『特別な夜』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
特別な夜
サラサラの雪が降る。
視界が少しくすんでる。
名前を呼ばれた気がして、
真っ赤な帽子が目に刺さる。
シャラン、シャランと
涼やかな鈴の音。
真っ白な世界に
ふわり、
漂う魂。
もう、さみしくないね
特別な夜
初めからわかっていれば、
ありふれた夜になどしなかっただろう。
あの夜を僕は。
失くしてから気づいて、
どれだけ悔やんでももう帰っては来ない。
あの特別な夜は。
あれから時は流れたけど、消えないんだ。
君の笑顔が瞼の裏に、
君の声が耳の底に、今も。
ずっと、いつまでも。
#153
「良い式だったね」
隣で彼がお通しをつつきながら言う。そうだね、みんな喜んでくれて良かったね。私の言葉に彼はにこりと笑った。まだ飲み始めてそんなに経ってないのに頬が少し赤みを帯びている。
人生の一大イベントが今日行われ、私達は夫婦になった。挙式、2次会が終わってもうすぐ日付を跨ごうとしてる。緊張と興奮がようやく落ち着いて空腹を感じた私達は今、ホテルの近くの居酒屋チェーン店に来ている。
「俺すっごい緊張したけど、君はそうでもなかったよね」
「そう?」
「うん。堂々としてた。指輪交換の時なんか、危うく俺、落としそうになってたってのに」
「そうそう!あの時は私も笑いそうになっちゃったよ」
がっちがちに緊張してたもんね。真っ白いタキシードがこれまた笑いを誘うって言うか。格好良い姿のはずなのに最後まで慣れなかったなあ。
「すごく楽しかったな。幸せな時間だった」
「そりゃそうさ。これから先はもっと、君は幸せになってもらわなきゃ困るんだから」
「うん」
箸を置き、私にしっかりと向き直る彼はひどく真剣な顔をしていた。左手に光るリングが目に入る。あぁ、私本当に結婚したんだ。そのことをじわじわ感じてくる。嬉しくて、涙が出そうになる。
「改めて。今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ」
変な挨拶、と笑いながらもきちんとお返事をした。ほろ酔い気分で夫婦になった1日目の夜が過ぎてゆく。この人と、これから先一緒に歩いてゆく。それを思うとまた胸の奥底からドキドキするのを感じた。
どう考えても特別な夜でした。
『特別』と言っても、私の日常の端くれにおけるつまずきのような物でしたが。
その夜、兄は『自殺しようとして辞めた事がある』と突然言いつけるように私に言いました。私は言うまでもなくぼーっとしていて、
『へぇ。』と、一言だけ置くように呟きました。
家の3回のベランダの縁にたってみたそうで、なんだかんだでやめたそう。
普段なら私の理解の外側にいる意味のわからない人間としか思えずにいた兄という存在に対してすこし、同情したことが、どう考えても特別だったのです。
私も、自分の腹に包丁を突き刺そうとしたことがあります。
できませんでした。
情けないのでしょうか。そんなことも無いのでしょうか。誰かが私の心の冷たいのを取り除いて寄り添うように、慰めてくれるのでしょうか。誰かが自分で出来ないならと、代わりにやってくれるのでしょうか。
そんなわけないと、私が怖く私を睨みつけるのです。
ならどうすれば良かったのでしょうか。
お題「特別な夜」
嫌なことがあった日に飲む酒は最高だが、それよりはるかに価値があるもんを、俺は知っている。
プルルル……、カチャ。
少し長めのコール音が鳴りやんで、
『あ、もしもし?』
と、あんたが声を出す夜。
「もしもし。今日も元気そうでつまんねぇな」
『なにおぅ!?』
あんたにとっちゃなんでもなくても、俺にとってみれば他のなににも堪えがたい夜だ。
▶特別な夜 #56
たまには良いじゃん。
いつも頑張ってるんだから。
ちょっとだけ贅沢して
美味しいもの食べて
夜更かしして
満喫しながら
朝を待つの。
ため息たくさんつく代わりに
自分にご褒美。
–特別な夜–
特別な夜
あの日の勝ち試合はよく覚えている
あなたが私に大好きをくれたあの特別な夜のこと…
