足音
このところ、全然寝付けない。
子供の足音が上から聞こえる。
そういえば、最近2階に引っ越してきた家族には、まだ小学生の男の子がいたからな。
とにかく!
うるさい!
寝かせてくれ!
俺は叫びたかったが、夜中なので、俺の方が近所迷惑になってしまう。
何が困ると言って、夜中に限って元気に走り回るのだ。
文句も言いたかったが、昼間になると足音がピタリと止まる。
あまりにもうるさいから、管理会社から大家さんに相談してもらった。
しかし、いつまでたっても全く状況は変わらない
相変わらず走り回る足音はうるさいし、親が注意する様子もない。
怒鳴り込みたくても、そんなことを一住人が出きるはずもない。そもそもそんなことは出来なかった。
もう我慢ならん!
耐えきれなくなった俺は、敷金を余分に払ってでも引っ越すことにした。
あまりにもうるさくて寝られないから、心身ともにやられてしまった。
今は睡眠導入剤のお世話になっている。
しかし、ここに住む限りずっと続いていくだろう。
この足音の騒々しさには耐えられなかった。
こうして俺は、すぐに荷物をまとめて、夜逃げのように引っ越した。
一人暮らしだと、こういう時に楽だな。
あーあ。
最上階で、見晴らし良くて気に入ってたんだけど。
終わらない夏
20XX年8月31日。
俺は机の前で頭を抱えていた。手を付けていない山積みになった宿題の数々。
一緒に遊んでたアイツも、同じように苦しんでいると電話で愚痴っていた。少しのつもりが話し込んでしまって、母さんに怒られてようやく電話を切った。ふと時計をみたら、もう21時。
結果、俺はアイツを道連れにしてしまった。
スマン、この埋め合わせはどこかでしよう。
俺は机の参考書の山から目をそらし、カーテンを開けて夜空を見た。空には煌々と輝く満月が見える。
風が強いのか、さあっと稲が風にあおられる音が聞こえる。入り込んだ風がひんやりとして、気持ち良い。
明日は2学期の始まりなのだと、思い知らされた。
はあ。
俺は大きなため息を付いた。だからといって宿題が終わるわけでもない。だから俺はふと思ったんだ。
『8月が終わらなければいいのに』
20XX年8月10982日。
いまや、あの涼しいと思っていた8月31日は遠い昔のことだ。
あれから地球の温度は上がり、この時期は窓を開けても生ぬるい風しか入らなくなってしまった。あの遠い日が懐かしい。
俺が『8月が終わらなければいいのに』と願った次の日から、カレンダーはなぜか8月32日に書き変わっていた。
しかし8月31日の翌日は始業式。この定めからは逃げられなかった。
なんてことはない。8月は終わらなかったけど、2学期は何事もなかったかのように始まった。
なんなら定期テストもきっちり来たし、冬休みにお年玉ももらった。
卒業式もあったし、入学式もある。すべて、8月の出来事だったけど。
最初は大したことがないと思ってたけど、そのうち俺はこの状況が気持ち悪くなった。
こんなことなら宿題をきっちりやっておけば良かった。 今度は必ず宿題します……。
俺は今までが嘘のように、勉強に没頭するようになった。
早く9月1日が来るようにと願掛けをしていたのだけど、そんな俺の気も知らないで、8月は続いていく。
勉強をした結果、一流大学に入学した際も、就職活動を始めた時も8月だ。
内定が決まり、大企業への入社日も8月。
そこから働きを認められて今に至るが、それでも8月は続いていた。
若い頃の俺は、9月が来る方法を探していた。
現在はもうあきらめた。もう特に何の変化もない。
このまま8月でもいいのではないかと思い始めていた。
そんなある日、出張の帰りに実家に寄った。掃除をしてくれていたとはいえ、少しばかりほこりのかぶった自分の部屋で、日に焼けたカーテンを開く。
空には、あの日宿題を終えられなかった晩と同じ、満月が煌々と輝いていた。
昔のあの日のように、稲がさわさわと音を立てることはなくなったが、月は変わらず照らしている。
俺はあの日と同じように願った。
『9月1日が来ますように』
その瞬間、俺の顔を涼しい風が吹き上げ、カーテンがふわりとふくらんだ。
実家の周りは家ばかりになり、田んぼが消えたはずなのに、稲の葉のにおいがする。部屋の色褪せたカレンダーも、バタバタと音を立てた。
俺は思わず目を閉じた。
目を開けると、月は何事もなかったように浮いている。
ふと、風で落ちたカレンダーをみた。
9月だ!
学生の時は8月32日から始まっていたのに!
俺は何度もカレンダーを手にとって、めくって中を確認した。嘘じゃない。9月だ!
