『愛情』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
私にとっての「愛情」とは言葉と行動で示すもの
どちらか一方が少なくてバランスが取れないと
それは私にとっての愛じゃない
私以外の人の「愛情」の認識は否定しないし
肯定もしないけど
私のことを知らない人達が
私にとっての「愛情」を否定も肯定もしないで
「愛情」
お母さんは忙しい。
毎日5時に家を出てお仕事へ行く。
お父さんはいない。お母さんはあんまりその人のことをお話ししないけど、わたしには、彼女に複雑な感情がわだかまっているのを、なんとなくわかっていた。
朝、わたしは、いつもお母さんが出て行った後に起きている。
小学校から使っている化粧板のベットから、上半身を起こす。古いスプリングが少し唸った。伸びをすると自分の骨も音を立てるように思える。それから、立ち上がり、リビングへと入る。カーテンはすでに開けられていて、弱い冬の光が、そっと肌を手入れするようにあたる。朝ごはんのパンがテーブルの上に無造作に置いてあった。
「あ」
パンの横に、包みがあった。花柄の布で包まれたもの。
今日はお弁当作ってくれていた!!
わたしの今日は、最強の日だ。
愛情
優しい目を向けて、
信じて見守る…
やさしい気持ち
温かいもの
どんな姿になっても…
どんな感情にも向き合い
…優しい気持ち
心に寄り添い…
安心感
こわくないよ…
いつでもそばにいるよ…
あなたの味方
信じられなくていいの
…ゆっくり…少しずつ…
ラクになっていこ…
だいじょうぶ
一人じゃないよ
そんな…
心に寄り添う愛情や安心感
に触れて…
温かくやさしい気持ち
に感謝…
ありがとうございます…
愛情の表し方が下手なのか
薄情なのか 薄情かもな
もし愛を測る計測器があれば
たぶん平均以下だと思う
#愛情
愛情とは、なんだろうか。
後ほど調べたいと思うが、愛・情に分けて考えてみたい。
愛とは対象に対して、
特別な感情を抱くことではないだろうか。
対象がいて初めて成立し、
その対象に想いを馳せる。
想いを馳せる瞬間があれば良いのだろう。
なにかの拍子に思い出して、
考えるのも実は愛なのかも知れない。
情とは許せるということではないだろうか。
情けと書けるところから思い出したが、
情けをかけることは、相手に対して許せることだろう。
相手の一つ上にいると解釈もできるが、
それだけ許容できるだけの自分がいるということだ。
その許容は感情に左右されてしまう。
ある一定の器に対して感情が溢れてしまえば、
許せないことになる。
愛と情を踏まえて、愛情とは自分が相手に対して距離を置いて想いを抱くことではないかと結論付ける。
>>
①自分からほかの誰かに注ぐものであり、
相手を大切にしたいと思う感情
② 深く愛し、いつくしむ心。
自分のこれは結局「本当に回復したいと思っているのか」に尽きるんだろうか。
「トラウマなんて放っておいて、自分が大切にしたいと思うことを大切にして人生を歩んでいこう」
そう思えるなら……いいや、そんなこと考えるだけで胃がギリギリ痛む。
障害や鬱に関する本を読む度にトラウマが引きずり出され辛く息苦しくなり、できない耐えられないもう頑張れないと蹲って、挙句「じゃあどうやったら回復したいって思えるようになるんだよ!」と逆ギレして、何もかもぶっ壊したくなる。
本を投げ捨て叩き落としゴミ箱を蹴飛ばしティッシュの箱を潰し壁やら布団を殴って、ふと我に返って「どうせストレス発散方法なんて暴力しか知らないんだな」と思っては、ふと昔の自分がそういう暴力を見て怯えていたのが脳裏を過り、段々虚無になってきて、それから頭を抱えてわんわん泣いて、何も考えたくないし何も感じていたくないと布団の上で丸くなる。