私が初めて選手を意識して観た試合であなたは最初に点を決めたのがとても嬉しくて…
あの日…あの試合であなたは私に大好きを教えてくれたんだよ
自分の心がよく分からなくて…悩み苦しんできた私に…あなたは大好きをくれたんだよ…
だから…あの夜は私にとって特別な夜でもあるんだよ
'特別な夜"
もう3年前のことだけど
元彼と初めて夜電話したとき
それは間違いなく
私にとっては特別な夜だった
雪の降る夜。
僕は君に言葉をかける。
君が頷く。
そんな君の頬は赤く染まっている。
僕と君。
目を合わせて微笑む。
ただの夜が、今、特別な夜になった。
お題「特別な夜」
姪が夜ご飯食べに来る日曜日は特別なんです
独身なので我が子はいないんです
なのでたった一人の姪はかわいい
今は連れのように話すけれど
もう少し大人になったら離れていくんだろうな
覚悟はしているけれどやっぱり寂しい
だから夜ご飯食べる日は特別なんです
と 共に生きていくという証。
く クリスマスの夜に、私たちはそれを見つめていた。
べ 別に今日じゃなくてもよかったんだけどね。
つ つい、こんな日だからと成り行きでなってしまった。
な 生意気な性格も好き。
よ 夜、気遣って外に出てタバコを吸いにいくのも好き。
る ループする恋の気持ちが、頭の中で渦巻いていた。
お題:特別な夜 2024/01/22
⌇特別な夜⌇
私にとっての特別な夜
それは唯一あなたと電話ができる土曜日の夜
特別な夜
暖かいご飯、雨風しのげるお家、家族みんなで仲良く喋る時間。そんな日々が特別で大切
なんて言ってみたかった。もう何日も貰えてないご飯、いつも帰ることを禁止されてるお家、殴ってくるパパ。何も変わらないいつもの夜
今日はクリスマス?というイベントがあるらしく街の人達は皆にこにこしている。
いつもの場所でいつもの商品を売っている私にはあまり関係ない話だ。
でも、皆がご機嫌な今日なら商品を買って貰えるかもしれない。そう考えた私は声を張り上げ「マッチ入りませんか?」と問い掛ける
私が声をかけると皆笑顔を無くし「要らない」と断る様に早足で去っていく
今日も駄目みたいだ。
寒さと空腹に耐えきれず、今日も幻に逃げる。何度も何度も幸せな夢を見るけれど、何度も何度もその幸せは消え残酷な現実だけが残る
小さな星が流れる
現実に残されたのは痩せ細った少女の死体とマッチの燃えカスだけだった。
少女が死んでしまった特別な夜。
少女が死んでしまっただけのいつもの夜。
「お兄ちゃん、しあわせそうだったね。」
「まあな。」
式が終わりひと段落着いた時に言われた妹からのひとことを噛み締める。
一生に一度しかない特別な夜。
幸せだ。
240121 特別な夜
お題:特別な夜『フルムーンパーティー』
月の満ち欠けで体感時間、いや世界の見え方が変わることに気付いたのは、確か高校に入学してからのことだ。
簡単に言うと、満月の日は周囲の動きが遅く感じ、新月の日は逆に速く感じられるということ。
僕は子供の頃から、マイペース、ぼんやりしているなどと言われて育ってきた。
多分だけれど、僕は勉強も運動も人並みよりは上手くできる子供だったと思う。
けれど、どうしようもなく駄目な日が定期的に訪れた。
浮き沈みが激しい、勿体ない、何故集中が続かないのか。
親も教師も首を傾げた。
僕だって、好きでそうしているわけじゃない。
同じように一生懸命やっているつもりなのに、どうしようもなく身体が重くなり、思考は持ち上げたパズルの様に崩れていった。
もがけばもがくほど、水底へ沈んでいく様な感覚。
この周期が月の満ち欠けに関係していることに気付いたのは、高校1年生も終わりかけ17歳の時だった。
満月が近くなると、次第次第に思考が加速してゆく。
特に月が天頂に昇る深夜、目が冴えて活力が漲る。
周囲の動きがスローモーションに見えるようになる。
新月の日はその逆だった。
何をやっても駄目なその日、なるべく人と口をきかず目立たないことだけに専念した。
しかし学校や社会というのは、常に一定の頑張りが出来ない人間を排除するものだった。
僕は学校を休みがちになり、深夜徘徊をするようになった。
ただ、満月の夜に焦がれて生きるようになった。
