「 忘れたくても忘れられない。」/ 実話です。
春の柔らかな光が京都の街を包み、桜の花びらが風に舞っていた。私はひとり、静かに歩いていた。この街に来たのは、1年前に別れた元彼を忘れるため。結局彼を忘れることなんて出来なかった。思い出の重さがいつまでも消えず、どこかへ逃げ出したかったのだ。
彼とは京都について話したことなど一度もなかった。旅行の話は何度もしたけれど、京都はその中に入っていなかった。それなのに、なぜ私はこの街に引き寄せられたのだろう。心のどこかで、何かしらの区切りをつけられる気がしていた。
四条大橋の上に立ち、川の流れを見つめる。人の多さに気圧されながらも、私は少しずつ街を歩いていた。嵐山の竹林、清水寺の参道、祇園の石畳。どこを歩いても、心の中で彼の顔が浮かぶ。別れたときの苦しさ、楽しかった思い出、そして一緒に過ごした時間が、まるでこの風景と重なっているように感じられた。
そして、偶然の出来事はふいに訪れた。
夕方、鴨川のほとりを歩いていると、遠くから聞き覚えのある笑い声が耳に入ってきた。私の心臓が一瞬止まったかのように、全身が固まった。ふと振り返ると、彼の姿があった。少し離れたところで、友達と笑いながら歩いている。「どうしてここに....?なんで今?」
私たちが一緒に京都の話をしたことなんて一度もなかったはずなのに。なのに、こんなに広い日本の中で、同じ場所、同じ時間にいるなんて。それが運命でなければ、何なのだろう。
私は彼に声をかけることなく、そのまま足を止め、彼の姿が遠ざかっていくのを見送った。彼が楽しそうにしているのを見て、少し安心する自分がいた。でも同時に、その姿は私をさらに彼から遠ざけていた。彼はもう、私の知らない世界に生きているのだと痛感した。
宿に戻った私は、心の中に渦巻く感情をどう整理すればいいのか分からなかった。忘れるために来たはずの京都が、なぜか彼を一層強く思い出させる場所になってしまった。会うことなく、ただその存在を感じたことで、運命的なつながりを信じてしまったからだ。
結局、私は彼を忘れることができなかった。忘れたくても、忘れられない。運命を感じてしまったこの偶然の再会が、私の心をさらに深く締めつける。そして私はまた、彼のことを思い続けるのだろう。
「子供のように。」
あの日も、夕暮れ時の街は静かだった。ビルの隙間から見えるオレンジ色の空が広がっている。その景色を眺めながら、私はいつものように、周りの空気を読むことに必死だった。
電車の中、カフェ、職場。どこにいても、私は自分の発言や行動が他人にどう見られているかを気にしていた。人に嫌われることが何よりも怖かった。だから、誰かの期待に応えるように、周りに溶け込むように、常に注意深く生きていた。
「自分らしく生きればいいのに」と、周りからはよく言われた。でも、“自分らしさ”とは何なのか、そんなことはもうわからなくなっていた。
今日も同僚の些細な冗談に愛想笑いを浮かべ、当たり障りのない返事を返した。そして、家に帰る途中、ふとガラスに映る自分の姿を見て立ち止まった。そこに映っているのは、自分ではないような気がした。いや、そもそも本当の「自分」なんているのだろうか?
そんなことを考えながら歩いていると、ふと公園の前に差し掛かった。ベンチに座り、ぼんやりと公園を眺める。小さな子供たちが走り回り、笑い声が響いていた。
その中のひとり、少し泥だらけの男の子が目に入った。服が汚れていることなんて気にせず、思う存分遊んでいる。彼は何も周りの目を気にしていない。ただ自分のやりたいことをやって、楽しんでいる。それがまるで、自分にはもう持ち得ない何かのように感じられた。
「あの頃は、私もそうだったのに…」
思わず口から出た言葉に、少し驚いた。子供の頃は、他人がどう思うかなんて考えず、ただ自分が好きなことをしていた。泥だらけになろうが、笑われようが、そんなことはどうでもよかった。だが、いつからだろう?周りの視線に怯えるようになり、自分を閉じ込めてしまったのは。
男の子が砂場で倒れ、手についた砂を笑いながら払う。その姿に、不思議な懐かしさを感じた。あの頃の私も、転んだり失敗したりしても気にせず、何度でも立ち上がっていた。
「もう一度…、子供のように生きられたら」
ふと、胸の中でその願いが芽生えた。自分が何をしたいのか、どう生きたいのか、他人の目を気にせずに追い求める勇気を持てたら、きっともっと自由になれるのだろう。
そのとき、背中に軽い衝撃を感じた。気がつけば、男の子が私の横に座り込み、にっこりと笑っている。私に話しかけるつもりはなく、ただ疲れて休んでいるようだった。
彼の無邪気な笑顔を見ていると、ふいに胸の奥が温かくなった。何かが解き放たれるような感覚があった。私は深く息を吸い込み、静かに立ち上がった。これからは、少しずつでもいい。周りの期待ではなく、自分がどうありたいかを探していこうと、そう思えた。
子供のように、純粋に、自由に。
これが、私が忘れていた大切なものだったのかもしれない。
「窓を開けると、新しい可能性が広がる。カーテンを開けると、未来が明るくなる。」
「 涙の理由。」/ フィクション。
休日の昼下がり、私は駅の改札口である人を待っていた。気になっていた人、悠太と初めてのデートだった。緊張と不安が入り混じり胸が高鳴る。でも、それ以上に私を押し潰そうとしているのは、駅のざわめきや人々の喧騒だった。
