あの夏のあの夕べ
寝ているあなたの頬を撫で
そっと頬を触れ合わせたことも
あの午後の図書館の中
あなたの返した本を真っ先に手に取って
腕の中で抱きしめたことも
あの春の綺麗な空の下
友達に話しかけるふりをして
あなたを横目で見ていたことも
あの校舎のあの廊下
震えないように気をつけて
ようやく出した声のかすれも
あの冬の冷たい雨の日
降りしきる水の中で
こっそり呟いた2文字も
誰も知らない
私も知らない
みんな忘れた
みんな知らない
知っているのはただおひとり
そのおひとりも、話してくれはしないのだ
お題『神様だけが知っている』
窓越しに見えるのは、
向かいの座席で寝ているおじさん。
窓越しに見えるのは、
有名でもない小さな山。
窓越しに見えるのは、
派手なネオンのエスニックバー。
窓越しに見えるのは、
二、三軒ばかりのマンション。
窓越しに見えるのは、
2匹のメス猫の戯れ。
窓越しに見えるのは、
疲れた顔のおばさん。
窓越しに見えるのは、
夢か現か透明の景色。
お題『窓越しに見えるのは』
僕たちは赤い糸で結ばれてるんだよ。
違うよ、白い糸だよ
何それ?だってほら、こんなに真っ赤なんだから。
ううん。白いよ
君が見てるのは違うものじゃないの?
ううん。君と同じものを見てるよ
じゃあ、赤くないとおかしいよ。
おかしくないよ。だって、白い糸が赤く染まってるだけだもん
何の赤なの?
君の血液よ
どうして染まるの?
私たちに結ばれてるのはただの糸だもん。運命の糸なんかじゃないもん
少女は少年に背を向けると、小指に結ばれた糸を解いて駆けて行った。
少年は倒れたまま動かず、日は暮れる。
お題『赤い糸』
顔を洗う。
靴を履いて外へ出る。
車に乗る。
渋滞の中をのろのろと進んでいく。
帰りたい
何のためになるのか分からない仕事をする。
無くとも良いグラフを作る。
ミスをする。
大勢の前で叱られる。
帰りたい
皆が俺を馬鹿にする。
嘲笑し、見下す。
ああ帰りたい
ここではないどこかへ
帰りたい
玄関のドアを開ける。
服を脱いで風呂に入る。
一息つく。
帰りたい
ここは家
帰るべき場所
ただ、いつもどこかへ帰りたい
戻りたい
暗くあたたかい羊水の中
おかあさんの
子宮のなか?
お題『ここではないどこか』
その花は、とても堅固でぴしりと立っておりました。けれど、その強さは生来の物ではなく、とろけた中身を隠すようにして周りを固めているようなのでした。
また、見ているだけであれば美しく、清い小川のようでしたが、触れればたちまち目の前から消えてしまいます。そんな、ちぐはぐで気難しい、愛おしい花でした。
私の物にしたいと思いましたが、誰かの所有物にするには高潔で、我儘で、愚か過ぎました。私はそれを崩したいと考えていましたが、いつの間にか願望の中の花を見つめていたようでした。万華鏡を回して、本当では無い世界を楽しんでいるだけなのでした。
いつかその花に、「私と一緒に来てくれるか」と尋ねたことがあります。花の答えは沈黙でした。喜ばしくないことには、肯定の沈黙ではなかったことです。花に何かの縛りがあって、その場を離れられないのか、私が嫌なだけなのか。それはまったく分からないのですが、それ以上聞くことは許されませんでした。
花は、私の全てを奪いました。それも、意図的にです。私は怒りを通り越して呆れることしか出来ませんでした。けれど、そんな罪を犯したからにはもう、私と花とは共にいることはなりませんでした。
私は悲しみました。全てを奪われてもなお、私は花を愛していたからです。いえ、ここまでされたなら死なば諸共、という意志もあったのかも知れません。しかし、執着のようなそれは確かに愛でした。
もう一度、私は花に聞きました。「私と一緒に来てくれるか?」
花は答えました。
「あなたと私は二つで一つ、」その言葉を聞いて、私は嬉しくてなりませんでした。あの花が、ようやく私の愛を受け入れてくれたのです。しかし、花は続けました。
「けれど、共にいるのは毒を生むだけ。どちらかが欠けて一つになれる。」
ああ、それを聞いた時、私の身体は動きました。花の凛とした茎を持って、優しい砂土のベッドから引きずり下ろしました。
花はもう喋ることなく、ただ朝露を地面に幾滴か落とすばかりなのでした。
お題『繊細な花』