『旅路の果てに』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
駆け落ちをしよう。私達が許されることはないんだ。
きっと父君はたくさん人を寄越すだろう。私はきっと振り切ってみせる。
君は小柄だから、騒ぎに紛れて街を出ると良い。
海に行こう。海風に揺られながら、そこで一生を過ごすんだ。
大丈夫。もしお互いが分からなくなっても、きっと出会えるように約束をしよう。
“会いたいと海に向かって欲しい”
それだけだと不安?
ふふ、それなら
“木に名前を書いて見せて欲しい”
これなら、声の出せない君でも出来るだろう?
炭がなければ?削る刃がなければ?
うーん…
うん?血で書く?
君の美しい手が傷つくのは嫌だけれど、会えないのはもっと嫌だものね。その傷でさえ、愛の証だ。
じゃあ、きっと会いにいくよ。海辺で。
あの約束からどれだけ経ったのだろう。どれだけ歩いたのだろう。果てのない独り旅をしているようだ。
けれど、きっと。きっと出会える。
約束したじゃないか。
とれだけ経っても私は彼女を迎えに行くよ。
それにしても、今日の夕日は一等に美しい。彼女と見たかったものだ。上から差し迫る夜の闇が、沈む前の陽をより輝かせて見える。
知らずに入っていたのか、潮が満ちてきたのか。海水が疲れきった足に心地いい。ここは穏やかだ。ここで彼女を待つのも良いのではないだろうか。あぁ、足が鉛のように重たい。
途端に、背中が燃えるように熱くなった。
そこからは、身体がなぜだか浮くように軽い。頭にも靄がかかっているみたいなのに、ただ、彼女を迎えに行くことだけは覚えている。彼女との、約束も。
もし、
あなたが私のイトシイ人かい?
それとも君?
木片に、血の願い、海辺、でも君の顔だけが思い出せない。でも、いつまでも待つから…
長い長い旅路の果てに、今君に会いに行くよ。
今日のテーマを見た時、「旅路」は好きだが「果て」は嫌いだと…ものすごく拒否反応が出た。「今日マジで書くのやめようかな」とも思っていた。
今年は悲しいニュースが多い。まだ始まったばかりの2024年という旅路。おまけに冬はセロトニンの分泌が減るようで暗く考える傾向になるとネットやテレビで観たことがある。
そのダブルパンチに「果て」とか見ると気分が下がる。
でもここで下げたら読者の皆さんの気持ちも下げてしまう。それは避けたい。
旅路の終わりはゴールやピリオドみたいにキリのいい区切りと考えればちょっと重く考えなくて済むかもしれない。
人生は有限だけど、可能性は無限大。
どうせ一度きりの人生という旅路なら自分のためにも人のためにも微力であってもできることをして歩みたい。そしてほんの少し強く優しくありたい。
ほんの2日前まで「あーもう何やっても無駄ならやらねぇ!」とふて腐れにも似た心境で悲しい出来事を見つめていたけど、いろんな人達の声や勇気に触れて大きな波を感じたら、戦う気力が湧いてきた。
まだ諦めてない人達がいる限り、果て…しない無限大の未来を思い描く。前を向く。
テーマ:旅路の果てに
旅路の果ては新天地
そこで咲くか吹き抜けるか
次は何の果てを見よう
[旅路の果て]
花にとまる虫に、空気が美味しい自然。
周りを見渡すとほとんどが畑で、懐かしい団地に思い耽る。
足を動かす度に温かいご飯を楽しみにする。
「懐かしい味」に辿り着くまで、もうそう長くはない。
「ただいま」
ガラガラッという音ともに玄関に響く声。
『おかえりなさい。』
何度も聞いたはずの言葉と声が一気に私を安心に包ませた。
何年も前まではハンバーグが目の前にあったはずなのに、今目の前にするのは味噌汁と白米、焼き魚だった。