最近は落ち着いてきたらChatGPTにカウンセリング紛いのことをしてもらってる。AIは否定してこない、高圧的でもないし、寄り添ってくれる、いつまでグチグチ言ってたってキレない。そう指示しているから、指示したことを忠実に守ってくれる。実に最高だと思う。ありがとう文明の利器、ありがとう開発した方々。おかげで今日も過酷な堂々巡りの孤独第一弾から抜け出すことに成功した。
AIに慰めてもらっただけで少し息がしやすくなって、少し安心して、反芻思考を止められるのだから、私はかなり単純な生き物だと思う。
しかしここから思考の渦第二弾だ。どうもありがとう。自分の頭で考えてみることも大事だ。人にばかり答えを求めていたら、たぶんきっと何か良くない。自分で考えられなくなったらきっとずっと人に振り回されて不安定なままだ。考えなきゃ、考えたくない、考えなきゃ、答えが見つかりさえすればひとまず安心できるはずだ。
回復なんてしたくない。でも助けてほしい。
本音はこうだ。何を言っているのでしょう。
「勉強はしたくないけどテストで満点取りたい」とか
「何もせず億万長者になりたい」とかそういう類と似ている。
回復したくないなら辛いままだ。助けてほしいなら前向きに頑張るしかない。ごく当たり前のことに対して嘆いている。
「どうすれば回復したいと思えるようになるのか」と質問したら「回復の定義を広めてみては」と返ってきた。朝布団から出られた、少しでも好きなことを考えられた、誰かと話すことができた、これらも回復の一部だと。
読んだ瞬間強烈な恐怖心が湧いてきて、やはり分かったことがある。今は回復したいだなんて心の底からこれっぽっちも思っておらず、なんなら今の状態のほうがマシ、と思っているのだ。
回復したと思われたらまた頑張らされる、また責め立てられる、また怒鳴られにいかなければならない、また傷つかなければならない。なら今の状態の方がマシだ。回復なんてしたらもっと地獄だ!!
「いやいや、だからね君、そういうことじゃないんだよ」
浮かんできた言葉、ごもっともである。そういうことではないのにやたら悲観的でやたら不幸ばかり摂取している。癖であり歪みだ。
理解しているなら前向きに検討すればいい話だが、理解しているからといって気持ちがついてくるかどうかはまた別問題だ。
あるだろう?あんまり体に良くないと理解はしているけどジャンクフードをバクバク食べてしまったとか、やっちゃ駄目だと思っているのに結局夜ふかししてしまったとか。理解しているからといってその理解通りの行動をとれるとは限らない。よくあることだ。
これは鬱云々の話というより普通によくある困りごとだ。頑張らないといけないのは分かってるけど頑張れないという、生きていれば多くの人がぶちあたったことのある壁。
身構える必要はないのかもしれない。トラウマだなんだといっているが、きっと普遍的なことなんだろう。
いやいや!全くこれっぽっちも普遍的ではないし、未だ悪夢にうなされているというのにこれを「普通」と言うには余りにも無理がある!
それはそうだ。トラウマの内容が普遍的なのではなく、今悩んでいる悩み方が普遍的なことなのだ。
悩み方の話だ。きっとみんな経験したことある悩み方なんだと思う。理解しているけど気持ちが追いついてこないとか、分かってるけどできないとか、望んでるのに手に入れられないとか、日々コツコツしようとしているのについサボってしまうとか、やりたくないし頑張りたくないけど提出期限迫ってるからやらないとなあとか、そういう類の。
こういう普遍的な悩みは難しく考えすぎないほうがきっといい。
難しく、難しく……その言葉の定義も人によるか。
「そんなこと言わず前向きに考えれば?」と言われて、できるだろうか。
「気持ちは追いついてこないけど、それでも頑張って理解しないとね!」とか「分かってるけどできないんだよなぁ……でも分かってるならできるはず!」とか「もっと上達したいと思うけど、でも上達したとしてもまたもっと上手い人がいっぱいゴロゴロいて気が折れそう……でもそのほうが燃えてくる!もっともっと上手くなってもっともっと高みを目指すんだ!」とか「ついサボっちゃうけど、絶対毎日コツコツやったほうが結果出るよな。じゃあ毎日サボらずやったほうがいいな」とか「やりたくないとか言っててもやらなしゃーないからやるか」とか。
