お題【平穏な日常】
『爪』
独り言を、ひとつ。
朝、眼が醒める。それだけで、もう、取り返しのつかない過ちを犯したような気分になる。私は、固く、梅干しを噛み潰すような顔で瞼を閉じる。
どこか遠くで小鳥が囀っている。チチチ、と。あれは、生命を謳歌しているのではない。単なる、無神経な生理現象だ。ああ、また一日が始まってしまった。そう思うと、胃の腑の底から絶望という名の酸っぱい液がせり上がってくる。
人間というものは、おそろしく面倒くさい生き物だ。そして、悲しいかな、自分もまたその一人で、救いようのない道化なのだ。
心では泥のような呪詛を吐きながら、人前では、まるで春風を纏ったかのような軽妙な笑みを浮かべてみせる。饒舌に、滑稽に、求められるままの私を演じる。しかし、ふとした瞬間、内側の私は窓の外を眺め、冷ややかに呟くのだ。
「どうせ、誰にも判るはずがない。」
周囲の笑い声は、まるで厚い氷の下に閉じ込められたまま聴く、遠いお祭りの騒ぎのように、鈍く、無機質に響く。
そんな孤高を気取っている自分に、どこかで微かな、選民のような陶酔を覚えている。その浅ましさ。その卑劣さ。反吐が出る。私は私という人間に、何度絶交を言い渡せば済むのだろうか。
「やあ、おはよう。」
人は、出遭えば、すぐさま名前を呼び合い、挨拶という名の無意味な殴り合いを強いる。朝は、声が出ない。喉の奥に、昨夜飲み込んだ後悔がこびりついていて、声が、薄汚い雑巾のように掠れてしまう。
「……おはよ。」
それだけを絞り出し、あとは、世間という名の濁流に、この骨抜きにされた身を投じる。
昼。窓際で、教員の垂れ流す講義を聞くふりをして、その実、一言も脳に届いてはいない。
教室は西向き。誰かが乱暴に引いたカーテンの隙間から、あの、おめでたいほど無邪気な光が、ナイフのように差し込んでくる。光は私の机の左角を射抜き、そこに置いた右手の、ささくれ立った指先を、残酷なほど鮮明に照らし出す。不潔で、乾燥し、生活の倦怠を絵に描いたようなその指。
左手は、机の中で死んだふりをして硬直している。開かれた教科書は、光に焼かれて真っ白に飛び、文字の亡霊さえ見えない。そこにあるのは、ただ、私の未来のような虚無の白紙だけだった。
ふと、顔を上げれば、教卓には国語の女教師。
彼女の言葉は、音としては届くが、私にはそれが、滅び去った古代文明の、呪いの呪文のようにしか聞こえない。意味が、まるで見えてこない。
これは、未来の私か。あるいは、かつて捨て去った過去の幻影か。
私は、いつかこれを思い出すのだろう。けれど、それは一瞬の閃光のような不快さで、後悔という棘に刺されたくないから、必死で頁を捲り、忘れようと足掻くのだ。しかし、忘れようとすればするほど、それは脳髄の奥底に、剥製のように、醜く定着してしまう。
夜。独り、考える。
この、惨めで、退屈で、死ぬほどいつも通りな時間が、いつか宝物のように美化される日が来るのだろうか。
あの光景を愛している、などと言えば大嘘になる。けれど、輪郭を失い、ドロドロに溶けかかったあの午後の光が、どうしても私を離してくれない。
つまらなくても、意地でも「おもしろい」と自分を欺き、道化て歩むのが、人生という地獄の作法らしい。私はこれからも、なんとなく呼吸をし、なんとなく媚び、なんとなく悲しみ、そして本当の最期になって、ふと、なんとなくの後悔と、これまた、なんとなくの安堵を感じて、くたばるのだ。
そして、そんな、どうでもいいような思索に耽っている今という汚辱の時間が、私にとっては、結局のところ一番大切で、唯一の聖域なのではあるまいか。
気づけば、闇に沈んだ部屋で、わずかな光の一点を見つめていた。寝台に横たわり、鉛のように重い瞼を伏せていく。
果てしなく長く、残酷なようでいて、しかし天国のように、おめでたいほどの一瞬。
誰も気づかぬうちに、指の間からこぼれ落ちていく砂。
それが、「日常」という名の正体なのだと思う。
そしてまた、知らぬ間に天道様が昇り、小鳥が無神経に鳴く。
重い瞼を無理やり押し上げれば、視界の先に、丸まった自分の手の、無様に伸びた爪が映る。
私は、深い、深い溜息をつく。
ああ、死にたい。けれどその前に、
「爪、切らなきゃ。」
3/11/2026, 12:51:12 PM