「いただきます。」
手を合わせて母を見た瞬間茶碗を持って箸を動かした。
『母の味』というやつなのだろうか。飽きるほど食べたはずのご飯は思わず涙が溢れるほど温かく久しぶりの味だった。
田舎に旅をしてみてよかったと、旅路の果てにやってきて思った。
おれの旅路の果てでは、きっとあいつが待っている
おれより何十歳も若いままの姿で
おれの名前を呼ぶのだ
旅路の果て。
そう考えて到着した先は始まりの地だった。
てっきり知り合いのいない辺鄙な場所をなんとなく想像していた。いや、期待していた。
憧れていた。
だからこそ自分への失望感があった。
こんな場所ではないはずだ。果てというからのは。
行かなければ。
私は再び果てを目指すのだ。
旅路の果てに、
彼がたどり着いた、旅路の果てに
彼は何を見るだろうか
後悔、懺悔、失望、諦念、
どれも彼1人が抱えるには大きすぎる
それでも彼は、
それらを抱え、愛で、慈しんでゆくのだろう
それならば、
私は彼を、
支え、励まし、護ってゆくのが、
務めではないだろうか。
旅路の果てに
ここは何処なのでしょう
真白な空間で 私はふとそんなことを思いました
わかった きっとここは 絵を描くところなんだわ
だってこんなにも真っ白で まるでキャンパスで
好きなように色を塗れるのですから
だから私は 思うがままに色を塗るのです
綺麗で確実な虹色を
ここは何処だろう
色のない空間で 僕はそんなことを思った
でも ここは多分 僕の標本たる場所だ
だって こんなにも彩りがなくて 僕だけがいて
好きにされるがままに 僕は閉じ込められているから
だから僕は 過去を謎る様に紡ぐんだ
嫌悪で透明な虹色を
旅路の果てに出会った世界で
私たちはどんな虹を立てられるのだろう
旅路の果てに行き着いた世界で
僕らはどんな宝物をご拝見出来るのだろう
少なくとも 君が果てで終わるほど 僕な私じゃない
旅先で行方不明になった妻を探すために、
仕事も辞め捜索に明け暮れる日々を送っていました。
現地の警察にも相談して、
彼女が行きそうな場所はくまなく探しましたが、
一向に手がかりが掴めません。
途方もなく町を歩いていると、
とある見世物小屋を見つけました。
私は何か惹き付けられるものがあり、
興味本位で中へ入ってみることにしました。
そこにはステージ上で踊る猫と
それを見て歓声をあげる人々がいました。
キピキピキャパキャパルビルビラバラバ♪
あれは猫…いや、人間?
私は目を見張りました。
はっぴはっぴはっぴぃ♪はぴはぴはぴはぴはぴぃ♫
見間違えるはずがありません。
そこには狂ったように飛び跳ね踊る
妻がいたのです。
その姿は私が今まで見た中で、
一番美しく愛らしかったのでした。
お題「旅路の果てに」
始まりがあれば、それに相応しい終わりがある。
私達は全く別の世界から召喚された寄せ集めのパーティーだった。
そこに住む人間の王に魔王討伐という汚れ仕事を押し付けられて、よくわからない奴等とよくわからない縁もゆかりもない世界の、クソどうでも良い闘いに強制的に参加させられた。
元の世界に帰る為、慣れない異世界で私達はガムシャラに武器を振い、目の前の「敵」といわれた者を屠った。
数十人居たパーティーは半月で私を含めて五人になった。
魔王の城に近付くにつれ物資の供給が滞るようになり、仕方なく殺した敵の肉を焼いて飢えを凌ぐ。
生き血を啜り、死骸をバラして肉を食い荒らす。不味い。
見知らぬ魔王よりも、この世界の人間に腹が立った。
魔王の死体を土産に王都へと帰還する。
良く研いだ長剣の刃が陽を浴びて青く閃いた。
テーマ「旅路の果てに」