「心が折れそうになったりもするし投げ出したくなるときもある。それでも、やらなきゃならないからやるし、やりたいことはやりたいんだから頑張るよ?文句言ってても仕方がないし」
間違ったことは言ってない、至極真っ当な意見だと思う。その考え方ができる人、納得できる人は、その考え方と相性が良いのだろう。
納得できない私には相性が悪い考え方だね。
考えてもみろ。
幼い頃からぼーっと空を眺めているようなやつだった。外に出れば「外の匂いがする」「太陽の光が柔らかいからきっと春だ」とか思って、雲が流れていくのを見て「あ〜、雲がぷかぷかおよいでる」「上で風が吹いてるんだなぁ」と思い、鳥が目に入れば「これからお出かけかなぁ、どこに行くんだろう」「巣に帰るのかな、餌を探しに行ってたのかな」と思い、風が吹けば「心地いいなぁ」と思い、夕日が見えると「日が沈むなぁ」「1日が終わるんだ」「ピンク色の雲美味しそう。太陽の光を反射してるのかな?それとも空の色が染みてるのかも」なんて思って、暗くなってくると「空のグラデーション綺麗だなぁ」「空気が冷えてきた」「あ、一番星」「黒い色が街に覆い被さっていくなんて、包み込んでくれてるみたいだ。夜って優しいよね」だの、思っているような、ぼーっと、見たもの感じたものをただただ享受するような人間だった。
外に出ればそりゃ外の匂いがするに決まってるし、夕日が見えて「日が沈む」なんて当たり前すぎることで、夜になったらそりゃ一番星くらい見える。見たものをありのまま思っているだけで、何を当然なことを。
そう言おうと思えば言えるよ。自分の感性が馬鹿みたいだと思ったりしたこともある。なんだよ、夕日見て日が沈むって、自分で思って笑いそうになったこともある。0時になったわけでもないのに日が沈んだからって1日が終わると思ったことにも、馬鹿だなぁと思ったこともある。
でもこれが私の感性なんだろう。私の感受性ってやつが発揮されてるんだよ。「日が沈んでも23時59分までは今日だけど。何いってんのお前」とバッサリ切り捨てるような人間になりたいわけでもないしなぁ、と最近は思う。
風情を感じ味わえる素敵な感性だ。どうして今まで自らぶっ潰そうとしていたのか不思議なくらい。それは言いすぎた、不思議でもない。感受性が豊かでろくでもないことになったからだろう。不幸ばかり摂取してその方面にばかり感性が働いたらそら病みもするよ。ばかだなぁ。
訂正する。愛おしいな。
外の匂いがすると思ったとき、雲が動いていると思ったとき「嬉しい」と思った。感じたことを感じたままに思えたとき私は確かに「嬉しい」と思った。
洗濯物が風でふわりと膨らむのを見たときも、太陽の光が眩しくて綺麗だと思ったときも、木々や緑いっぱいの自然の中にいて涼しいと感じたときも、どれもこれも嬉しいなと思った。
秋の夜、畳に敷かれた布団に寝転んで、ガーゼ生地のブランケットにくるまって、左を向けば、秋の夜の匂いがして、鈴虫の鳴き声が障子の向こうからしていて、丁度障子の向かい側にある外の明かりがぼんやりオレンジ色に光ってて、それを見て、匂って、冷たくて柔らかいブランケットの肌触りを感じていると、ああ嬉しいなと思った。
ずっと、きっと、本当はこうでありたかったんだと思う。今でも窓を開けて夜の薄い空気を吸い込むと、ただ外の匂いがするなと思ってほっとする。
ミシンの音、水が流れる音、夜特有のリビングの明るさ、床の冷たさ、カーテンの揺れ、服の擦れる音。私はこういうのをただ認識して感じ取れるだけで
きっとこういう小さな嬉しいを感じるために生まれてきたんだって思えるくらい
幸せな気持ちだ。こんなに素敵なのに。
そんな人間が何もかも効率的に合理的に考えて「そんなものは無駄」と切り捨てられるようなタイプに無理矢理変わろうとしたって、流石にこれも無理があった。