ー特別な夜ー
特別な夜とはどんな夜なのだろう、答えは人それぞれだが、私は無限の夢を見られた夜を思った。
夢だって寝ている夜という時間の1部なのだから、入れても良いだろう。
そう、夢である。私はよく夢を見る。
どんな夢なのか、ほとんどが昼になった頃には忘れてしまうような内容をほぼ毎日見る。
その中の夢、無限の夢を見る事は稀であり、私にとってとても特別なものとなる。
無限の夢と言われても想像が着きにくかったことだろう。
私も表現させるのに時間を要し、どうにか無限という言葉を使ったが、私の言う無限の夢とは、とても自由で、非現実的で、なんとも言えない、寂しいような、懐かしいような、とは言っても初めての感覚。
このもどかしいような表現が伝わるだろうか、
その無限の夢は、その日の楽しかった出来事も、辛かった出来事も全て忘れて、ただ、身体を休めながら同時に心を落ち着かせてくれるのだ。
誰かが見ている訳でもない、何も気にする必要が無い。だからこそとても自由であり、こんなことは非現実的だろう。
私はこの夢に取り込まれることで疲れをとり、明日への、ほんのわずかだか勇気を貰う。
特別な夜を経て、その次へと、また特別な夜が来る時を願って
また今日も起きて、食べて、そして寝る。───
別に何の理由もない。ただの興味本意。
両親が親戚の結婚式に泊まり掛けで行き、その日は一人だったので
ついチャレンジしたくなってしまったのだ。
そして買ってきた冷凍餃子を作っちゃ食べ、作っちゃ食べ
調子に乗ってとうとう60個を食べた夜
胃が重くて眠れなくなった。
横になると色々危険なので、息絶え絶えで壁に寄りかかって座る。
多分アルコールが入ってなければ大丈夫だったのよ、きっと。
はあ、苦しい。
「あなたは胃を怒らせ過ぎた。
もう、キャベジンも効かない!」
と何処からか凛とした声が響く。
はあ。
いや、本当反省。こんなバカな真似は二度としません。
…涙がにじむ、後悔ばかりの特別な夜が過ぎていく。
(特別な夜)
リスク社会としての現代 大澤真幸
リスク社会とは
社会学にはどの視点から捉えても、「救済」や「希望」の可能性を見出すことがむずかしい社会システムを分析するための概念が、すでに準備されている。「リスク社会」なる概念が、それである。リスク社会とは、環境問題やテロのような社会的レベルから、家族崩壊や失業のような個人的レベルまでの、さまざまなリスクの可能性にとりつかれた社会である。
リスクとは何か? リスクは、とりたてて現代に現れたものではなく、伝統社会にもあふれていたのではないか? たとえば自然災害の脅威――それは伝統社会においてより大きかったはずである――は、リスクではないのか? そうではない。そのことを理解するためには、リスク(risk)と危険(danger)との相違を把握しておかなくてはならない。リスクは、選択・決定との相関でのみ現れる。リスクは、選択・決定に伴う不確実性(の認知)に関連しているのだ。リスクとは、何事かを選択したときに、それに伴って生じると認知された――不確実な――損害のことなのである。それゆえ、地震や旱魃のような天災、突然外から襲ってくる敵、(民衆にとっての)暴政などは、リスクではない。それらは、自らの選択の帰結とは認識されていないからである。とすれば、リスクが一般化するのは、少なくとも近代以降だということになる。社会秩序を律する規範やその環境が、人間の選択の産物であるとの自覚が確立した後でなければ、そもそも、リスクが現れようがないからである。
だから、リスクの一般化は、アンソニー・ギデンズが近代の本質的な特徴として挙げている「再帰性(reflexivity)」を必要条件としている。どのような行為も規範を前提にしている。ギデンズによれば、近代社会においては、その規範への反省的・再帰的な態度が浸透し、常態化している。すなわち、規範を「変えることができる/変えるべきである」との自覚を前提にして、規範が不断にモニタリングされ、修正や調整がほどこされるのが、近代社会である。リスクは、再帰的近代に至らなければ、ここかしこに見出されるような状態にはならない。実際、「リスク」という語は、近代社会になってから出現した語であり、その語源は、イタリア語の「risicare(リジカーレ)」らしい。このイタリア語は、「勇気をもって試みる」という意味であり、選択や決断ということとリスクとの繋がりが暗示されている。このように、リスクの一般化は、「近代であること」を必要条件としている。
