかった。
先駆者、今の流行りを2,30年前に既に取り入れていた人がすごいと持て囃される様を見るのが好きではないのだと今日わかった。
「今こんな流行ってて主流みたいになってるけど当時はなにこれ!?ってなってたんだよ〜」
当時新しかったからすごいわけではなく、新しいやり方を切り開き、それが現在流行っているからすごいと言われるのだということはわかってる。それでも、なんだか今その流行りの質を高めて取り入れている人が少し下に見られている感覚がして不快に思ってしまうのはなぜだろうか。
「今これで有名な人いるけど、この人らがいなかったらこんな人気になってないよ。」
というような微かな蔑みのようなものが見えるからだろうか。もっと直接的に言うなら
「今人気の人はこの人らの猿真似に過ぎない」
こんな感じか。
どうしても、その先駆者本人でもないのにどの立場からマウントを取っているのか理解できないし、当時先駆者をリアルタイムで追えて陶酔していたことが先駆者程価値のある人になれる条件でもないのになと思った。
先駆者は自分の功績をすごいだろ!と主張することは少ないのではないか、周りの信奉者やその功績から出る利益を目的とした団体、得た知識を駆使して良さを知ってもらいたいその道の専門家などが代わりに主張することで広く知れ渡っていくのだろうなと考えた。
その中でも良く言えば影響力がある、悪く言えば声が大きいのは信奉者だろう。専門家や団体よりも圧倒的に信奉者の声が大きく感じるのはなぜだろうか。
「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ…」
小川の水飛沫
ちらちら 木漏れ日
蝉しぐれ
ゆらり かげろう
空をきる虫とり網
ぱたぱた 駆けていく子ら
ラムネの瓶をつたう雫
アイスを選ぶ親子のうしろ姿
麦わらのつば越しに
見上げるひこうき雲
いつかの夏の日
麦わら帽子
《麦わら帽子》
帽子は苦手
でも見るだけなら好きだなぁ
夏の暑さを
涼しげに見せてくれるから
わかば
━━━
《麦わら帽子》
太陽にかざして
日差しを感じる
この隙間から
スルスルと流れ落ちるように
あなたの気持ちも
流れていってしまったのだろうか?
心の隙間が涼しいよ…
あおば
チャレンジ22(麦わら帽子)
麦わら帽子と虫取り網、麦茶といえば夏の定番アイテムだ。あごひもがついていて飛ばされないように工夫されている。子供用だからかと思ったが、大人の麦わら帽子にもあごひもがあって、便利である。
麦わら帽子は、もう消えた、と歌ったのは、吉田拓郎の「夏休み」であるが、麦わら帽子は大人になっても頼れる味方である。
麦わら帽子が良く似合うおじいちゃんとおばあちゃんお揃いで出かける姿が微笑ましい。いつまでもそのまま元気で過ごして欲しい。また会いに行くから。
麦わら帽子
カンカンの太陽
高く伸びる向日葵
リンリンとなる風鈴
ビンラムネのカラカラとなる音
蝉の声
そんな昼間も素敵だな
暑くて何もやる気が起きなくなるけれど
そんな季節があるから別の季節も楽しくなれるんだよね
麦わら帽子の編み込みの交差を縁どりあるペンでザクザク描いてる絵っていいよね。
自分でやろうとすると発狂するんですけど。
「麦わら帽子」
風が盗んだ日輪草
暢気にひゅるり飛んでゆく
ワンピースの裾もて余しながら
急いた足音駆けてゆく
【麦わら帽子】
パ、と視界が僅かに暗くなった。
先程まで見えていた世界の上半分が隠されたことに不安になって隣を見ると、そこには変わらず背ェ高な知り合いのベルトがある。その事に呑気に安心感を覚えて少し笑えば聞こえていたらしく、被せられた麦わら帽子の上から頭をガサガサ撫でられた。
「あはは、ごめん、ごめんって。ありがとう、お陰で倒れちゃうところだった。」
ジーワジーワ、季節は夏だ。遮蔽物の無い田んぼのど真ん中、水も持たず帽子も被らずで歩いていればそりゃあ幻覚だって見えるだろう。
ジーワジーワ、ジリジリジリ。このクソ暑い中、彼らは元気なことだ。