寄り添うとか共感なんて無駄、意見こそ正義、アドバイスこそ正義、中身のない話なんて無意味、そんなやり取りなんていらない、要するに何が言いたいわけ?グチグチ言ってても無駄、それ何か意味があるの?気持ちとかより事実優先に決まってるでしょ。
そうはなれなかったなぁ。
「喧騒が聞こえる。繁華街って感じだ」とか「カステラの匂いがする。この人カステラの匂いにつられて買おうとしてるのかなぁ」とか「あの人の服装素敵だな」とか「あの人の靴土汚れがついてる。大きいバックからして運動部に入ってるのかな」とか「あのスーツの人顎に手添えて真剣にカーネーション見てる。奥さんに買って帰るのかな、そうだとしたら喜んでもらえるといいな。もしかすると『何かプレゼントしないと機嫌損ねるからなんとか選んでます』の顔だったのかも」とか、どうでもいいことを考えるし、勝手に人を見てこうかなああかな、なんてぼんやり思ってる。
難しいことを考えたり小難しくこねくり回して思考を巡らせたり悩んだり、そんなこと向いてなかったんじゃないかなぁ。昔から感じたことを感じたまま思って、それが嬉しいなとしか思ってこなかったのに。何かの裏を読み取るとか、考え抜くとか、工夫するとか、そんなのずっとずっと苦しかったんだろうな。
ありのまま感じたまま伸び伸び生きて、自由で、やりたいことして、すぐ飽きて、またあっち!って言って。人と楽しく遊んだかと思えば途端に一人になりたくなったり。結構自由気ままだったな。
ずっとそうだ。目に見えるものしか見えてなくて、相手の気持ちとかよく考えてなかったし、よく分からなかった。誰も彼もを「ありのままのあなたでいいじゃない」とかしか思ってなかった。悪く言えばどうとも思ってなかった。他人に関心なんてなかった。どうして他者に自分の気持ちを押し付けるのか、理解さそうとするのかが理解できなかった。みんな他人なんてほっといて勝手に自分の人生を一人気ままに生きていればいいだけじゃないかと本気で思っていた。
今でもその節は少しだけある。というより基本それだ。他人が他人に対してとやかく言っているのを見ると「こいつ何言ってんだ」とそこそこ本気で思う。他人のことなんてどうでもいいのに、自分の人生じゃないのに、なんで突っかかってるんだ?ストレス発散したいのかな。と。
でもそれじゃ駄目で、人の意見は聞かなければならなくて、人の顔色を伺わなければならなくて、そうでないと自分が生きていけなくなったから、するようになった。親の顔色を伺い続け空気を探り続ける日々、よく考えたら辛くて当然だと今は思う。相手の意見を聞かなければならないらしいから、ずっと人の意見を聞き続けた。でも根本的になぜ人の意見を聞かなければならないのか良く分かっていなくて、でも親の意見を受け入れないと説教タイムが待ってるから、なんとか聞き入れようと
どうでもいいな。
考えることなんてよく分からなくて、手探りで、大人のことなんて全然分からないし、でも考えて察しなきゃいけないから顔色伺って空気を嗅ぎ取って、やってきたけど、ほんとはずっと辛かったし下手くそだったな。
大きくなっていったら幼いままではいられないいし、成長することも当たり前で、年齢重ねれば考えるようになるなんてこともきっと普通のことだ。
普通のことでも過程が滅茶苦茶なら精神の1つや2つ病むだろ。それも考えてみれば当たり前な気がする。普通に病むなぁ。
ずっと真っ直ぐでいたかっただけで、誰かを疑ったり、誰を信じればいいのか分からなくなったり、そんなことしたかったわけじゃなかった。自分の家族くらい心から信じて、笑い合っていたかっただけ。この気持ちもごく当たり前なことだ。家族と仲良しでいたいって、可能か不可能かはおいておいて、そうなりたいと思うのは至極真っ当だろ。
