お題【たとえ間違いだったとしても】
『標本』
秋の夜は、部屋の隅に冷たい水が溜まっていくように更けていく。
私は電球を消し、窓の外の、黒い木立を見つめている。
あんなことを、言わなければよかったのだ。
あんな手紙を、出さなければよかったのだ。
私の人生は、いつも一歩、足を踏み出す場所を間違えている。暗闇の中に、そっと差し出された他人の善意という名の薄氷を、私はわざわざ一番もろい場所を選んで踏み抜いてしまう。
たとえ間違いだったとしても。
そう呟いて、自分を納得させようとしたあの夕暮れの覚悟は、今や冷え切った指先を温めるほどの熱量も持っていない。
私は、あの人に嫌われたかったのかもしれない。
優しくされることに耐えられず、わざと無骨な、嘘にまみれた告白をして、自ら縁を切り刻んだ。
それは客観的に見れば、愚かな、取り返しのつかない間違いに違いない。世間の良識という定規で測れば、私はただの恩知らずの変質者として処理されるだろう。
けれど、誰にも分かってほしくないことが、一つだけある。
あの間違いを犯した瞬間の、心臓が凍りつくような、潔い静寂。
正しい道を選び、平穏な幸福の中に埋もれていく自分よりも、間違いを選び、一人で夜の底に沈んでいく自分の方に、私はかすかな、標本のような「美しさ」を感じてしまったのだ。
間違えて、間違えて、最後に何も残らなくなった時。
そこにある孤独だけが、私にとって唯一、濁りのない真実になる。
たとえ間違いだったとしても、私はあの時、確かに自分自身を呼吸していた。
……窓の外で、カサリと枯れ葉が鳴った。
ただそれだけの音に、私は、死ぬほど怯えている。
4/22/2026, 11:53:18 AM