リスクの二つの特徴
リスク社会のリスクに関して直ちに見出しうる特徴をはっきりさせておかなくてはならない。リスク社会のリスクには、二つの顕著な特徴がある。
第一に、予想され、危惧されているリスクは、しばしば、きわめて大きく、破壊的な結果をもたらす。たとえば、温室効果ガス(二酸化炭素等)の増大に代表される、自然生態系の破壊は、リスクの典型だが、その結果は、場合によっては、人類の、あるいは地球の生物全体の絶滅でさえありうる。あるいは、テロもまた、リスク社会のリスクだが、それがもたらす死傷者数や精神的なダメージがいかに大きなものであるかを、われわれはすでによく知っている。
第二に、このようなリスクが生じうる確率は、一般に、非常に低いか、あるいは計算不能である。たとえば、地球の温暖化によってある島が完全に水没してしまう確率を、きちんと算定することはほとんど不可能である。あるいは、東京やロンドンのような、先進国の大都市で無差別テロが起こりうることは分かっているが、その確率は、非常に低いと見積もらざるをえない。
つまり、リスクがもたらす損害は、計り知れないほどに大きいが、実際にそれが起こる確率は、きわめて小さい(と考えないわけにはいかない)。それゆえ、損害の予想(確率論でいうところの期待値)に関して、人は、互いに相殺しあうような分裂した感覚をもたざるをえない。
述べてきたように、リスク社会は、社会システムが、マクロなレベルでも、ミクロなレベルでも、人間の選択の所産であることが自覚されている段階に登場する。システムの再帰性の水準が上昇し、システムにとって与件と見なされるべき条件が極小化してきた段階の社会である。このとき、ときに皮肉な結果に立ち会うことになる。リスクの低減や除去をめざした決定や選択そのものが、リスクの原因となるのだ。たとえば、石油等の化石燃料の枯渇はリスクだが、それに対処しようとして原子力発電を導入した場合には、それが新たなリスクの源泉となる。あるいは、テロへの対抗策として導入された、徹底したセキュリティの確保は、それ自体、新たなリスクでもある。このように、リスクそれ自体が自己準拠的にもたらされるのである。
倫理の転換、民主主義の危機
リスク社会は、古代ギリシア以来の倫理の基本を否定してしまう。どういうことか? アリストテレスが述べたことは、美徳は中庸の内にある、ということだった。だが、リスク社会のリスクを回避するためには、中庸の選択は無意味である。中庸が最も価値が低く、選択は両極のいずれかでなくてはならない。たとえば、地球の温暖化を避けるべく、二酸化炭素の排出量を下げる――石油の使用を抑制する――べきかどうか、が問題だとしよう。近い将来――このまま石油を使用し続けた場合に――、地球がほんとうに温暖化するのかどうかは、誰にも分からない。このままでは地球が温暖化するのだとすれば、われわれは、二酸化炭素の排出量を大幅に下げなくてはならない。だが、逆に、温暖化はまったくの杞憂なのかもしれない。その場合には、われわれは今のまま、石油を使用し続けてもかまわない。確率論が示唆する選択肢は、両者の中間を採って、中途半端に石油の使用量を減らすことだが(被害の大きさと生起確率が互いに互いを相殺するような効果をもつので「期待値」が中間的な値をとるから)、それこそ最も愚かな選択肢である。もし温暖化するのだとすれば、その程度の制限では効果がないし、また温暖化しないのだとすれば、何のために石油の使用を我慢しているのか分からない。結果が分からなくても、結果に関して明白な確信をもつことができなくても、われわれは、両極のいずれかを選択しなくてはならないのである。
