ひとひら 2025.4.13
擬人化です。
『それ』はただ、そこにいました。
『それ』はただ、誰一人訪れない山の奥で
朽ちていくばかりでした。
人の手の入らない山に、
主ではない何者かの手で置いていかれた『それ』は、
春の桜を、初夏の若葉を、
夏の涼やかな木陰を、
秋深くなる頃の紅葉に銀杏を、
冬に積もる雪に覆われながら空に舞う雪花の下で
時を過ごし、
何度も春を、夏を、秋を、冬を越えても
主の訪れはありません。
さらに何度も季節は巡りました。
そんなある春のことです。
ついに、主がこの場所に来たのです。
主は『それ』を見て、眉を寄せ、目を伏せました。
『それ』の目はもう、何も照らすことはなく、
『それ』の足はもう、二度と主を乗せて走ることはなく、
『それ』の体はもう、傷みすぎて主を迎え入れることは出来ません。
『それ』の胸はもう、血が巡らせる力もありませんでした。
『それ』はもう、主のために動くことは出来ないのです。
『それ』はもう、主のもとへ帰ることも出来ないのです。
主は、しばらく『それ』を見ていましたが、一つため息をつき背を向けると、懐から四角い板を取り出して指を滑らせました。
*****
「もしもし……ああ、俺だよ。何年も前に盗まれた車が、こんなところに乗り捨てられてた……」
この車の主は、数年前に新車で買った4WDを乗り逃げされた挙句、山に乗り捨てられていたのを発見してしまったのです。
彼はため息をつくと、この車の扱いに困り果て、物言わぬ『それ』に背を向けたのでした。
『それ』の屋根に、桜の花びらがひとひら落ちてきましたが、車の主はそれを見ることはありませんでした。
風景
2025.4.12
俺と弟は今、本州と四国をつなぐ橋を車で渡っていた。
今は午前10時頃。
天気は晴れ。柔らかな太陽が波を照らして輝く。
遮るもののない水平線。穏やかな海に浮かぶ島の数々。所々には船が浮かぶ景色が、視界に入る。少しぼやけた島は、四国だろうか。
少し開けた窓からは、春の風が吹き込み、俺と弟の髪をバサバサと乱す。
橋の上、アクセルを踏み込んで行く。
巨大な橋桁、広い道が前から後ろへ流れていく。
いつも勤務先のビルや自宅に籠もっていると、なかなか海など見ることもない。
そもそもこうして車で出かける機会がまず無い。
俺が前を見て運転に集中しているところ、弟が助手席で窓から身を乗り出しそうになりながら海を眺めている所が、ミラーに映った。
「危ないぞ」
「だって! すごいよ! 兄さんも見てみろよ!」
ハイテンションな弟の声が車内に響くと、運転席に身を乗り出す。そして俺の肩を叩いて窓の外を見るようにと急かした。
「やめろ!」
俺は弟をなんとか助手席に押し戻した。
危なかった。風でハンドルを取られるところだった。
俺は隣で盛り上がる弟を無視して運転に集中する。景色に夢中になりかける自分に気がつくと、慌ててハンドルを握りしめた。
俺も気が緩んでいるようだ。弟を笑えない。
やがて、橋の先に見える木々が近づいてきた。そろそろ四国へ入る。
四国で食べるうどんのためだけにドライブをしていたが、橋から眺める景色が予想以上に素晴らしかった。来た甲斐があったというものだ。
到着した俺たちは、うどんを食べ歩いた。どこの店によって違う独特の歯ごたえと出汁は、実に最高だった。
帰りは弟に運転させたら、今度は橋が、夜景が綺麗だと言って、一人盛り上がっていた。危ないから前を見ろ、と何度も注意したのだが。
少し落ち着いた弟の運転に安心し、俺は窓に張り付いて夜の本州を眺めていた。
お題 小さな幸せ
それは、疲れた時の甘いココア
それは、眠い時の布団のぬくもり
それは、沈んだ時の優しい友の言葉
それは、会いたい時のあなたの笑顔
それは、あなたの心と
あなたが触れるものから
見つけられるもの
お題『七色』
俺と兄がいつもご飯を食べているダイニングテーブルの上にで、兄がガサガサと包装紙の音を立てている。
俺は兄が指定してきた長さで、淡いピンクのリボンを7本切っていた。
その前は大きな包装紙を切っていたのだが、兄さんの指定通りに切れず何枚か失敗し、包装紙が足りなくなった。
ついさっき、すでにカットされているものを買いに走ったばかりだった。
兄さんは慣れた手つきで、テーブルに置かれた透明な箱を包装していく。すでに包装したものは5つ。6個目を手に取ると、無駄のない動きで手早く包みはじめた。
しわ一つ入れない、ぴしりと角まで整えられる。包装の手つきを見ると、やっぱり几帳面だな、と思ってしまう。
テーブルの上には、まだ包まれていない箱があと20個以上残っている。
まだ包装されていない、透明なボックスの中ににころころと入っているのは、パステルカラーの小さなマカロンが7つ。
桃色、オレンジ色、クリーム色、エメラルドグリーン、水色、薄い青、薄紫。
虹を思わせる七色のマカロンたちが、可愛らしく箱の中でおとなしくしている。
例年通り、兄さんは会社の同僚や上司、取引先などからたくさんチョコレートをもらってきた。そして、例年通りホワイトデーのお返しに何かしらお菓子を用意する。
今年はマカロンだ。
去年より増えたお返しを見て、ため息をつく。
ちくしょう。うらやましいぜ。
俺なんか、俺なんか……! いいんだ別に、悔しくなんかないんだからな! うん、うん……。
ぼんやり考えたてたら、リボンを1センチ短くカットしていた。
ヤバ……!
俺は素知らぬ顔をして、失敗したリボンをさりげなくゴミ箱にいれると、再びカットを始めた。
兄さんがちらっとこっちを見て、また包装に集中し始める。
しばらくして、紙の音が消えた。どうやら包装作業が終わったようだ。他の箱は全て小さな紙袋に入って、段ボールに入れられている。
しかし、一箱だけがテーブルの上に残されていた。
「兄さん、この箱しまわなくていいのか?」
俺はリボンをカットする手を止めた。
集中しすぎて、買って来たリボンを全て切ってしまった。散乱する余ったリボンを、紙袋に入れる。
「ああ、これか。これはお前の分だ」
兄さんはそう言うとテーブルの上を片付け始めた。
「え?俺の分あったの?」
俺は思わず兄さんの方を向いた。
「いらなかったか?」
兄の顔がちょっと悲しそうに見えたので、俺は慌てた。
「いや、予想してなかったから」
俺はそう言いながら箱を手に取る。
ころころしているマカロンたち、実は俺も欲しかったのだ。
兄が、ここで俺に気にかけてくれていたことにびっくりした。
「……ありがと」
俺はぽつりとお礼を言うと、どこか気恥ずかしくなったので、その箱を持って自分の部屋に入って行った。
残された兄はため息をついた。
「まだテーブルの上は片づいていないのに、何故部屋へ行ってしまったのか」
やれやれ。
そう言うと、テーブルの上に散らかったままの包装紙やシール、造花、セロハンテープやはさみなどを片付け始めた。
手を繋いで
誰もが通る
昼下がりの光の中で
堂々と
君に咎め立てして
公然と
君と言い争いして
交わした
口論の数を
君は覚えているだろうか
誰にも見えない
夜の静寂の中で
ひっそりと
君と指を絡めて
しっかりと
君と手を繋いで
ゆっくりと
顔を近づけて
交わした
口づけの数を
君は覚えているだろうか