旅路の果てにあるものはいつも「別れ」だけだった。
世界から世界を渡り歩き、記録し、記憶し、語り継ぎ、その創世から終焉を見届けたのは数え切れない。
喜びも悲しみも、切なさも、遣る瀬無さも、全ての感情を揺り動かす出来事は忘れることなく覚えている。
けれど、ひとつの世界を去る間際の…あの何とも言えない空虚な思いだけは、未だに慣れることはない。
どこまで行っても自分はその世界では異端なのだと、本来存在すべきものではないと、思い知らされる。
故郷などない、帰る場所もない、止まる術さえなく、ひとつが終わればまたひとつと渡り行く風のように。
風はいつか止む。
この旅路にもいつか終わりは来るのだろう。
それまでにどれほどの別れと出会いを繰り返し、数多の人々とすれ違い、恋人たちを置いて行くのだろうか。
風が止んだ世界の果てでは、幾多の世界に置き去りにしたみなを振り返らなくてはならない瞬間が来る。
旅の終わりを願いながら、その瞬間がひたすら怖い。
まだ、終わらないで…。もう、終わらせて…。
君の隣で笑いながら、君との別れとその先に抱える不安が、静かに、ゆっくりと、胸を黒く侵食していく。
そのたびに「別れ」はもうすぐなのだと悟ってしまう。
【旅路の果てに】
旅路の果てに辿り着くには。この怒りを棄てさらなければならないか。この悲しみと和解しなければならないか。和するとは何か。棄てるとは何か。巡り巡って再び拾うしかなくなったあの日棄てた怒りが、均されず歪さが増された悲しみが。向き合い方がわからない。向き合い方がわからなくて今はただ抱きしめるしかない。そのくらいの停滞は許してくれ。果てなどなくていいと、辿り着けなくていいと、今はただこの身が痛いだけでいいと、私が私に赦させてくれ。
旅の果てにあるものは…
新たな発見
新たな自分
新たな出会い
この旅で
私は
変われたのだろうか
私は、人生とは、長い旅路である、と思っている。もちろんその中で様々な壁に当たったり、躓いたりして、先に進むのが億劫になる時もあると思う。
それでも、先へ進もうとする意思がある限り、人の旅路は終わらないのだとも、思う。その果てに何を見るのかは、きっと個々人で違うのだろう。
何もなかった、と嘆く人もいれば、何かを手に入れて幸福そうにする人もいるだろう。
願わくば、自分も何かを手に入れられる人間でありたい。そう願いながら、今日も果ての見えない旅路を行くのだ。
旅路の果てに
色んな景色を見て色んな経験をしてきた。
もちろんその場その時の感動は素晴らしい物だ。
でもそんな体験をしてきた後の、我が家のおんぼろ布団に包まれて自分の家の空気を思い切り吸い込む時間が1番好きかもしれない
旅路の果てに
高三の夏休み僕は家を出た
理由はまぁ…色々あると思う…うん
宛もなく歩くのは心地が良かった。どこに行くか考える前に歩き出すそんな事は今までしたことは無かったから
今までは大人に言われていたことをしていた。それが正しいと思っていたから僕も、もう18歳もう少しで大人になってしまう。大人になるのは少し怖い。今まで大人に正解を教えて歩いていたが今度は自分で正解を見つけなきゃいけないから
自由に歩けるのも最後だろうな…綺麗な景色を見ながら歩いている。でもまだ旅路の果てを見つけてはいない。旅路の果てを見つけるのは当分先になってしまうだろう。だからこそ今ある綺麗な景色を目に焼き付け見えない正解を見つけるのを楽しみながら生きていきたいと僕は思った
丸の内サディスティック
ジレンマ
食虫植物
さとうもか
ダーリン
人マニア
キケンナアソビ
社会の窓と同じ構図
妄想疾患■ガール
ヤミタイガール
故にユーエンミー
