お題【今日の心模様】
『隙』
陽光が、埃の舞う部屋を無遠慮に暴いている。
私はただ、机の上の傷を指先でなぞっていた。ささくれだった溝に溜まるのは、時間の澱みのような、重く粘りつく何かだ。
何かを成し遂げたいわけでもなく、かといって、すべてを投げ出すために立ち上がる筋力もない。世間という巨大な歯車が軋む音を聞きながら、私はその隙間に指を挟んだまま、抜くことも、進めることもできずに立ち尽くしている。
カチ、カチ、と。
隣の部屋で時計が時を刻む音が、無人の空間に冷たく響く。それは規則正しい暴力となって、私の心臓を直に叩いた。
優しい言葉をかけられれば、その裏に潜む刃を疑い、沈黙が続けば、世界から切り離されたのだと怯える。この救いようのない自意識は、まるで冬の池に張った薄氷だ。一歩踏み出せば容易く割れてしまうし、留まれば底冷えに身を焼かれる。
ああ、私はただ、すべてを透過させる水になりたかった。
カーテンが風に膨らみ、窓枠との間に一瞬の隙を作る。
そこから滑り込んできた風が、中身のない私をそっと撫でて、またどこかへと抜けていった。
私は、自分の指を一本ずつ数え始めた。
お題【たとえ間違いだったとしても】
『標本』
秋の夜は、部屋の隅に冷たい水が溜まっていくように更けていく。
私は電球を消し、窓の外の、黒い木立を見つめている。
あんなことを、言わなければよかったのだ。
あんな手紙を、出さなければよかったのだ。
私の人生は、いつも一歩、足を踏み出す場所を間違えている。暗闇の中に、そっと差し出された他人の善意という名の薄氷を、私はわざわざ一番もろい場所を選んで踏み抜いてしまう。
たとえ間違いだったとしても。
そう呟いて、自分を納得させようとしたあの夕暮れの覚悟は、今や冷え切った指先を温めるほどの熱量も持っていない。
私は、あの人に嫌われたかったのかもしれない。
優しくされることに耐えられず、わざと無骨な、嘘にまみれた告白をして、自ら縁を切り刻んだ。
それは客観的に見れば、愚かな、取り返しのつかない間違いに違いない。世間の良識という定規で測れば、私はただの恩知らずの変質者として処理されるだろう。
けれど、誰にも分かってほしくないことが、一つだけある。
あの間違いを犯した瞬間の、心臓が凍りつくような、潔い静寂。
正しい道を選び、平穏な幸福の中に埋もれていく自分よりも、間違いを選び、一人で夜の底に沈んでいく自分の方に、私はかすかな、標本のような「美しさ」を感じてしまったのだ。
間違えて、間違えて、最後に何も残らなくなった時。
そこにある孤独だけが、私にとって唯一、濁りのない真実になる。
たとえ間違いだったとしても、私はあの時、確かに自分自身を呼吸していた。
……窓の外で、カサリと枯れ葉が鳴った。
ただそれだけの音に、私は、死ぬほど怯えている。
お題【平穏な日常】
『爪』
独り言を、ひとつ。
朝、眼が醒める。それだけで、もう、取り返しのつかない過ちを犯したような気分になる。私は、固く、梅干しを噛み潰すような顔で瞼を閉じる。
どこか遠くで小鳥が囀っている。チチチ、と。あれは、生命を謳歌しているのではない。単なる、無神経な生理現象だ。ああ、また一日が始まってしまった。そう思うと、胃の腑の底から絶望という名の酸っぱい液がせり上がってくる。
人間というものは、おそろしく面倒くさい生き物だ。そして、悲しいかな、自分もまたその一人で、救いようのない道化なのだ。
心では泥のような呪詛を吐きながら、人前では、まるで春風を纏ったかのような軽妙な笑みを浮かべてみせる。饒舌に、滑稽に、求められるままの私を演じる。しかし、ふとした瞬間、内側の私は窓の外を眺め、冷ややかに呟くのだ。
「どうせ、誰にも判るはずがない。」
周囲の笑い声は、まるで厚い氷の下に閉じ込められたまま聴く、遠いお祭りの騒ぎのように、鈍く、無機質に響く。
そんな孤高を気取っている自分に、どこかで微かな、選民のような陶酔を覚えている。その浅ましさ。その卑劣さ。反吐が出る。私は私という人間に、何度絶交を言い渡せば済むのだろうか。
「やあ、おはよう。」
人は、出遭えば、すぐさま名前を呼び合い、挨拶という名の無意味な殴り合いを強いる。朝は、声が出ない。喉の奥に、昨夜飲み込んだ後悔がこびりついていて、声が、薄汚い雑巾のように掠れてしまう。
「……おはよ。」
それだけを絞り出し、あとは、世間という名の濁流に、この骨抜きにされた身を投じる。
昼。窓際で、教員の垂れ流す講義を聞くふりをして、その実、一言も脳に届いてはいない。
教室は西向き。誰かが乱暴に引いたカーテンの隙間から、あの、おめでたいほど無邪気な光が、ナイフのように差し込んでくる。光は私の机の左角を射抜き、そこに置いた右手の、ささくれ立った指先を、残酷なほど鮮明に照らし出す。不潔で、乾燥し、生活の倦怠を絵に描いたようなその指。
左手は、机の中で死んだふりをして硬直している。開かれた教科書は、光に焼かれて真っ白に飛び、文字の亡霊さえ見えない。そこにあるのは、ただ、私の未来のような虚無の白紙だけだった。
ふと、顔を上げれば、教卓には国語の女教師。
彼女の言葉は、音としては届くが、私にはそれが、滅び去った古代文明の、呪いの呪文のようにしか聞こえない。意味が、まるで見えてこない。
これは、未来の私か。あるいは、かつて捨て去った過去の幻影か。
私は、いつかこれを思い出すのだろう。けれど、それは一瞬の閃光のような不快さで、後悔という棘に刺されたくないから、必死で頁を捲り、忘れようと足掻くのだ。しかし、忘れようとすればするほど、それは脳髄の奥底に、剥製のように、醜く定着してしまう。
夜。独り、考える。
この、惨めで、退屈で、死ぬほどいつも通りな時間が、いつか宝物のように美化される日が来るのだろうか。
あの光景を愛している、などと言えば大嘘になる。けれど、輪郭を失い、ドロドロに溶けかかったあの午後の光が、どうしても私を離してくれない。
つまらなくても、意地でも「おもしろい」と自分を欺き、道化て歩むのが、人生という地獄の作法らしい。私はこれからも、なんとなく呼吸をし、なんとなく媚び、なんとなく悲しみ、そして本当の最期になって、ふと、なんとなくの後悔と、これまた、なんとなくの安堵を感じて、くたばるのだ。
そして、そんな、どうでもいいような思索に耽っている今という汚辱の時間が、私にとっては、結局のところ一番大切で、唯一の聖域なのではあるまいか。
気づけば、闇に沈んだ部屋で、わずかな光の一点を見つめていた。寝台に横たわり、鉛のように重い瞼を伏せていく。
果てしなく長く、残酷なようでいて、しかし天国のように、おめでたいほどの一瞬。
誰も気づかぬうちに、指の間からこぼれ落ちていく砂。
それが、「日常」という名の正体なのだと思う。
そしてまた、知らぬ間に天道様が昇り、小鳥が無神経に鳴く。
重い瞼を無理やり押し上げれば、視界の先に、丸まった自分の手の、無様に伸びた爪が映る。
私は、深い、深い溜息をつく。
ああ、死にたい。けれどその前に、
「爪、切らなきゃ。」