さらに、こうした態勢は、民主主義的な決定の基盤を切り崩すことになる。政治的な意志決定に、民主主義が採用されるのは、何が真理なのか、何が正義なのか、誰にも分からないからである。こうした状況で、民主主義は、次のような次善の策を採る。普遍的な真理や正義があるとすれば、それは、理性的な人間のすべてが合意するはずなのだから、多数派が支持する意見こそ、正義や真理に最も近似しているに違いない、と。つまり、民主的な決定は、多様に分散する諸意見の中から、多数派の見解が集中する平均・中間を真理や正義の代用品として用いるのだ。だが、述べてきたように、リスクへの対応においては、平均や中間は無意味である。半数前後の者が反対する極端な選択肢を採らなくてはならないのだ。
「知」と「倫理的・政治的決定」の断絶
リスク社会がもたらすもうひとつの効果は、「知」と「倫理的・政治的決定」との間の断絶があからさまなものになってしまう、ということである。学問的な認識と実践的な決定との間には、決して埋められることのない乖離がある。前者から後者への移行には、原理的に基礎づけられない飛躍がある。だが、しかし、近代社会は、両者の間に自然な移行や基礎づけの関係が成り立っているとの幻想によって、支えられてきた。たとえば、特定の経済政策は、経済学的な認識によって正当化されると考えてきた。あるいは、生死についての倫理的な決断は、医学的・生理学的な知によって支持されうると信じてきた。だが、リスク社会は、知と倫理的・政治的決定との間にある溝を、隠蔽しえないものとして露呈せざるをえない。なぜか?
科学に関して、長い間、当然のごとく自明視されてきたある想定が、リスク社会では成り立たないからだ。科学的な命題は、「真理」そのものではない。「真理の候補」、つまり仮説である。それゆえ、当然、科学者の間には、見解の相違やばらつきがある。だが、われわれは、十分な時間をかければ、すなわち知見の蓄積と科学者の間の十分な討論を経れば、見解の相違の幅は少しずつ小さくなり、ひとつの結論へと収束していく傾向があると信じてきた。収束していった見解が、いわゆる「通説」である。科学者共同体の見解が、このように通説へと収束していくとき、われわれは、――その通説自体が未だ真理ではないにせよ――真理へと漸近しているのではないかとの確信をもつことができる。そして、このときには、有力な真理候補である通説と、政治的・倫理的な判断との間に、自然な含意や推論の関係があると信ずることができたのである。だが、リスクに関しては、こうしたことが成り立たない。
というのも、リスクをめぐる科学的な見解は、「通説」へと収束していかない―いく傾向すら見せないからである。たとえば、地球がほんとうに温暖化するのか、どの程度の期間に何度くらい温暖化するのか、われわれは通説を知らない。あるいは、人間の生殖系列の遺伝子への操作が、大きな便益をもたらすのか、それとも「人間の終焉」にまで至る破局に連なるのか、いかなる科学的な予想も確定的ではない。学者たちの時間をかけた討論は、通説への収束の兆しを見せるどころか、まったく逆である。時間をかけて討論をすればするほど、見解はむしろ拡散していくのだ。リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見解の間の分散や懸隔を拡張していく傾向がある。このとき、人は、科学の展開が「真理」への接近を意味しているとの幻想を、もはや、もつことができない。さらに、当然のことながら、こうした状況で下される政治的あるいは倫理的な決断が、科学的な知による裏づけをもっているとの幻想ももつことができない。知から実践的な選択への移行は、あからさまな飛躍によってしか成し遂げられないのだ。
学校の遠足ではないけども、お出かけの前日の準備はワクワクする。
おやつは何を持っていこう、とか、お昼ごはんは何処で食べようか、なんて。
学生の頃より遥かに減った荷物を、お気に入りのカバンに詰めていく。
チョコ、ラムネ、柿ピー、ジャーキー、チータラ、ポテチに五家宝。
どんだけ遠くに行くつもりなんだ。
君の呆れたような声が背後から聞こえた。
テーマ「特別な夜」
特別な夜
映画を見ながらホットココアを飲む。
ちょっと特別な夜になる。