「幻覚だもんね。大丈夫。気のせいだって分かってるよ。」
麦わら帽子を目深に被り直す。転ばぬよう足元は見えるように、揺らぐ炎のような蜃気楼と、遠くの山々が見えないように。
ジーワジーワ、ジィワ、ギィヴァ、ギュウィゥ、ヴァア。腐れた喉でうるさいくらいにないている彼らのことが、目に入らないように。
「うん。帰るよ、ちゃんと。おばあちゃんとスイカ食べるもんね。」
カサ、と撫でる掌は肯定を示していた。僅かに見える白シャツ、黒いスラックスに黒いベルト、大きな焦げ茶の革靴がその向きを反転させる。それに習って自分も来た道に向き直って、はて、と首を傾げた。
「私、どうやってここに来たんだっけ?」
もはや聞き取れなくなった呻き声がうるさい。焚き火の前のように視界が揺れる。夏の風に混じってバラバラと音がする。ひゅう、どかん。うるさい。暑い。熱い。
忘れな、とでも言うように後頭部を軽く二回叩かれて、はっと我に帰る。そうだ、どうせ何もできないのだ。彼らも、私たちも。過去の傷を癒せるものは時間以外にもありはしない。動き出した長いコンパスに置いていかれぬよう、せっせこ足を動かすのに専念することにした。
飛ばないように
片手で押さえた麦わら帽子
その反対の手をとって
きみと歩く砂浜
この夕日が
海の向こうに帰ったら
きっと別々の場所に帰る僕ら
それが
いつもより少しさみしくて
きみの頭の上から
奪い取ったそれに
隠れて重ねた 唇と影
【麦わら帽子】
麦わら帽子
夏になると毎年のように、気に入った帽子を捜す。ネットや、通販のカタログ、終いには生協のチラシまでみてる。要は、自分に合うのが見つからないと言うことなのだ。
何年か前の、小田和正さんの新曲のポスターが麦わら帽子を肩に下げた後ろ姿だった。麦わら帽子なんてわたしの周りには存在しなくなり随分経つから、なんだ新鮮だったのを覚えている。少年のような感覚を醸す材料なのだ。
そっか、と思う。日除けのが帽子なら、麦わら帽子でいいんだ!と。ただし、いい歳の人間には街中の麦わら帽子はすごく勇気がいるのだと、クスッと笑ってしまう。
よく知った物でもとても距離のある物の一つなのだと思う。
麦わら帽子
麦わら帽子を見ると思い出す
貴方の事を
貴方がくれた宝物
麦わら帽子をくれた時貴方は言った
” これを被って海へ行こう”
〖 麦わら帽子 〗
夏の日の麦わら帽子。
あの日なくした麦わら帽子が、
ある海辺で見つかった。
その麦わら帽子はボロボロで、
被ることすらできなかった
「麦わら帽子」👒
幼稚園のとき持ってた麦わら帽子が、大好きだった。
一生かぶるんだって思ってた。( ー`дー´)キリッ。
当然、しばらくしたらかぶれなくなった。(;_;)。
でも、質感を覚えてる。
麦わらのざらざら、リボンのさらさら…
くるんとしたフォルム。後づけのアップリケ…
あれ、また欲しいなぁ~
かぶれなくても大事にするんだけど。
「神さま、私の麦わら帽子、どこ行っちゃたんだろう?」
…とある映画の一場面のように、呟くのだった。
…そして何だか主題歌まで、歌い出すのであった🎶
✾映画では神さまじゃなくて、母さんですが🐾
【麦わら帽子】
麦わら帽子って大きいじゃない?
だから、顔もすっぽり隠せるの
そこで泣いてたら
貴方はどうする?
麦わら帽子っていったらルフィしかわかんないんだけどw
情緒最近おかしすぎて全くわかんない〜💦
麦わら帽子
日差しが焼けるように熱く、吹く風も熱をはらんでいる。
帽子だけでは足りなかったか。
そう思いつつも足は止めず、被っている麦わら帽子を風に飛ばされないように手で押さえる。
道は黒く熱を持ち、空は雲一つ無い。道の両端に咲く向日葵はギラギラと降り注ぐ光を纏っている。
近所へのお使いにしては過酷である。手にぶら下げた西瓜の紐が食い込んで痛む。その腕も日光を浴びてヒリヒリし始めた。
早く置いて帰ろう。
またも吹いた熱風に対し麦わら帽子を押さえつつ足を早めた。