爪に火をともすろくでなし
玲子さんが結婚して以来、お兄ちゃんは徐々に外出する機会が増えていった。見るからに不良の男の子たちとつるみ始め、帰宅時間も遅くなった。
近所に住む年上の玲子さんのことを好きだったお兄ちゃんは、初めて経験する失恋に傷ついて、要するにグレた。
私はそんなお兄ちゃんを見ていられずに、知らんぷりをした。
あのときお兄ちゃんを優しく励ましていれば、今ごろ私達の兄妹の関係は冷え切らないで済んだのに、と今でも後悔している。
「出てくる」
家から出ていこうとするお兄ちゃんを、キッチンから聞こえてくる「またあ?」というお母さんの声が引き止めた。
「昨日もだったじゃない。中学生がこんな時間に出歩くもんじゃないよ」
何か話しかけても聞く耳を持たないお兄ちゃんに、お母さんが深いため息をつく。
私は出ていこうとするお兄ちゃんにわざと水を差すことにした。
「どうせ悪いおともだちのところでしょ」
薄笑いながら言うと、お兄ちゃんがきつい目を返してきた。その反応すら嬉しい私はいろいろと終わっている。
「うっせー、ブス」
「おめーに言われたくない、ブス」
私とおにいちゃんの間に立たされたママの仲裁によって、ぴりぴりとした空気がどこかに散った。
お母さんが私を見て言った。
「花、下品な言葉を使わない。分かった?」
「……はあい」
「優は帰り何時になるの?」
靴紐を結んでいたのを立ちあがり、仕上げにダウンジャケットのファスナーを上げる。そんな仕草がやけに様になってると思う。
「……十時か十一時くらい」
お兄ちゃんは素直に答えると、着ぶくれした身体を、扉の隙間に潜りこませるようにして出ていった。
お兄ちゃんが消えていった玄関の扉を眺めながら、ママが感慨深げにしみじみと言う。
「不良になったように見えても、変なとこ律儀なのよね」
お母さんと並んで玄関扉を眺めていた私は、「ただバカなだけだよ」と色んな意味で遠のいていく背中に対して、声に出してつぶやく。
そんなの嘘。弱虫なんて言ってごめん。行かないで。ここにいて。
たったひとりの妹の心の叫びに気づかないお兄ちゃんは、本当に馬鹿だ。
私は寂しさを紛らわすため、爪に綺麗にネイルが施す。お兄ちゃんの帰りが遅くなるので、すっかり根付いてしまった習慣だった。
色とりどりに光沢を帯びた爪が、暗い部屋の中で発光する。まるで爪に火が灯ったようだった。
私は心を極限まで切り詰めながら、今日も健気に兄の帰りを待つ。
11/19/2024, 4:06:03 PM