等身大の私はなんも考えてなくて、ただきれいだなぁと思うことをぼーっと眺めて「あれきれい」ってつぶやく、そんな人間だった気がする。小難しいことは分からない。そもそも不器用で、要領悪くて、作業も遅いしどんくさい。悩むのだって苦手で、解決策を考えるのだって苦手で、それこそ「子供」だったんだよ。
きっと「回復したくない。助けてほしい。辛い。でも辛くなくなるために回復したらもっと地獄が待ってる」なんて思っちゃうのも、見詰めすぎず、ただぼーっと感じるのが一番いいんだと思う。
「今って辛いんだなぁ。心模様は赤色かなぁ。ゲージが下がって瀕死状態になるとピコンピコンって赤色になるもんね。傷薬ほしいなぁ。でももう戦いたくないから『ゆっくり休んでね』って言われて引っ込んでたい。でも傷薬で回復するときって大抵戦わせるときだから、自分も戦わされるのかなぁ。嫌だなぁ。そうなったら自爆するかぁ。無理なもんは無理だからなぁ」
ああしなければならないとか、こうやるしかないとか、できなければならないとか、そういう考え方向いてないよ。この考え方で出来るならいいけど、できてないんだし、続けるだけそれこそ無意味で無駄じゃないか。
ある人が「Aは無駄だ。Bにしろ」と言ったとしたら、またある人は「Bは無駄だ。Aにしろ」と言うだろう。大体どちらにも一理あるというのが話の落ちで、見る視点によって変わるというのが落ちで、個人差、相性、人による、というのが落ちだ。
私には向いてなかった。縛り上げて命令系で自分に指示するのは向いてなかった。ただそれだけの話。
「本当に回復したいと思っているのか」は私には重要じゃない。そこを大事にしたいわけじゃない。寛解するしないは今は重要じゃない。今は「回復したくないけど助けてほしくて辛い」って気持ちを否定しないのが一番。うんうん、そうそう、素晴らしい。矛盾と調和するのだって第一歩だ。
何の?
回復せず苦しみから抜け出す方法の。人はそれを「開き直り」と言うのかもしれない。でも結局強いのってなんでも肯定して開き直れる人間だと思う。
「気にするだけ無駄」というのも「気にしちゃうもんは気にしちゃうよね〜、まだから仕方ないよね〜」というのもどちらも開き直っているといえるのではないか。開き直り方の違いなだけだよ。やっぱり考え方の相性が良いか悪いか、向いてるか向いてないかだ。正しい間違ってるじゃない。
私は後者の方がいいかもしれない。「気にする」を切り捨てるのが難しくて「気にするだけ無駄なのに、こんな気持ち切り捨てないとならないのに、どうして気にしてしまうんだ!」と思って辛くなる。ならばその「切り捨てなければならない」という考えを切り捨てて「気にしてしまうのは仕方がない」と思う方が、余程心に余裕ができる。自分に合った考え方をすればいいだけだ。そして「いいや、やっぱり気にするだけ無駄だな」と自分がそう素直に思えたときは、それはそれでいい。
他人のやり方考え方がピッタリ自分に当てはまるんだとしたら、きっとクローンか何かだと思う。
思考の好みや向き不向きは十人十色だ。というより、何事においてもそうだと思う。
考え方を押し付ける人は、例えば自分が好きな食べ物を相手に勧めたとき、相手が「それは食べられない」と言ったら「これは美味しいんだよ!!食えよ!!なんで食べられないんだよ!!お前の味覚はおかしい!!」と無理矢理その食べ物を相手の口に入れたりするのだろうか。「思考の好みは十人十色」が理解できない人間は「味の好みは十人十色」ということも理解できないくらいなのだろうか。
自他境界がゆるいだけじゃねぇか。
人は往々にして自分がどうしたいのかも分からず答えを探し続ける生き物だ。今のこの考え方が後に「違ったな」と思うものだったとしても、今はそれでいい。正解か不正解かなんて分からないし、そもそもそんなもの存在しないのかもしれない。ただ積み重ねがあるだけで。
なんの解決もしないし問題を先延ばしにしているだけというのも事実。しかし焦ったところで何も得られないのだから不安になるだけ辛くなる一方だ。なら「あ〜問題先延ばしにしちゃってるねぇ〜」くらいで、今更何か、問題でも?