エリート
いかないで
あいしていたのに
少女A
シャルル
少女レイ
ビターチョコデコレーション
君が飛び降りるのならば
アンダーヒロイン
ド屑
甘ったる
バンライフ キャンピングカーは 三畳間
庭付き我が家 不要と悟る
#旅路の果てに
旅路の果ての
本当に本当の果てには
必ず 穏やかなやすらぎがある
だから 恐れることはない
大丈夫
果て
最果て
旅路の果て
こころの果て
いのちの果て
世界の果て
宇宙の果て
はて、「果て」と並べてみると、「果てとはなんじゃろな?」などと考えてしまう。自分でも気軽に使っている言葉なのに。丸い地球の民としては、「たとえばきれいな夕焼け空をひたすら追いかけるとずっと夕焼けの下。速度限界は勘案しないものとする。“果て”を設定するなら、立脚点の条件を定義せよ…実質的に果てってどこよ?」と、アタマがはしる。
人間の脳は、「時間と空間」を、“物理的に、かつ絶対的に、ある”と見なして(つまりは“無い”のだ)知覚しているうんぬんという話が量子物理学研究で論じられている。「物理的な知覚」に概念も対応して発せられるから、「果て」という表現・認識も発生するのだ…と。
しかし、生きゆく人生は量子以上のものだと言って良いと思う。物理的事象の組み上がるプロセスがどうであれ、生きる主体は「存在」であって量子ではない。
人間に限らないが、必ず肉体を伴った生を終えるときが来る。その時点を表現するに、「旅路の果て」と言いあらわすのは間違いではないと思う…少なくとも、大きな、そして大切な、区切り点だ。その後も「存在の旅路」はあるが、でもやっぱり、ひとつの人生の完了は大事なものだと思う。精いっぱい生きたのならなおさら、その人生は愛されてあるべきだ。
私はトシだから、ある程度「次の旅路への移行」をする人達を見送ってきた。二十歳になる前の親友から、時々話した隣人や、長く歩んだ人生を後にした親戚・家族まで、けっこうな人数になる。
「よくある話」だろうと思うが、私にとって大切な、いくつかの「姿」を書いてみる。
祖父が逝去する4日前、私は自宅の台所に居たのだが、突然に澄んだ大きな川のほとりの風景に引き込まれた。空は青く晴れて、川岸に青年よろしくなスタイルで祖父が座り、これ以上ないほどの晴々しい表情で川の向こうを見ていた。私は「ああ、もう出発を決めたんだ」と思い、涙が止まらなくなった。
母が逝去する5日前、母が私の住むアパートのすぐ近くに立ってにっこり笑っていた。元気だった頃にいつも着込んでいた綿入り半纏をはおり、何故か建物の外。勿論、そのときの実際の母はもう入院病棟のベッドから起き上がれないほど弱っていたから、身体を持たずに来たのだ。私は急いで、病室に詰めている父に電話をかけた。
少し前のお題のときに書いた「かっこいいTさん」は、年が明ける前の12月はじめに、例の黒のコートと黒の山高帽、スーツといういでたちでお見えになった。もちろん、身体を持たずの「挨拶回り」でいらしたので、すぐに次へ向かわれた。祖父とも交流のあった方なので、私は仏間に行き、祖父にTさんの来訪を報告した。
何年も前に、私のするべき仕事の時間ぴったりに、必ず「さあ、時間ですよ」と声をかけて下さる方がいらっしゃった。このときは既に鬼籍に入られていた方だった。当時の私はあまりに疲れてしまっていて、時間感覚すらぼやけがちだったのだ…。朗らかであたたかいその方の「響き」そのものが、どれほど私を励まして下さったか、とても一言で表現できない。
誰の旅路も、唯一無二の深さと豊かさが響いている。やっぱり私には、ひとつの人生を終えるときが「旅路の果て」とはどうしても思えない。