俺は思わず年甲斐もなくはしゃいでしまい、階段を上ってきた母に気がつくのが遅れてしまった。
翌日は何の騒ぎもなく、8月10983日は今年から9月1日になった。
あれは一体なんだったんだ。
もしかしたら、あの日の俺のような無数の誰かの願いが、時空を歪ませたのではないか、等とも想像してしまう。
遠くの空へ
深い夜空の中に、綺麗な星が浮かんでいる。この場所から遠くの空へと思いをはせる。
ああ、何て美しいのだろう。
星になって空の一部になってしまいそう。このまま意識ごと、吸い込まれるような気がする。
私は目の前に広がる天球を見てため息をついた。空に浮かぶ満点の空が、星々が時間を共に天球をめぐり、時間の流れを肌で感じた。
瞬く星座に、遠く空へ手を伸ばそうとしたが、やめた。
天球に響く女神のような声に身をゆだねる。このまま闇に吸い込まれたい。何度もまばたきをしながら、目を開いて必死に空を見つめ続ける。
女神の声と共に、銀河が、天の川が、星座が、星たちが天球を巡る。その動きを眺めながら、この流れゆく時にそのまま吸い込まれていきそうになっていく。
どうしてこの天球を見つめていると、意識がそのまま溶けて行ってしまいそうになるのだろう。
「…………この銀河は……」
何度も繰り返される、女神の様な声に耳を傾けながら、私のまぶたは重さに逆らえず、そのまま意識は遠のいていった。
「君の寝息が隣で聞こえてたよ」
プラネタリウムを出ていく人々の中に混じって、彼は歩きながら私の方をそっと見た。天文学が大好きな彼。私は彼の趣味についていこうとしたけれど、場所を聞いてイヤな予感はした。
やっぱりこうなった。
「ごめんなさい……どうしてもあの声を聴いていると眠くなって……」
「大丈夫だよ。君以外に結構寝てる人いたから」
彼のフォローが少々いたたまれない。
「ありがとう……あの」私は顔を真っ赤にしながら、彼の方を向いた。
「こんな私でもいい?」
「君だから、どこへ一緒に出来るだけで嬉しいよ」彼は耳の端を染めながらそう言うと、私の手を取って、望遠鏡の方へ一緒に歩いて行った。
少なくとも、天文台で居眠りはしないだろうと安心していたのだけど。
今日の流星群を見ようと、長蛇の列ができているという事は予測できなかった。彼はまったく気にしてなかったが。
正直、立ちっぱなしでパンプス履いていた足には少々きつかった。流星群はきれいなのだろうけど、それ以上に早く座ることだけを考えていた。
真夏の記憶
単一短歌五種
天の川光る三角見上げては 彼ら三角関係疑う
ひまわりが広がる畑の向こう側あなたと共にあの日を共に
パラソルの花咲く砂浜がよく見える海の家僕は夕日と海へ
宿題は存在しないと逃げて見た先の日めくり9月1日で
実家の縁遠い親戚顔を会わせても名前呼ばずに過ごす盆
泡になりたい
クーラーの効いた、落ち着いたレトロな喫茶店の中、彼はここではないどこかを見ているような声で、ポツリと言った。
「泡になりたい」
薄暗い喫茶店のなかには、私と彼以外の客はいない。マスターも奥に入っているのか、気配もない。
「そうなんだ」
それだけしか言えなかった。
彼の表情を見ることができず、うつむいたままアイスコーヒーの雫を見ている。
向かいの彼が青いクリームソーダのストローを回す。からりと氷の音がした。
私たちの間からはまた、言葉が消える。
「あの人が、僕の目の前で白いドレスを着てるのが辛かった」
再び彼が呟いた。
グレイのスーツを着た彼の、長い足が組み替えられる。磨かれた革靴が私の目にはいった。
私は手を組み替えた。いつもよりきれいなネイル。慣れないクリスタルが光るブレスレット。組み替えた音さえ聞こえるかと錯覚するほど、流れる音ははささやかで、エアコンの音は静かだった。
「そう……」
彼の気持ちは痛い程わかった。
晴れやかな席の中で祝いの言葉をのべながら、瞳の奥に深い何かが宿っていることに、少なくとも私は気付いていたから。
「見るのが辛いんだ……だから」
彼はうつむいた。半分ほど残っているクリームソーダは、青とアイスの白が混じりあって、夏の空のように見えた。
私は、彼の言葉に答えられなかった。
結局、喫茶店を出るときも、私たちの間にほとんど言葉はなく、本当にささやかなありがとうと、またね、だけが残された。
私は、そのときの彼の表情を見ることが出来なかった。それ以上に自分の顔を見られたくなかった。
それから数ヵ月後。
彼は青空のクリームソーダ、その泡の一粒となって、彼方へ溶けていった。
晴れ渡った夏の空を見上げながら、彼の思いを探してみたけれど、私には欠片ひとつも見つけられなかった。
ああ、彼は私の届かないところへ行ったのだと。
最後まで、私の心は彼に届かなかったのだと。
私は彼のいるかもしれない青空へと、手を伸ばした。