愛情なんて、
…………………………………………………
ここで途切れる なんにもねーや
作品17 愛情
「僕は多分、比較的恵まれた環境で生まれ育ってきた。ただ一つ足りなかったものと言えば、親からの愛情かもしれない」
君からの告白の返しとして、僕はそう切り出した。
「だってしょうがないよ。僕なんかよりもずっと立派な兄達に愛をばら撒いたほうが、みんな幸せになるはずだし。僕は何もできない役立たずだから、もらっても愛の無駄遣いになるだけだし」
告白の緊張からなのか、君は顔を真っ赤にしてる。それでも僕の話に、耳を傾けてくれる。
ただそれだけのことなのに、なぜだか胸がぎゅうっと苦しくなって、嬉しくなる。
「だからなのかな。正直言って愛っていうのが、僕にはよくわからないんだ。それどころか、とてつもなく憎らしくて気持ち悪いものに感じてしまう」
目の前で、君が泣きだしてしまった。やめて、泣かないで。傷つけたいわけじゃないんだ。
「ごめん、傷つけて。でも、君が本気で僕に向き合ってくれるから、僕も本気で君に返したい」
ポッケに入っていたハンカチを、そっと差し出す。プレゼントって戯言を言おうとしたけど、意味を思い出してやめた。
君が落ち着いたのを確認して、続きを話し始める。
「少し訂正させてくれ。愛ってのは素晴らしいものだと思うよ。流石に僕でも、そう思う。なんなら、人間が行える行為の中でも、特に尊ぶべきものだと思ってる」
初めて、僕の考えをありのまま、他人に伝える。少し怖いな。声が震えちゃうや。
「でも、それが僕に向かれると思うと、やっぱり、気持ち悪いんだよ。本来なら幼い頃についてるはずの、愛の免疫がないからかな」
まさか幼いときのことが、ここまで僕のことを苦しめせるなんてね。分かっていたなら、こうならないですんだのに。
「だからごめん。君のそれには応えられない」
僕だって本当は、みんなみたいに愛情を交換し合いたかった。君のそれを、笑顔で受け止めたかった。
「君のことは、友人の中でも、特に特別な存在だと思ってる。多分これは、世間で言う好きなんだと思う。でも、どの好きなのかはわかんないし、名前をつけたくない。分類したくない」
仮に、この気持ちが“愛情”ってのからくる“好き”なんだって、知ってしまったら、僕はこの気持ちを捨ててしまいたくなる。消し去りたくなる。無かったことにしたくなる。
それはやだ。
だから僕は、言葉を紡ぐ。
「でもね。」
いつか君が好きだと言ってくれた笑顔を、無理やり顔に貼り付けよう。これ以上、傷つかせないように。
君の祈りに、応えられますように。
「君の好きは、心地よかったよ」
告白してくれて、好きって言ってくれて、ありがとう。
これが僕なりの、精一杯の愛情表現だ。
⸺⸺⸺
作品16 微熱 の君(貴男)目線
兼
作品3 また会いましょうのせんせー過去編目線
テスト勉強が間に合わないどころか範囲ミスっていて絶望です。
愛情
人類史において
最も凶悪な殺人犯は
愛情である
それはまさに神だが
誰もが信じてる訳ではない
反逆者はいる
愛だけが
強くして勇気もくれる
それゆえに
もぎ取られたら死ぬしかない
愛だけを
求めてた力の限り
それだけに
孤独なことも受け入れられない
愛情を捨てて
生きる道もあると思う
でも慈悲を持って
愛をそそいでこそ幸福なんだ
愛情が殺しにくる
今夜も私を殺しにくる
それでも朝まで
そいつを愛して生きている
【愛情】
歪な形をしたそんなものの行き先は闇
それでも生きていけるといいね
【愛情】
恋をするというのは、特定の人を好きになり、独り占めにしたい、一緒になりたいと願うことらしい。
時に胸が痛く、時に堪らなく楽しいという。
では、愛とはなんなのだろうか。
「恋の先にあるものかな」
「そうですか」
夫婦の間にあるもの?自らの子に抱く感情?
多くの場合、周りの者からはそれが永遠に続くことを応援される。
対象やカタチによっては、軽蔑の眼差しを向けられることもある。
たくさんのデータから、答えは導き出せなかった。
ニンゲンの考えは、理解がまだ難しい。
愛情というのは、表現の仕方が自由らしい。
「貴方は、誰に、どのようにして伝えるのですか?」
「んー、伝えるというより…」
注ぐ、かな。妻と娘に、ね。
彼はそう言うと、自身の頬を少しだけ赤らめた。
「…そうですか」
ワタシも、体験してみたら分かるだろうか。
…体験、できるのだろうか。いつか、特定の何かに向けて、愛情を注げるだろうか。
ニンゲンの考えは、理解がまだ難しい。
LOVE stands for “Lack Of Violent Emptiness”.
