桔花

Open App

・貝殻
ほら、自分の殻を破ってみよう?

…自分の殻って何だよ。いつも、心の中で毒づきながら愛想笑いを浮かべる。だけどそれも、そろそろ限界だ。
自分の殻。ここから飛び降りれば、破れるだろうか…
ひゅおう、と風が頬を叩く。一歩先に、地面は存在しない。さあ、早く。誰かにせかされるように、俺は足を浮かす。
「待って!」
 マジか。自殺直前に引き止められるシチュとか、漫画の中の話だと思っていた。ゆるゆる、俺は振り向く。女の人だ。新人のカウンセラーだろうか。それなら用はない。

「あなた、死ぬんでしょ。その前にあなたの殻を買わせてちょうだい」

 はあ?

「だから、あなたの殻よ。せっかく立派な殻なのに勿体無い。何円なら売ってくれるの?」

 そう言いながら、その人は距離を詰めてくる。俺は動けない。
 俺の殻を買わせろ、なんてそんなの、信じる方が狂っている。そして俺は、今から自殺しようなんて考えている、天下の狂人だった。
「殻がなくなれば、楽になりますか」
「それは、生きている人の話かしら。それなら、楽になんてならないわ」

 そうか。それなら、未練はない。

「言わせてもらうとね、あなたの殻はあなたを閉じ込めるものじゃないのよ。それどころかあなたを、守ってくれるもの。人間は勘違いしてるのよ。本当に大切なのは、殻を破ることじゃなくて、ほんの少しずらすことなのに」

 わからない。頭の中で、俺の周りを囲っている丸いシェルターが振動する。
ずらす、ってなんだ?まともに聞いているのがバカなのか?困惑する俺のすぐ目の前にたって、彼女はにっこり微笑んだ。

「…あなた、生きたいのね。殻は…しかたないわね。手伝ってあげる」

 そうひょいっと俺を引き上げる。すごい力だ。突然の至近距離に、こんな状況にも関わらず心臓が鳴る。

「しばらく、預かってあげるわ。欲しくなったら、ここにいらっしゃい」

 次の瞬間、俺は屋上に佇んでいた。
彼女の手には、硬く滑らかな貝殻が一つ。何か大切なものが抜け落ちたような、忌まわしいものが消え去ったような、変な感覚。
涙が一筋、ほおを伝った。

9/5/2023, 3:06:26 PM