私は感覚過敏だった。大勢の人がいる場所や、急に大きな音が鳴る場所では、体が硬直し頭の中が混乱してしまう。それでも、悠太と一緒に過ごしたいという思いが勝り、今日のデートを楽しみにしていた。
「大丈夫、今日は大丈夫だよ。」そう自分に言い聞かせていたけれど、すでに心臓は不規則に鼓動し、呼吸が浅くなっているのが分かった。
「お待たせ!!」
悠太が駆け寄ってきた。彼の無邪気な笑顔を見ると、少しだけ気が紛れた。
「行こうか、映画館もうすぐだよ。」彼は私を促し、二人で駅を出た。外に出た瞬間、街中の音が一気に押し寄せてくる。車のクラクション、通行人の足音、交差点の信号音――どれも普段なら聞き流せるものばかりが、今日は鋭い矢のように私に突き刺さる。
映画館に着くまでの数分間が、永遠のように感じられた。頭の中が真っ白になり、周囲の音が一層大きくなっていく。手が震え、額には冷や汗がにじんできた。視界の端で、悠太が何か話しかけていたが、言葉がうまく聞き取れなかった。
「どうしたの?」
突然、悠太の声がクリアに響いた。彼の顔が近づいているのに気づき、私は慌てて笑顔を作ろうとした。
「なんでもない、大丈夫だよ」と言ったが、声が震えていた。
映画館に入ると、暗闇と静けさが少しだけ救いだった。これで落ち着けるかもしれない、そう思ったのも束の間、映画が始まると大きな音が私を再び襲った。場面ごとに響く爆発音や群衆の歓声、すべてが私を追い詰める。耳を塞ぎたくなる衝動を必死にこらえていたが、限界が近づいていた。
「ちょっと、ごめん」
私は小さな声で言い、立ち上がって席を後にして廊下に出た。そこで初めて、押し殺していた涙が一気に溢れ出した。
こんなはずじゃなかった。もっと普通に、悠太と一緒に楽しみたかったのに。彼に迷惑をかけたくなかったのに、結局自分はこうして逃げ出してしまう。なぜこんなに些細なことが、私にはこんなにも辛いのだろうか。
気づかないうちに、彼が私を追いかけて来ていた。
「大丈夫?」
「ごめんね、私、ちょっと人混みが苦手で……」
悠太は私をじっと見つめた後、優しく頷いた。
「無理しなくていいよ。外に出ようか?」
その一言に、再び涙が溢れた。涙の理由は、悠太の優しさに触れたからだった。そして、こんな私でも理解してくれる人がいるという安心感が、私を包んでくれたからだった。
結局、その日は映画を見ずに静かなカフェで過ごした。悠太は何も言わず、ただ私の話を聞いてくれた。その時間が、私にとって何よりの救いだった。
涙を流した後の空は澄んでいて、少しだけ世界が優しく感じられた。
「 力を込めて。」
窓の外では、冷たい雨がしとしとと降り続いていた。灰色の空は果てしなく広がり、街の景色はどこかぼんやりとしていた。私はカフェの席に座り、目の前のスマホをじっと見つめていた。メッセージの通知は一向に来ない。
「今日は忙しいから会えない。」
それが彼からの最後のメッセージだった。簡潔な言葉が私の胸に深い寂しさを刻んだ。付き合い始めた頃の、あの情熱的なやり取りはもう過去のもの。今では、彼との会話はいつもこんな感じだ。冷めたような、どこか距離を感じる言葉ばかりが帰ってくる。
私はふと窓の外に目を移した。傘をさして急ぎ足で通り過ぎる人々。濡れたアスファルトに反射する街灯の光。雨が全てを曖昧にしてしまうように、私の気持ちもはっきりしないままだった。
「 このままでいいのかな...。」
生きたくない。そんな事を考えるのは初めてではなかった。恋人に冷められていくのを感じる度に心が少しずつ削れていく。生きる意味も、未来への希望も、だんだんと薄れていくように感じた。こんな関係を続けることに何の意味があるのだろうか。彼が本当に私を必要としていないのなら、自分の存在意義は一体なんだろう。
しかし、それでも私は別れを切り出す事が出来なかった。彼への未練が、そして自分自身への恐れが私を縛っていた。孤独になる事への恐怖。失うことへの不安。どちらも、彼女を生きることに繋ぎ止める細い糸のようだった。
「 でも...。」
私は自分に問いかけた。このまま、この先もずっと、こんな冷えきった関係を続けていくのだろうか。私はカフェのちいさなテーブルに置かれた手をぎゅっと握りしめた。心の中で、どこか小さな声が叫んでいた。
「もうこんな思いはしたくない。」
雨の音が一層強くなり、私の耳に響いた。窓ガラスに打ち付ける雨粒はまるで、私の感情を代弁しているかのようだった。静かに溜まっていた涙が、ぽろりと頬を伝い落ちる。
「もう、終わりにしよう。」
私は決意を固め、スマホを手に取った。そして、震える手で彼にメッセージを打ち込んだ。送信ボタンを押すまでの一瞬が、まるで永遠のように感じた。
「今までありがとう。さようなら。」
メッセージを送ると、私は大きく息を吐いた。胸の奥に詰まっていた何かが、少しだけ軽くなった気がした。外の雨はまだ降り続いている。けれど、私の中には新しい決意が芽生えていた。
私は立ち上がり、雨の中へと足を踏み出した。傘を持っていなかったが、それでも気にならなかった。冷たい雨が体に染み込む感覚が、今の自分を再確認させてくれるようだった。
「 これでいいんだ。」
私は、もう一度だけ力を込めてそう呟いた。
ここまで読んで頂きありがとうございます。最近短編小説を書き始めたのですが、沢山の人に読んで頂きとても嬉しいです!