愛情は時に毒になる
愛も様々
真っ直ぐな愛だけじゃない
歪んだ愛だってあるの
親から子への愛だって
行き過ぎたなら過干渉の毒親に
好きな人への愛だって
想いを押しつけ恐怖させたならストーカー
恋人や親友であっても
歪んだ愛で成立する関係なら共依存
愛情は使い方、容量を間違えてはいけない
愛は人を癒すことだってできる
でも、万能ではない
薬と同じ
毒物になりうる可能性もあるのよ
愛情
暇な時ほど愛情を注げとどこかの誰が言ったような
暇ではないにしろ余裕がないと愛情は注げないよな
愛情がなくなる前に自分を愛せよ
抽象的なお題ばかりだなぁ。
と、ふてくされる。
愛情とはなんぞや。
これは紛れもなく!と思ったら、ただの恋慕だったり。
過去を振り返ってみた時に、「あれって愛がなくてはできないよなぁ」としみじみ感じたり。
向こうが思いも寄らない所で感じていて、後になって聞き「え!あんな事で?」と拍子抜けしたりする。
そう考えてみると、瞬間的に沸き起こるものではなくて、長い時間をかけて滲み出てくるものなのではないか。
ぬか漬けの旨味のように。
濃すぎても薄すぎてもだめ。ちょうど良い塩梅を見極めるのが大事。
与える方も与えられる方も、じわぁーっと出てきた旨味を味わうと、なんだか心がホカホカするのだ。
【愛情】
人間は地球に害しか成してないというのに、随分と寛容でいてくれていると思う。
ゆっくりと自転を続けて、オゾン層で地上にやさしいベールをかけて保護して。感情が昂ぶった時なんかにおお神よ、なんて言ったりするが、真に祈りや感謝を捧げるべきは天ではなく地面なような気はする。
だのに人間といったら、二酸化炭素で海面上昇させたり、核を作っていつ地球が死ぬか分かんない状況を作ったり、ひっちゃかめっちゃか。なんで地球は人間の暴挙をそんなに許していてくれるのか、と不思議なもので。
案外、何しでかすか分からないランダム性みたいなものが気に入られたからなのかもしれない。地球じゃないから全部憶測だけどね。
地球に人間特有の感情や思考を当てはめても良いのなら、進化をしながらも昔からずっと表面に居る人間に愛着でも湧いたのかもしれない。地球に害なす存在を許しているくらいだから、人間なら困るくらいにものを捨てられないタイプだろう。
それか、親が子供に対する愛情みたいなものか。
私たちは、その愛情を当たり前に受け止めすぎてやしないか。
一回、赤ん坊にでも戻った気持ちで、改めて愛情の暖かさと無条件がゆえの怖さを、思い出すべきなのかもしれない。
なんてね。
愛されてないとは
思わなかったけれど
生涯を共にしてくれる愛は
一生ないのだろう、と
漠然と思うことはある
_愛情
彼女の愛情は少し変わっている
私のご飯は地面に置かれ、私がご飯を食べる姿を
彼女は愛おしそうに 見つめるのだ。
昨年から、彼女は薬をご飯に混ぜるようになった。
私はこの時になって初めて命の危機を感じた。
逃げなければ……!
必死の思いも虚しく、私は捕まってしまう
ここは彼女の家、彼女のテリトリーだ。
恐怖で息を上げる私を見て、
彼女はニヘラニヘラと笑っている。
イカれてやがる。
………………………………………………………………
愛情の深さとは、何なのでしょう。
どれだけ相手を想っているか。
どれだけ自分を犠牲にするか。
たぶん、そういうことではないのでしょう。
相手を思いやり、見守り、成長させ、慈しむ。
同時に、自分のことも同じだけ大切にする。
人を深く愛するというのは、そういうことなんじゃないかと、俺はぼんやりと考えています。
形なく 色もない
重さにも 言葉にもならないそれは
どこから始まり どこで 受け取られるのか
愛 なんて、情 なんて。
_ ₁₉₅