ひとひら 2025.4.13
擬人化です。
『それ』はただ、そこにいました。
『それ』はただ、誰一人訪れない山の奥で
朽ちていくばかりでした。
人の手の入らない山に、
主ではない何者かの手で置いていかれた『それ』は、
春の桜を、初夏の若葉を、
夏の涼やかな木陰を、
秋深くなる頃の紅葉に銀杏を、
冬に積もる雪に覆われながら空に舞う雪花の下で
時を過ごし、
何度も春を、夏を、秋を、冬を越えても
主の訪れはありません。
さらに何度も季節は巡りました。
そんなある春のことです。
ついに、主がこの場所に来たのです。
主は『それ』を見て、眉を寄せ、目を伏せました。
『それ』の目はもう、何も照らすことはなく、
『それ』の足はもう、二度と主を乗せて走ることはなく、
『それ』の体はもう、傷みすぎて主を迎え入れることは出来ません。
『それ』の胸はもう、血が巡らせる力もありませんでした。
『それ』はもう、主のために動くことは出来ないのです。
『それ』はもう、主のもとへ帰ることも出来ないのです。
主は、しばらく『それ』を見ていましたが、一つため息をつき背を向けると、懐から四角い板を取り出して指を滑らせました。
*****
「もしもし……ああ、俺だよ。何年も前に盗まれた車が、こんなところに乗り捨てられてた……」
この車の主は、数年前に新車で買った4WDを乗り逃げされた挙句、山に乗り捨てられていたのを発見してしまったのです。
彼はため息をつくと、この車の扱いに困り果て、物言わぬ『それ』に背を向けたのでした。
『それ』の屋根に、桜の花びらがひとひら落ちてきましたが、車の主はそれを見ることはありませんでした。
4/14/2025, 9:58:09 AM