髪は女の命だという。
周りを見渡せば、長い黒髪をそのまま流したり、束ねたりしている女の子がたくさんいる。規則がきかない学校の外に目を配れば、茶色や金色やピンクの髪の女の子がいるのだろう。染髪された髪は好きではなかったが、最近ようやく好きになった。
髪が綺麗な女の子は総じてかわいい。たとえおばあちゃんでも、白髪は美しい。
「ねえ、君もそう思わない」
背中に気配を感じて振り向いた先にいた女の子は、シャンプーのCMに出ている女優も真っ青なくらい、綺麗な黒髪の女の子だった。
「髪が綺麗なら、顔はどうでもいいわ、私」
私の言ったことに、思わずはっとするほど黒髪が美しい子は、怒りながら反論してくる。
「そんなのおかしいよ。私は断然顔派。イケメンとか美人だったら、どんなに髪が荒れていてもいい」
「そう? 私たちって、とことん合わないね。ないものねだりって感じ」
ぶわっと風が吹き、その見事な黒髪が乱される。すぐに風は止み、するとすとんと一瞬で元通り。今、本当にシャンプーのCMみたいだった。
顔を覆うくらい伸ばしている前髪を整えながら、その子はぽつりと呟いた。
「……その綺麗な顔、大切にしてよ」
髪が綺麗な人は、心根まで綺麗だ。
爪に火をともすろくでなし
玲子さんが結婚して以来、お兄ちゃんは徐々に外出する機会が増えていった。見るからに不良の男の子たちとつるみ始め、帰宅時間も遅くなった。
近所に住む年上の玲子さんのことを好きだったお兄ちゃんは、初めて経験する失恋に傷ついて、要するにグレた。
私はそんなお兄ちゃんを見ていられずに、知らんぷりをした。
あのときお兄ちゃんを優しく励ましていれば、今ごろ私達の兄妹の関係は冷え切らないで済んだのに、と今でも後悔している。
「出てくる」
家から出ていこうとするお兄ちゃんを、キッチンから聞こえてくる「またあ?」というお母さんの声が引き止めた。
「昨日もだったじゃない。中学生がこんな時間に出歩くもんじゃないよ」
何か話しかけても聞く耳を持たないお兄ちゃんに、お母さんが深いため息をつく。
私は出ていこうとするお兄ちゃんにわざと水を差すことにした。
「どうせ悪いおともだちのところでしょ」
薄笑いながら言うと、お兄ちゃんがきつい目を返してきた。その反応すら嬉しい私はいろいろと終わっている。
「うっせー、ブス」
「おめーに言われたくない、ブス」
私とおにいちゃんの間に立たされたママの仲裁によって、ぴりぴりとした空気がどこかに散った。
お母さんが私を見て言った。
「花、下品な言葉を使わない。分かった?」
「……はあい」
「優は帰り何時になるの?」
靴紐を結んでいたのを立ちあがり、仕上げにダウンジャケットのファスナーを上げる。そんな仕草がやけに様になってると思う。
「……十時か十一時くらい」
お兄ちゃんは素直に答えると、着ぶくれした身体を、扉の隙間に潜りこませるようにして出ていった。
お兄ちゃんが消えていった玄関の扉を眺めながら、ママが感慨深げにしみじみと言う。
「不良になったように見えても、変なとこ律儀なのよね」
お母さんと並んで玄関扉を眺めていた私は、「ただバカなだけだよ」と色んな意味で遠のいていく背中に対して、声に出してつぶやく。
そんなの嘘。弱虫なんて言ってごめん。行かないで。ここにいて。
たったひとりの妹の心の叫びに気づかないお兄ちゃんは、本当に馬鹿だ。
私は寂しさを紛らわすため、爪に綺麗にネイルが施す。お兄ちゃんの帰りが遅くなるので、すっかり根付いてしまった習慣だった。
色とりどりに光沢を帯びた爪が、暗い部屋の中で発光する。まるで爪に火が灯ったようだった。
私は心を極限まで切り詰めながら、今日も健気に兄の帰りを待つ。
たくさんの想いで
脳のゴミ
家族が一人でも長期入院していると、心がけていても自然と食生活は自堕落な方に向かっていくものだ。
冬になると必ず身体を崩して入院する子供のためにも、ここで自分も倒れるわけにはいかない。身体が資本というのも身にしみてはいるが、いつもお見舞いの帰りに寄るスーパーで売られている弁当や惣菜に手が伸びる。期限切れ間近で安売りされる弁当と同じように、自分も命を易く削る。
たまには気分を変えて手を加えようとしたこともある。だがどんなに飾りつけても、結局は出来合いの弁当にインスタントの味噌汁が一品加わるだけだ。沸かした湯を注ぎいれるだけである。
真冬は日が暮れるのが早い。この慣れた病院からの帰り道も、だんだん闇に染まる時刻が早くなっていった。今では私が帰る時間には完全に暗闇だ。いつにも増して憂鬱になりやすく嫌になる。
いつも隣にいるはずの存在が数ヶ月いないだけでこんなにもか、とぼんやり回る頭をそのままに、自宅への帰り道を急ぎ足で進む。家路はずっと冷たい風が吹き荒び続けていた。
帰り着いた自宅は外とたいした寒暖差はない。玄関でスニーカーの紐を解いていると、いきなり腹が間抜けな音で鳴った。
落ち込んでいてもお腹は減る。当然の人間の摂理になぜか泣きたくなった。
さっそくビニール袋から取り出した弁当をこたつの上に置く。寂しさを紛らわすためにテレビの電源をつけて、粗末なゆうげを開始した。
ニュース番組を流し見ながら、冷めた弁当をもそもそと咀嚼する。
(歯磨きまで終わったかな。あとで電話しよ)
温めなおした乾燥ワカメだけの味噌汁をずずっと音を立てて啜る。味噌汁を全部飲みきりふと目を落とすと、弁当がほとんど手付かずの状態だった。
「ああー……しんど」
食欲を失った声は、自分のものとは思えないほどとても乾いていた。
あの男のもとに来てから、もう何日経つだろう。
自発的に来たわけではない。強制的に連れてこられたのだ。それも〝自分から〟の体を装わされて。
『了承しなけりゃ、こいつら全員殺すぜ』
こちらの側近の首に刃を当てながら、そう言ってのけたあの男の顔に嫌気が差した。なまじ整った顔立ちをしているぶん、嫌悪感はいや増す。
自分が言えた義理ではないが、なんてこずるい男だと奥歯を噛みしめた。要求を飲んだときの、側近の絶望した顔が忘れられない。
扉の前の気配に気を配る。見張りの男が扉の両隣に二人。屈強な男の空気がする。よほど逃げられるのが怖いらしい。
悟ったわけではないが、今のところは脱走を諦めて、切り取られた窓を見る。時間が分からないが、外はもう暗く、空に星が瞬いていた。ちらちらとひらめく星を見ていると、男のもとへ行くことを許諾したときの、側近の絶望の顔を思い出す。
あんな顔をさせるくらいなら、要求を飲まないほうが正しかったのかもしれない。だがあの男の言う通りにしなければ、側近を含めその場で皆殺しにされていた。そう考えると、やはり正しい選択だったと思う。
けど、と寂しく思う自分もいた。
(最後に見る顔があんな顔なんて、やっぱりやりきれないわ)