・時を告げる
「〇〇時〇〇分、ご臨終です」
嫌というほど耳にした、無機質な声がした。聞きようによっては、冷たくも思える声だ。特に、大切な人を目の前で亡くした遺族にとっては。
けれど、私は知っている。
その言葉を発する医師が、闘牛の如く荒れ狂う感情を、必死に押し留めていることを。
ああ、助けられなかった。必ず治すと約束したのに。そんな、「医師」の見本のような感情だけじゃない。
悲しい、悲しい、悲しい…
視界が白く染まるほどに唇を噛み締めても、医師は決して、俯かない。
患者は一人ではない。泣き顔で巡回に行くわけにはいかないのだ。
なんて愛しい立ち姿だろうか。私はそっと、医師に近づいた。その頭を撫でてやりたくても、二度と叶わない体である。
顔を覗き込むと、わずかに医師の目が見開かれた。
こやつ、霊感があったのか。調子に乗って変顔をしてみたが、反応はない。おい、恥ずかしいじゃないか。
生きていれば、コツンと頭でも叩いてやるところだ。
ふいに、硬く閉じられていた医師の口が、僅かに開く。
せ、ん、せい。
先生。私は目を見開く。死んだ身に目があるのか、なんて無粋な質問はしないでくれ。
それは懐かしい呼び名だった。私がこの病院に勤務していたのは、もう三十年も前だというのに。
医師の、太い眉が下がる。私とそっくりの眉だ。他は母親似のくせに、変なところだけ似やがった。
ああ、意識が薄れていく。最期の時間を変顔なんかに使うんじゃなかったな。
もっと言いたいことがあるんだ。
そうだな。頑張れよ。あんまり無理するなよ。家族に心配かけるからな。
それから…お前に看取ってもらえてよかった。
・貝殻
ほら、自分の殻を破ってみよう?
…自分の殻って何だよ。いつも、心の中で毒づきながら愛想笑いを浮かべる。だけどそれも、そろそろ限界だ。
自分の殻。ここから飛び降りれば、破れるだろうか…
ひゅおう、と風が頬を叩く。一歩先に、地面は存在しない。さあ、早く。誰かにせかされるように、俺は足を浮かす。
「待って!」
マジか。自殺直前に引き止められるシチュとか、漫画の中の話だと思っていた。ゆるゆる、俺は振り向く。女の人だ。新人のカウンセラーだろうか。それなら用はない。
「あなた、死ぬんでしょ。その前にあなたの殻を買わせてちょうだい」
はあ?
「だから、あなたの殻よ。せっかく立派な殻なのに勿体無い。何円なら売ってくれるの?」
そう言いながら、その人は距離を詰めてくる。俺は動けない。
俺の殻を買わせろ、なんてそんなの、信じる方が狂っている。そして俺は、今から自殺しようなんて考えている、天下の狂人だった。
「殻がなくなれば、楽になりますか」
「それは、生きている人の話かしら。それなら、楽になんてならないわ」
そうか。それなら、未練はない。
「言わせてもらうとね、あなたの殻はあなたを閉じ込めるものじゃないのよ。それどころかあなたを、守ってくれるもの。人間は勘違いしてるのよ。本当に大切なのは、殻を破ることじゃなくて、ほんの少しずらすことなのに」
わからない。頭の中で、俺の周りを囲っている丸いシェルターが振動する。
ずらす、ってなんだ?まともに聞いているのがバカなのか?困惑する俺のすぐ目の前にたって、彼女はにっこり微笑んだ。
「…あなた、生きたいのね。殻は…しかたないわね。手伝ってあげる」
そうひょいっと俺を引き上げる。すごい力だ。突然の至近距離に、こんな状況にも関わらず心臓が鳴る。
「しばらく、預かってあげるわ。欲しくなったら、ここにいらっしゃい」
次の瞬間、俺は屋上に佇んでいた。
彼女の手には、硬く滑らかな貝殻が一つ。何か大切なものが抜け落ちたような、忌まわしいものが消え去ったような、変な感覚。
涙が一筋、ほおを伝った。
・きらめき
それは、幻想的な光景だった。無数の光の粒がゆったりと宙を舞い、剥き出しの木の床に降り積もっていく。
何で、こんなことに。
一歩、重い足を前に出すと、ふうわり、光の粒が形を変えて舞い上がる。浮世離れしたきらめきが目に痛い。
ごほ、ごほっ!
ほんの数日。ほんの数日、留守にしただけなのに。窓枠に指を滑らせると、白い粉が筋をつくった。
お爺さん…お婆さん…
溢れた涙が、床に斑点をつくる。その手から、カランと豪奢な箱が落ちた。
・些細なことでも
今日は夏休み最終日。私は、お約束の宿題地獄に呻いていました。最難関は絵日記です。寝て起きて、スマホゲームして食べて寝るだけの毎日を送っていたので、ネタなんて見つかるはずもありません。
窓の外を見ると、おひさままでもが真っ赤になって、私の体たらくに怒っていました。イラついたので、カーテンを閉めておきました。
来年はもっと早く宿題を終わらせたいです。
よし!完成!
出来立てほやほやの絵日記を、カーテンの隙間から漏れ出てくる夕陽に透かしてみる。我ながらなかなかの出来だ。
…もっとも、最後の文は大ウソだけど。来年の今頃も同じことをしているに違いない。
だって、もし早くに宿題を終わらせてしまったら、本当にネタがなくなってしまうでしょう?